1秒さえも自分が決めている
「地球の自転を基にして1秒は
平均太陽日の86400分の1」
それが、
1956年に、
「秒は、暦表時の1900年1月0日12時に対する太陽年の
1/31 556 925.9747倍である」
さらに、1967年に、
「セシウム133 原子の基底状態の
2つの超微細準位間の遷移に対応する
放射の 9 192 631 770周期の継続時間」
そのどれもが、わかったようなわからないような定義だ・・・
この体感できない1秒、
いや、
あえて体感させない1秒が
私たちにとっての灰色の男(モモ)だ
ところが、こういった物理的に決められた1秒よりも、
もっと原初的で、根源的で、先験的な1秒がある。
それは、わたしたちが、
聴覚・視覚・味覚・臭覚などの複雑な統合の時に
脳には正確な1秒が存在しているというのだ。
平たく言えば、その複雑な統合を
正確に1秒使って行っているというのだ。
われわれの中に
1秒が存在している・・・
これは、
「われわれは1秒を測っている」
というニュアンスと微妙に、しかも大きく違うことがわかる。
測っているのではなく
存在している・・・
このニュアンスがわからない人は、
すでに灰色の男に乗っ取られているかもしれない。
お気をつけあそばせ・・・
私たちは、自分で1秒を作り出す、決めている・・・
そう言い換えてもいいだろうか・・・
この「1秒存在論」(sora命名)を私は昨日知った。
それは、最近マドモアゼル愛さんの動画で出てくる
角田忠信氏の本でだ。

それを知って私は確信したのです。
やはり、この世は自動詞だけなんだと・・・
時間さえも 司るわれわれの脳・・・
私たちは、時間と空間情報を統合するために1秒を生み出す。
時間があって、
われわれは観察するのではなく
観察するから時間が生まれるのだ。
わたしたちは、
さかさまを生きるようにごまかされ、強いられているのだ。
わかっていただけるだろうか・・・
時間と空間情報を統合、すなわち観察するたびに
われわれは、時間を生み出しているのだ。
しかも、観察は、われわれが世界をどうみるか、ということだ。
今、悲観していれば、未来は悲観的なものになる。
楽観していれば、未来は楽観的になる。
人によって、会っている時間が長く感じたり
あっという間だったりするのは、
われわれが時間をつかさどっているからなのだ・・・
時間に追われている人は、
時計の時間に従っているだけで
自分の観察と統合を
物理的な時間にコントロールされてしまっている。
だから、子どもたちはありのまま見ればいいし、
乱暴な表現をすれば、ほっておけばいいのだ。
彼らの観察の邪魔をしてはいけないのだ。
わかった、やっと根拠を見つけた気持ちだ!
自分の脳、つまり、
原初的で、根源的で、先験的な1秒を存在させる人は
自動詞で生きていることになる。
子どもたちにそう促せばいいだけなのだ・・・
それでこそ、彼らは彼らの世界を作ることができるのだ。
未来を創ることができるのだ。
ああ、やっとわかった・・・
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