秋、処暑のころ⑬・・・玄徳の習得(7)
遅い夏の旅・・・
会いに行った長野の友が言った。
その友は、2年前に長野の浅間山の麓に魅せられて移住された。
この神社参りへの心の変化のお話をうかがいながら
ふとある考えがよぎった。
ここからは、僭越な物言いになることをお許し願いたい。
これこそ「自己表現」と「玄徳」の違いを
如実に表していると思う。
昨今、「神社参り」「神参り」を
まるで特別な自分を演出するように・・・
そして、
そういったことをパワースポット巡りと称して募り、
また、神社参りや神参りをツアー化し、
「スピ系もどき商品・体験」にしているセラピストが多々いる。
本当に多々い過ぎて
辟易とするのだが・・・
そういった人々は、
神々が社にいると思っているのだろうか・・・
ひかえめに、だが、力強く言うが
神は社になどいない・・・
さらに、その神々も
何千年という歴史の中で
すり替えられ、
新旧本末が転倒していることがほとんどである。
そして、この神社仏閣は、
その長い歴史の中で
神仏混淆であるし、
怨霊封じの仕掛けでもあるし
武士たちの休息所、物資補給所であり
負傷した者たちの救援所であり
その修験者は、間者の役割も果たしたし・・・
今でいう物産品を扱う商業プラットフォームだったし
庶民にお金を貸す貸金業だったし・・・
また、戦国武将たちが祈願する代わりに
土地や金品をもらったりする政治的な場所であったし・・・
さらに、金を渡すものが上位に立つのは世の常で
寺社が「武士化」していく流れも、時代のなかでは必然だったし・・・
いまでは、憲法改正の署名用紙が置いてある
とてもとても政治的な場所でもあるし・・・
(神社は、「神社庁」管轄ですから)
とにかくいろいろとある。
(歴史をみれば、そうなることも必然と言えば必然)
つまり、本来の気とかエネルギーという
純粋な部分を汚してきたのは
あとからやってきた人間の浅知恵だし
いままた、そういう「スピ系もどき商品・体験」で汚そうとしているのが
現代の人類ということになる。
首をすげかえられ、
しいたげられた氏族(氏神)が
草葉の陰で泣いてるのに、
あたらしくすり替えられた神(氏族)を
まるで自分の所属神の様にふるまい、
連れて行った皆をその前でかしずかせるのが
いまの「スピもどき系 神参り神社巡り」である。
その友人が神社に行かなくなったのは
浅間の麓・・・
見上げる浅間の峰々・・・
湧きいずる雲・・・
風にゆれる林の木々・・・
樹間をそよぐ風・・・
そのすべてが神だと悟ったからだ・・・
だから、わざわざ神社に行かなくとも
ましてや、セッションルームでエネルギーワークもどきを受けなくても
日々神と対面し、包まれているから、もう十分なのだ。
ある人物に先導(誘導)され神社に行き、
「特別なことをしています感」満載の 神社巡りと神巡り・・・
これは互いに 「自己表現」化した
スピもどき系 キラキラわくわくお披露目会・・・
傷のなめ合いというのがあるが
キラキラわくわく自画自賛会も気持ちが悪いものだ。
そういうことは、心ひそかに自分が信じた(感じた)時に、
信じた(感じた)やり方ですればいい・・・
この友人のように、
すべてに神を見出せる自分に出会うこと・・・
そういう魂魄に育つこと・・・
それを「玄徳」という。
魂(精神)と魄と(肉体)が分離していない
日常の在り方・・・
それが「玄徳」である。
言っていることとやっていることの合一と置き換えてもいい。
誰かに見られるため、認められるための神社、神参り・・・
そういうことを、勧めることも、やることも(金品が行き交うのは言わずもがな)
そろそろやめてはどうだろうか・・・
商品化した「スピもどき系自己表現」・・・
さらに、「スピもどき系自己表現」化した(させる)セッションやセラピー・・・
どれも魂魄分離のままで 実に気持ちが悪い。
きっと誰のためにもなっていない。
