夏、芒種(ぼうしゅ)のころ③・・・お手本
何のお手本かというと「随筆」のお手本だ。
お手本と言えば、思い浮かべるのは
習字のお手本。
むかし、習字教室に通っていたときいただいたあのお手本だ。
たいていは、右利きなら机の左側において よく見て書く。
下に敷いてトレースすることをなぞり書きというが、
学校ではよく
「なぞり書きしてはいけませんよ」
と言われ、たしなめられた。
しかし、実はそのなぞり書きも
習字のひとつの修練方法らしい。
手本を数枚用意し・・・
手本を上からそのままなぞる「なぞり書き」→
お手本の上に半紙を敷き なぞる「敷き写し」→
そして、手本を左において模写する「清書」
一点・一画を丁寧になぞり、
形や筆づかいを手本から からだ感覚でなぞる・・・
手本の息づかいをなぞるこの方法は
昔からある書の練習方法のひとつで
れっきとした書の上達方法らしい。
わたしはこういった書き手の息づかいが手に取るようにわかる
「随筆」のお手本を探しているのだ。
どういった言葉を選んでいるのか?
どういった文体を?リズムを?
改行は?
随筆の真髄は おそらく
そんな how toではないのであろう。
そんな中出会ったのが石牟礼道子さん・・・
実は、出会ったというよりは、再会である。
いわずとしれた
「苦海浄土」(くがいじょうど)の作者である。
「くかい」ではなく、「くがい」とあえて濁点で表記している。
水俣の何たるかを 薄っぺらい私に突きつける本だ。
正確には、「本であろう」である。
まだ読めずにいるからだ。
「苦海」とは仏教用語。
大海のはてしないように、
はてしない苦につきまとわれ、
さいなまれている世界のことで
輪廻転生を繰返す 六道の世界を海にたとえていうらしい・・・
「苦海浄土」・・・
高校生の時、なにかの授業で紹介された。
しかし当時・・・
読んでみたい気持ちに少しはなったが
いまよりももっと薄っぺらかったあのころの自分には
決して開けることのできない重い扉のような本だった。
いまはやっと・・・
石牟礼道子という存在の・・・
重い異界の端に・・・
ようやく触れることができるようになった。
この本は石牟礼さんの遺作である。
偉大過ぎる人は、
亡くなったことでやっと近づける世界を持つ。
書道に例えるなら、
やっと「なぞりがき」ができるようになったにすぎない。
石牟礼さんの文に流れる普遍は「いのち」である。
晩年、自身もパーキンソン病を患った彼女・・・
高度経済成長の気楽なしっぽに生まれたわたし・・・
苦海の中、彼女が突きつけるいのちを
おぼつかない手でなぞれる年齢に来たのかもしれない。

