樹下石上146・・・永遠のごんぎつね
いつもくりをくれたのは。」
有名な「ごんぎつね」のラストシーン、兵十のセリフです。
うちの生徒が毎回塾に来ると音読しています。
何度聞いても、このシーンが切なくて涙が出そうになります。
生徒の手前、何度かこらえます。
悪さばかりするごんぎつねでも
自分が鰻を盗んだばかりに、
兵十のおっかあが鰻を食べられずに死んだとわかり、
なんとか償おうとします。
お詫びにと、イワシを兵十の家に投げ入れるも
これも裏目に出ます。
なぜなら、そのいわしは盗んだものだったので、
兵十が盗人扱いにされ、いわし売りに殴られてしまうからです。
それにも気がついたごんは
つぎに、栗や松茸を届けるようになりますが、
時すでに遅し・・・
兵十からすれば、
いたずら盗人ぎつねとしかうつっていないため、
まさかごんが栗や松茸を持ってきてくれているとは思いません。
兵十の友達、加助は、栗や松茸を持ってきているのは
神様がそうしてくれているんだといって
せっかく償いをしているつもりでいるごんぎつねを
がっかりさせます。
「おれは、引き合わないなあ」
ごんのこのセリフも
なんだかかわいくて切ないです。
そんな流れでのラストシーンです。
償いをしていたごんとはしらず、
またいたずらをしに家に来たかと
火縄銃で撃ってしまうのです。
わたしは、汚名挽回の機会もなく
せっかくの償いも気づかれずに
殺されてしまうこのシーンの切なさが、
小学生なりに感じられると思っていました。
それがラストシーン・・・
火縄銃の煙に込められています。
「青い煙が、まだ筒口
から細く出ていました」
しかし最近はどうやら違うようです。
以前ネットでも物議をかもしました。
ある小学校の授業後、
この物語をどう思うか・・・
感想文が課題で出されました。
すると・・・
「こそこそした罪滅ぼしは身勝手で
自己満足でしかない、
(兵十はごんの反省を知らないのだから)
撃たれて当たり前 」
その理由は、
「知らずに打ってしまった兵十が一番かわいそう」
ある小学生がこう書いたそうです・・・
私は、これが正しいとか悪いとかを書くつもりは全くありません。
ある意味どんな感想を持とうが自由だからです。
ただ、このごんぎつねには
大人が子供に育ってほしい心があるから
こういう感想が際立ってしまうのでしょう・・・
これは大人のエゴです。
それでも、あえて私が感じたことを書くとすれば、
この感想を書く前の
教師の深め方が不十分だったのでは?
とか
今の大人社会の映し絵として
この言葉が子供から出てきてしまったのでは?
と推察してしまいます。
その映し絵とは・・・
不寛容・・・
私がこのエピソードを読んで真っ先に浮かんだのが
この言葉でした。
間違えた者は
一度も許される機会を与えられない・・・
ましてや、償う機会も与えられない・・・
その子供には
今の大人社会がそう見えているのでは・・・?
そう思ったのです。
間違いをおかさない人間などいません・・・
では間違いをおかしたときはどうすればいいのか・・・
間違いをおかした人にどう接したらいいか・・・
間違いをおかした人に何をしてあげたらいいのか・・・
しかも、この正しい間違いは
立場によって全く変わってくる・・・
そして、いつ入れ替わるかわからない・・・
そして、きっちりとその境目をつけられないことも多い。
また、立場が違うことで生まれる
善悪をどう解釈し、着地点を見つけるのか・・・
その「間」に直面し、心が揺れ、葛藤する場面が人生にはある。
綺麗事ではすまされないこと、
でも、人としての理性を保たなければならぬこと・・・
ごんぎつねには・・・
人間の・・・
本能
無邪気さ
優しさ
冷徹さ
残忍さ
先入観
後悔
承認欲求
生きているうちにしかできないこと・・・
死んでからはできないこと・・・
結論が出ない命題がちりばめられています。
これほどまでに深く考えられる童話はなかなかありません。
だからこそ、ごんぎつねは名作中の名作なのでしょう・・・
わたしは、恐る恐るうちの生徒に聞いてみました。
「最後はどう思った?」
・・・・・
「ごんがかわいそう・・・」
良い悪いは別として、
思わずほっとしているわたしがいました。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
tag : ごんぎつね
