幸せってなんだっけ!?
しかし、幸せというのは、厄介なことに
「慣れ」
が生まれてしまう。
さっきまで、
あのとき、
幸せと感じていたものが、
それだけでは物足りなくなって、
「もっともっと」と思ってしまう。
たとえば、合格という幸せは、
数ヵ月もすれば、
日々の雑多な悩みにかき消され、
子供たちも、ご家族もいつしか不満を漏らし始めるときもある・・・
私だってそうだ。
学生の頃、暑い夏の夜、
扇風機がなく、窓を開けて
自分で団扇をあおぎながら寝ていった。
いまでは、その扇風機もエアコンまである中
夏の夜を過ごせる・・・
幸せそのものだ。
あのときの団扇生活からすれば、
数段上の幸せがいまは毎日ある。
それなのに、その幸せをだんだんと当たり前のように、
日常を過ごしていき、ありがたみを忘れやすい・・・
子供たちの幸せとはなんだろうか?
教育の世界、特に文科省などは、
よく子供たちを人材ととらえることがあるが、
その意味は、
会社で役立つ人材、
いまの社会をもっとよくするための人材、
国をもっと豊かにするための人材ととらえているからだ。
その「もっともっと」の豊かさが、
私たちの幸せだと勘違いさせてくる。
教育の目的は、
この「もっと、もっと」なのだろうか・・・
私は違うと思う。
今よりも豊かになることはもちろん悪いことではないが、
公の「豊かになる」は、
GDPがどうだとか、
世界に負けない新しい技術がどうだとか、
そういう一時的な成長と幸せのことを指す。
つまり、すぐに抜かれたり、恩恵が薄れたりする
生産性や技術のことだ。
その上、生産性や技術は、
幸せを運ぶこともあれば、不幸も運ぶ。
たとえば、技術の賜物であるオンラインゲーム・・・
あれで、子供たちが本当に幸せになったと言えるだろうか・・・
ゲーム漬けの子供たちの脳は「依存」状態になっている。
麻薬依存者と同じ状態だ。
人類のIT技術の進歩が、
人間の脳の神経ネットワークを破壊しているのだ。
仮想空間です過ごす時間が、
現実空間でよりも長くなってくると
仮想空間がその人にとっては現実になってしまう可能性があって
「倫理」すら反転する可能性がないとは言えない。
脳科学と教育の研究者 小泉英明
そんな恐ろしいものと
日常は表裏一体なのだ。
ちなみに、依存と夢中は雲泥の差だ。
依存は自分が何にはまっているのか
周りが自分をどう見ているかが冷静に考えられない。
しかも、誰かによって依存させられていることにも
気がつかない。
夢中は、いわゆる神の領域です。
それでいて、冷静に自分や周りが見えている。
昆虫記のファーブルなどは、
自分が虫に夢中になりながら、
その様子を見る大人を冷静にとらえている。
「変わってる子ね」
といっている大人の声をファーブルは聞いていて
自伝にも書いているそうだ。
いわゆる「離見の見」・・・
ゲームをしている子に、
幸せ?
と聞けば、幸せと答えるかもしれないが、
それは自分の脳が破壊されていること、
本当は自分が何をさせられているのかが自覚できないのだから
幸せからはかなりほど遠い・・・
だから、教育の目的は、
(一時の)幸せ=happiness
ではなく、どちらかというと
(恒久的に)よく在る=well-being
としたほうがいい・・・
もっと端的にいえば、
あの世に持って行けないものと
あの世に持って行けるものの違いだ。
子どもたちがあの世に持って行けるものを
どれだけ経験できるか・・・
それが教育の目的ではないだろうか・・・
そういえば、
以前、潜伏調査で行った高額セミナー会場は、
「happiness」という英語の曲が
永遠に流れていた・・・
なるほど、そういうことだったのか・・・と
いまになって腑に落ちる。
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