令和buzz40・・・母と
早いもので、もう3年になります。
なので昨日は、
母と一緒に教会へ行ってきました。
ここでもご紹介いたしましたが
教会は、仏教でいう法事というものがありませんので
自分が行きたいと思った日に
祈りを捧げに行けばいいというシステムです。
もちろん教会は、いつも通りの礼拝で終わっていくので、
その間、自分の心の中で父をしのびつつ感謝を伝えます。
周りの人たちも、なぜ私が来たかを知ることはありません・・・
「ああ、今日はいらしてるんだな・・・」という感じでしょう。
そのインディペンデンスさが私には合っています。
もちろん人それぞれの考え方があるでしょうが、
仏教が本来の姿を失って
まるで葬式仏教専科のようになってしまったのは、
とても残念です。
ブッダにしても
最澄、空海、
法然、親鸞、日蓮
栄西、道元にしても・・・
諸国を渡り歩きながら
己の葛藤と闘いながら
導き出した「理(ことわり)」は
私たちに生きる光となって今も残されているのでしょうが、
生きることより、死ぬことの方に
多額のお金をかけるようす勧める仏教には
「真」も「誠」も見出すことはできません。
先の彼らも
きっと草葉の陰で嘆いているのではないでしょうか・・・
何の特別なセレモニーはなくとも
教会の長椅子に座って
じっと十字架を見、
その袂で眠る父に思いをはせ感謝を残す・・・
帰り、母と味噌煮込みうどんをいただく・・・
ただそれだけの我が家の3周忌でした。
追伸、
母の胸のしこりは
母自身も認めるほど小さく緩み、
おかげさまで元気に暮らしております。
後は初期にできたであろう
芯の部分が残っているそうです。
このまま、きっとさらに小さくなって
健康寿命も伸ばしていけたらうれしい限りです。
ただ、近くの町医者は、
小さく柔らかくなった患部を一切見ないのに、
いまだに手術を勧めるようで、
母はとても嫌がりストレスになっています。
その無責任さには
少々憤りを感じざるを得ません。
「先生」と名が付くものに無条件に従う母世代は
かなり気にはしていますが、
「大丈夫」と励ましている最中です。
それにしても2年半前に
あのまま手術をしていたら
一体どうなっていたかと思うことがあります。
世のお医者さんへ・・・
不必要に、健康で元気に暮らす
老人を脅さないでください。
人となりや患部をよく見て言葉はかけてください。
生きること死ぬことぐらい
本人に決めさせてあげてください。
お願いいたします。
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genre : 政治・経済
tag : 生きること死ぬこと
