令和buzz48・・・知的謙遜
ひとつは、YouTubeにあげるネタの整理をしている。
もう一つは、たまたま知り合いのお子さんの
バッティング(軟式野球)を指導してほしいと言われ、
(指導というより一緒に楽しんでるだけだが)
もう一度、一からバッティングを研究し始めた。
一つ目は、過去の自分のブログを書き越しして
あいまいだった内容を整理し、
エビデンスを探したりしている。
二つ目は、一応かつてはほぼ3割バッターだった自分も
軟式野球ということや時代が違うということもあって
もう一度バッティングを見直している。
バッティングとは、個性の集まりで
100人いれば100人の打ち方があるが
地球上に住む限り
普遍的な力学がある。
これがポイントだ。
すると、いろいろなことがわかってくる・・・
まず、「過去の栄光」を捨てている最中というわけだ。
知識のアップデートと言ってもいい。
どちらも、きちんともう一度自分が学びなおさないと
説得力が生まれないし、何より自分のやる気が起きない・・・
モチベーションとは、
知らないものを知ろうとするときに起きる。
知識のアップデートはそれほど大切だということだ。
実はこんなデータがある・・・
「知的謙遜の強い人は、
自分が無知であることを知っている故
知識量が多くなる。」
➡「知的謙遜」が強い人は知識量が多いという研究結果
実験1:自分は何でも知っていると思い込んでいた人は、自分の知力(言語、推論、空間把握能力など)を過剰に高く見積もっていた。逆に、知的謙遜が強い人は、正しく見積もっていた。
実験2:自分の知能に自信があると、大学のGPAが高かった。が、意外なことに知的謙遜が強い人はGPAは低かった。
実験3:「他人の意見を喜んで受け入れられる」という文章に同意した人は、嘘のコンセプトを正しく判別することができた。つまり、情報の真偽を判断する能力が高いということである。
実験4:知的謙遜が強い人は、あたまを使う問題に対して楽しんで積極的に取り組んでいた。さらに、新しい体験や知識を手に入れたがる傾向にあった。
実験5:知的謙遜が強い人に次の特徴があった。柔軟に考え方を変えられる。自分の意見とは正反対のエビデンスにオープンな姿勢をとる。利益のため(例.いい学校に入る)ではなく、心の底から知識を欲していた。
知識謙遜とは、
自分の知識の限界を理解していることをいう。
この傾向が強いと、
知らないことを知らないと認めることができたり、
異なる考え方の人から知識を吸収できたりする。
圧倒的に学習に有利なのです。
「ああ わかった わかった」という人が
一番わかっていないのだ。
これは、誰かからあることを聞く姿勢に現れます。
誰かが何かを話し始めたとき、
「ああそれ知ってる!」
というと相手はもうそれ以上話さなくなる・・・
それは、意地悪でもなんでもなく
知ってるっていうから話さない・・・
ただそれだけだ。
だから人と話すときは、
知っている内容が出てきても
とりあえず最後まで聞く・・・
すると何%かは知らないことも出てくる。
そこを相手に詳しく尋ねる・・・
すると相手も興に乗って
どんどん話してくれる・・・
うちの母は、人の話には知恵があるという。
まさにそれだ。
つまり、ソクラテスの「無知の知」が
知識を広げ深める有効な手法というわけだ。
これは知的探求をするものすべてが
心掛けなければならぬことだろう。
私は知っている!
と言った瞬間そのそばから
成長が止まる・・・
私に、「無知の知」という
成長の機会を与えてくれた
YouTubeと野球に心から感謝したい・・・
人生の後半戦・・・
私がたどりつく場所はどこなのか・・・
だから、人生 年をとることが楽しくなるのだ。
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