秋、霜降のころ⑧・・・ゼロを開く
昨日は主人公の作者が、「お茶なんてチョロい」と思っていたのに
やってみると全く覚えられずに、目から鱗が落ちるシーンだった。
そして、「私は、何も知らないのだ・・・」
と、つまらないプライドを捨てて
「ゼロ」の自分を相手の前に開く・・・
からっぽになる場面だった・・・
実は大人になると本当にこれができない・・・
できているような人でも実は、
「これ、わっかりませーん」という甘えのもとで
投げ出して丸投げしているか、
わからない自分を、
また習っている自分を、
充実した人生とやらの道具に使っていたり
また、そんな自分をかわいいと思っている勘違いの習い手が多い。
また後者は、永遠に教えてもらうのが好きで
決して、「先生」という「責」を果たそうとはしない。
これは、実際にほんとうに先生になるかどうかの問題ではなく
「先生」という立場まで立とうとする気概ということだ。
本当にゼロを開くというのは実に厳しいものだ。
甘えも、勘違いも挟まない
真摯で毅然とした態度・・・
先生と弟子でありながら
いずれたどり着くであろう山の頂上をコツコツと目指す姿は
弟子の中にすでに、「先生」の姿が遠望できる・・・
そういうゼロだ。
すでに大人の門を叩いていた作者が
20、21で、この姿勢を見出したのは本当にすごいと思う。
話は飛ぶが、
本当にゼロを開く人間は、
決して著作権などケチなことは言わないのでは、とふと思った。
私もレベルは全く違うが
素人なりにダンスの作品をつくり、世に放ってきた。
だからこそ、世の偉大な表現者へは
心からの敬意をはらったうえでこのお話をしている。
もちろん、こころない「バッタもん」や「なりすまし」が
跋扈(ばっこ)する世の中がいいということではない。
でも、
持っているものと持たざるもの
表現するもの、受け取るものが
わるいことを考えずに
互いに真摯な気持ちで
その作品や型を享受することはできないものか・・・
著作権という縛りがなければ
人間の「美」としてのあらゆる「作品」「型」は
互いに楽しむことができないのか・・・
契約という乾いた関係のみでしか
進化させたり、つながったりできないのか・・・
これは、私の日々の疑問だ。
著作権フリーを世に放つ人間は、
このゼロを開いた人間なのではないか・・・
自分が生み出したもの、
自分が作り出したものは
投げ出されて人の世に放たれた時から
自分のものではないと知っているのではないか・・・
いや・・・もともと生み出したものさえも
自分一人の能力で生み出したものではないと知っているからこそ
著作権を放棄するではないか・・・
千利休の時代も今も
茶道に著作権などない。
常にゼロを開く人間は強い。
自分の中からまた滔々(とうとう)と
いのちの泉が流れることを知っているからだ。
背広の型紙や作り方に著作権はない。
料理のレシピに著作権もない。
茶道のお手前に著作権はない。
好きな者、必要と感じた者はみな
自然にこうべを垂れ習おうとする。
本物の「作品」や「型」は
盗んでも盗んでも枯渇することがない
悠々とした泰然さがある。
昨日の樹木希林さんが
「なお過去の映像等の二次使用はどうぞ使ってください。」
と言ったのはさすがだ。
どんな人間も生きている限り
だれかが作ったものの二次使用で生かされている。
私も今、生活の糧をいただいている「型」のすべては
かつての著作権フリーから享受させていただいたものだ。
ましてや、私たちの中で、すべてを独りで生み出したと
声高に著作権を叫べる人間が一人でもいるのだろうか・・・
それを思えば、「著作権!?」ってなるのではないか。
私にはそう思えてならない。
著作権は、
それはあって当たり前という「教育」がされている間に
いのちをはぐくむ「種」でさえも著作権の対象になりはじめ・・・
私たちがぎすぎすした争いを続けている間に
漁夫の利でだれかが潤い・・・
そう考えれば興ざめしてしまう小さなことかもしれない。
日日是好日の作者、森下典子さんも言う・・・
「つまらないプライドは捨てよう」と・・・
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
