選べば選ぶほどに窮地となる
神から絶対統治権を授与されたという国王が倒されたのは、
自由
博愛(友愛)
平等
という、当時心震わすスローガンだった。
群衆は、スローガンで暗示にかかる。
そこに大きな矛盾があることを、
自分の頭で考えることを放棄する。
スローガンには、そういった麻薬の効果がある。
よく考えてみればおかしい・・・
自由、博愛、平等・・・
この3つは同時に存在することはできない。
一人の自由を徹底的に謳歌したら、
人は平等ではあり得ないし、
貧富の差が友愛を絵に書いた餅にする。
この3つのスローガン自体が
互いに大きな矛盾をはらんでいるが、
それを仕込んだのも、当時のDSたち(フリーメーソン)だ。
振り替えって「選挙」・・・
今回の参院選でわかったことがある。
選べば選ぶほどに
われわれは窮地となるのではないか・・・
ある政党の党首のYouTubeを見た。
彼は、言う。
「これからは世のため人のためになる政策を
みんなで徹底的に話し合って、
一人一人が政治に参加して行こうではありませんか‼️
でないと、この国は駄目になります‼️」
はて・・・
いったい、何百万、何千万の国民が
いったいどんなシステムで話し合えると言うのか?
意見を聞くだけ聞いて
そうはならないことも多くなる。
ましてや、
どんな風にしたら
一人一人が納得する結果を導けると言うのだろう。
そもそも、
みんなで考えると言いながら、
私たちを選んでくださいという矛盾・・・
僕たちを選んでくださいという矛盾・・・
しかも、彼は続けた・・・
「僕たちは、少数派なので
きっと潰される・・・
潰されたら次出るのは皆さんです!
僕たちのことを受け継いで次出てるのは皆さんです。」
群衆は、当事者になることを嫌う。
(シーン)
彼がこの言葉を放った瞬間、
聴衆にわずかな戸惑いが流れたのをわたしは感じた・・・
(え、そうなの?
次、自分達が立つの?)
そんな風に聞こえた・・・
彼の発言直後の微妙な間・・・
そこにいた大半は、変える当事者ではなく、
変えてくれるであろう人に追随している群衆であった。
彼の演説を聞いて酔うことで、
まるで自分が考えて、変えている、ような錯覚になっただけだ。
その錯覚が、彼の投げ掛けた言葉で解けたのだ。
政治と言う仕組みそのものが、
大きなジレンマを抱えている。
自由というのは、
一人一人違う。
その自由を一人一人全員の分を反映させられる政策って
そもそも可能なはずがない。
決めれば決めるほど、
そこからこぼれ落ちる何か、誰か、が生まれるに決まっている。
政治と言う仕組み、
国会と言う仕組み、
議論を交わすと言う仕組み、
決めれば決めるほど
小さな不満がたまるようにできているのだ。
根本は、
国と代表と群衆と分けられてしまった時点で、
私たちはしてやられたのだ。
(え、選挙って、政治ってそういうものじゃない!?)
そこがすでに洗脳なのだ。
政(まつりごと)の在り方自体を決められているのだ・・・
何百万、何千万を短期間にコントロールすることは難しいが、
国民が選んだという名目の政治家だけならいくらでも洗脳できる。
大衆は、マスコミを使って先付け、後付けすればいい・・・
(現代は、マスコミにより洗脳が先になっている)
あの「自由・博愛・平等」のスローガンのように、
みんなで決める
政治に参加する
一票の重み
そういった心地のいい言葉で、
わたしたちは、何かをごまかされているのかもしれない。
なにかとはなにか?
政治って!?
いかにも高尚そうなおもちゃを
DSから与えられただけにすぎないのではないか・・・
さて・・・
じゃあどうしろって言うんだ!
という声が聞こえそうなので
そっと述べておくが、
今のところわたしもお手上げです。
ただ、ひとつだけ言えることは、
わたしもあなたも
群衆に組み込まれないように用心し、
よい暗示と悪い暗示の区別がつけられる
力を身に付けることです。
I know.
あなたやわたしが何をどれだけ知っているのか?
そこが突破口でしょう。
ひょっとすると、投票率0%が一番いいのかもしれない。
政治の機能も、選挙の機能も
いったん0にすること・・・
国民のいらないという意思表示・・・
彼らから与えられた権利は、
実は私たちを束縛する道具であることが多いですから・・・
彼らDSは、私たちのコントロール術を実によく知っています。
その上を行く「知」がいるのです。
なにせ、DSですから・・・
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theme : いのちあるものが いのちあるように
genre : 政治・経済
