秋、処暑のころ⑫・・・玄徳の習得(6)
そう今はそうたどり着いています。
そして、その自己実現をかなえるための
前段階としての「自己表現」に
私は疑問を持っています。
ましてや、「自己表現」を
「愛」
「人類の癒し」
「地球の高波動」
などと因果、相関関係があるというのは
実に短絡的なのでは・・・というお話をしましょう。
人間が自由に「自己表現」をしつくせば
自然を破壊することも
人間の健康を害することも
人のマイナスの感情が行き場を失いさまようことも
人類は、もう何千年も経験済みです。
光あるところに影があります。
光と影は表裏一体です。
一方だけが、存在することはありません。
そのことを熟慮せずに
「自己表現で地球を癒す」と
短絡的に行動を起こすことは
まさに「木を見て森を見ず・・・」
「葉をみて木を見ず」ということです。
誤解を恐れずに言えば
私たちの自己表現とは
「絵を描く」
「踊る」
「歌う」
・・・
そういった大げさな芸術活動ではありません。
そういうことは・・・そうですね・・・
「遊び」といえばいいでしょうか・・・
子供たちの遊びをじっと見てください・・・
もちろん楽しそうに遊ぶ時も多いでしょうが
時に人のおもちゃを奪ったり
殴ったりして、泣いたり喧嘩したりしていませんか・・・
あれが「自己表現」なんです。
「自己」というのを自由に出そうとすると
どうしてもそういういわゆる「負」の部分が
出てしまうのが人間なんです。
大人の自己表現の場合、
表に出てきませんが、
内部にうごめいているだけです。
見る見られるの対極の中で
「奪う」
「叩く(砕く)」
「抑える」
「威圧する」
そういう部分が出てくるのです。
例えば、一流の人が、一流の人に嫉妬する・・・
これは「嫉妬」という形で、
己の「自信」を奪っているのです。
➡さだまさし 中島みゆきに嫉妬「到底戦えない 別の宇宙を見る思い」
私もまがりなりにも「踊り」を25年ほどやってきましたから
感覚としてわかるのですが・・・
表現とは一種、
自分を守るためにやる部分があります。
「囲い込む」と言ってもいいと思います。
神社の玉垣(タマガキ)に似ています。
結界をはるんです。
でないとオリジナルになりませんから・・・
そこに不法侵入してくる感情や輩を
シャットダウンする時期があるんです。
だからさだまさしも
「僕はどっちかというからすねているから、
カラオケで歌われてたまるかみたいな歌ばかり作るから。
正式には流行歌じゃないんだけどね」というんです。
そうやって自分のアイデンティティーを守って守って
やっとそこを超えたところで見えてくるものがある・・・
それが、「空」の感覚というのでしょうか・・・
もう、奪う奪われるの世界にいない何か・・・
だれにも奪われず、だれにも侵されず
そういう穏やかな境地に至るのです。
奪われても、いくら持って行ってもらっても
また泉のように生まれる何かを持ち、存在する・・・
「高い」からそうなるのではなく
「低く低く広がるから」そうなるのです。
まるで「水」のようになるからです。
「表現」が自分の所属でなくなり
自他、出入・・・融合の境地になる・・・
そこまでいければ
俗的に言う「著作権」とか「侵害」とか
そういう言葉から離れられるのかもしれません。
そういう深い過程を経た「自己表現」は
もう「自己表現」とは言わないのです。
前述のさだまさしさんの嫉妬などは
もちろんこれは受け手側の問題でもありますが
「見せびらかす」という言葉があるように
人間には「表現者側の幼い感情」もあることを忘れてはいけません。
そういう意味で、
「自己表現」→「愛」というのは
幻に過ぎないのです。
「営魄(えいはく)を載(の)せて
一(いち)を抱(いだ)く」
(魂魄が分かれることの危うさ)
そろそろ「玄徳」について触れていきます。
つづく・・・
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
