夏、夏至のころ⑥・・・永遠の素人
そう、わたしは思う。
わたしは、いまひょんな流れでカフェの店主をやっていたり、
塾の塾長(一人経営)をやっているが
プロと思ったことは一度もない。
プロという定義を
「お金をもらうから」とか・・・
「何度やっても同じ結果を残せるから」とか・・・
「その人にしかできないレアさがある」とか・・・
他にもこんなにたくさん考えた方がいらっしゃる。
➡プロフェッショナルとは
しかしどうだろう・・・
このどれかが、もしくはすべてが正解だとして
いったい私たち労働者の何パーセントの人が
「プロ」に当てはまるんだろう。
少なくとも私は当てはまらない。
ある大手民間会社出身の校長の有名な授業がある。
さすがに大手企業出だけあっていわれることが論理的だ。
その人の職の希少性を高めるには
この百万分の一の人材になるといいらしい・・・
ひとつの分野でそれをするのは
いわゆる羽生結弦などのメダリストになることだから
おそらく無理で・・・
わたしたち普通の人?は、
百分の一の価値あるものを3回(3分野)掛けて、
百万分の一になればいい・・・
という論理である。
(百万分の一はオリンピックのメダリスト級の確率らしい。)
はー・・・
ここまで書くだけでも何やら疲れるが
しかもそれは誰にでもできるらしい。
???
わたしは、その方の動画を見ていると「疲れる」し
書いていても「疲れる」のだから、
たぶん誰にでもできない(すでに私が例外だから)と思うが・・・
また、だれにでもできるのなら百分の一でもないと思う。
いわゆるどこかの歌のオンリーワンということだと思うが
人間、オンリーワンもナンバーワンもなるのはとてもとても難しい。
やってみたことがある人はわかっていただけるし
なれないことは本人の努力不足が原因だけではないだろう。
その方は公私ともに「今の教育を変える」というメンバーの
主要な位置にいらっしゃるらしい。
ここからは私の勝手な考えで
久しぶりにこのカードを出して進めたい。
-意見には個人差があります-
この方が厄介なのは
論理的に正しいことを言われているからだ。
「論理的に正しい」でこられると
とても生きにくい世の中になる。
人間とは弱い生き物である。
その弱いはいろいろある。
さぼる
こうげきする
いいわけをする
つづかない
楽をしたい
・・・
この部分が全開な人々は(笑)
果たしてこの論理に納得するだろうか・・・
わたしも見ても聞いても「疲れる」のだから
間違いなく弱い人間である。
また、人間が持つこの弱い部分は
論理で片付く問題だろうか・・・
そして、もうひとつ・・・
「最初に旗を立てたやつが勝ち」らしい。
資本主義では、これも論理的にはあっている。
その証拠の例も挙げられる。
「例えば協会をつくって、それで何か教科書をつくって、
検定つくっちゃって、会費とって、家元制にする。
これでお金がものすごい流れ込んだんですよね。」
だから
スピ系、占い系、自己啓発系の分野で家元制が多いのか・・・
と納得(論理的合点)したりするが
自分はやりたいとは思わない。
たしかにこれは、
資本主義の合法的、合理的仕組みである。
しかし、わたしはこの仕組みが嫌いである。
嫌いというのは、まったく論理的ではない。
でも、この論理的でない私の感情が、
「論理」より優先してしまうのである。
もし・・・
この「論理」でないと生きていけない・・・
「レア」にならないと生きていけない・・・
という無言の社会的圧力があったら
わたしはまちがいなく病気になる(笑)
また、嫌いな理由は明らか・・・(ここは論理的)
子どもたちにそういった胴元制の世の中を残したくないからだ。
巻き上げる側にも
巻き上げられる側にもならずに
フラットで 自由に 気楽に
生きていく世の中を残したいから
そういったことに加担はしたくない・・・
昨日父のことを書いたが
父が背広職人(テーラー)になるのに
もちろん修業した親方がいる。
しかし、
その親方から独立した後、
一切の家元制はない。
中間マージンも定期的に親方に納める上納金もない。
正真正銘の暖簾分けだし、独立である。
だから父は
誰気兼ねなく、自由に仕事をし
自由に遊んだ。
なぜ今はそうならないのか・・・
いつまでも子分、弟子を抱え込もうとするのか・・・
わたしには不思議でならない。
背広の型紙に著作権などない。
親方から学び、技術を身に付け、一人前になれば
親方と同じ土俵で職を全うする。
そこにもう上下はない。
著作権やら家元制やらで
始めるときも、そしてそれをやり続けるときも
なんらかの上納金(会費)を出し続けないといけない世の中は
ほんとうに「普通のこと」なのだろうか・・・
論理的であることは確かに大切な要素だが
論理的に正しければ、
みんなが気持ちよく生きられ、
問題が解決するというのは少し違う。
弱いから強くなれとか
弱いからほおっておかれてもしかたがない、
自己責任だというのは
人間が、考えることを放棄し、
智慧と共感を出し渋る、
かえって怠惰な状況だということになりはしないだろうか・・・
そして、論理は往々にして損得と絡まる。
だからやっかいなのだ。
どうやら「論理」というのは
いのちをこねくり回すのが好きなようだ。
そろそろ梅雨が明けそうだ。
論理の外で人間が気楽にやさしく生きられるように・・・
夢想家と言われようが、
わたしはいつもそんなことを考えながら
塾のソファーでまったりと子どもたちを待っている。
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