夏、小満のころ⑯・・・詩歌のちから
明日から、「芒種(ぼうしゅ) 」です。
「小満」のなごりに、今日は「か・かた・かたち」のお話・・・
常々、私が思うことがあります。
最終的に事実や心情を伝えられるのは、詩歌しかない・・・
そういうことです。
写実的なドキュメンタリーだけでは、
肝心なことが伝わらない場合がある、ということです。
詩歌には、エネルギーの行き来が生まれる場があります。
最小限に削がれた言葉の中だからこそ生まれる磁場があり、
そこで、詠み手(作り手)と読み手(作品に触れる側)の
いのちが行き交うのです。
若いころ、ある私立高校の教員を
一年だけさせていただきました。
その高校は、いわゆる偏差値的にはあまり高い高校ではなく
生徒の中には、劣等感や家庭の事情から
荒れる子が少なからずおりました。
いつもどこか投げやりなその子たちが
自分を肯定的に認められるようになるには
どうしたらいいか思案しました。
たどり着いたのは、毎日生徒たちが帰った後、
ある詩人の詩を 後ろの黒板に書き写すことでした。
その方は、須永博士さん。
(ソフトボールの上野選手もこの詩集に励まされたと
動画で見たことがあります)
詩を選ぶとき、その日その日に、
落ち込んでいる生徒の顔を思い浮かべながら
その子に向けての手紙のように書きました。
ある朝、教室に行くと
「先生、この詩わたしに向けて書いたでしょ。」
そういってきた生徒がいました。
ドンピシャ正解でした。
わかるんですね・・・
詩歌にはそういう力があります。
そこで、冒頭の「か・かた・かたち」のお話・・・
この「か・かた・かたち」は、
人間の「認識プロセス」(とらえる)と「実践プロセス」(やってみる)を表す言葉です。
建築家の菊竹清訓氏が1969年に提唱した理論です。
認識のプロセスは〈かたち〉→〈かた〉→〈か〉の順に
実践のプロセスは〈か〉→〈かた〉→〈かたち〉という順に・・・
そうやって段階を経るという理論です。
そして、この二つの流れは
らせんを描くように立体的に循環する・・・
そういう考え方です。

なんのこっちゃと思われるでしょうが
私なりに簡単にいってしまえば、
〈かたち〉・・・目に見えるもの
〈かた〉・・・目に見えるものと見えないものをつなぐ「空間」「依り代(よりしろ)」
〈か〉・・・目に見えないもの
弓道、茶道などの芸道に〈かた〉があるのは
目に見えない何かとつながりたいという人間の心が
「道」になったからではないかと思います。
またこれは、芋虫が蝶になる過程ともよく似ています。
さなぎの中で、芋虫のからだはほとんどすべてが溶けて、
さらに全くはじめから再構築(蝶)し、空へ旅立ちます。

今回お話した生徒たちは
〈かたち〉・・・須永博士さんの詩を見る
〈かた〉・・・須永さんが描いた世界を自分の感覚でとらえる
〈か〉・・・須永さんと自分の感情との共通点を見出す
🔄
〈か〉・・・共通点は「いのち」だと気が付く、自分の根っこに気が付く
〈かた〉・・・自分の感情や存在を肯定的にみようとする気が起こる
〈かたち〉・・・自分の行動をあらためてみたい、やってみようと前向きになる
校則がどんなに厳しくても
子供たちを変えることがないのは
そういった「立体的な間と流れ」がないからです。
たった一つの詩が
生徒たちを変え、人間に勇気を与えるのは、
〈かた〉という「詠み手(作り手)と読み手(作品に触れる側)のいのちが行き交う場」が存在し、
そのらせんの頂点で、そのいのちが次の〈かたち〉へと昇華するからです。
理屈では語れない詩歌・・・
学校の国語の詩歌で正解が一つなのは
とても残念でなりません。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
