夏、小満のころ③・・・自己の解放
「はい!」
わたしは迷わず手を挙げた。
ほかにも数人いた。
中学でダンスと言えばフォークダンスだった。
高校では、最悪のダンス経験・・・
「はい!波になりましょう!」
みんなで手をつないでウエイブ・・・
それがダンスの授業だった・・・
「何が面白いんだろう、こんなもの・・・」
それにしても、好きな人を聞かずに
嫌いな人に手を挙げさす・・・
面白い先生だな・・・
大学のはじめてのダンスの授業・・・
ダンスの先生らしい・・・
チャコットのパンタロンをはいていた。
※チャコット・・・バレエ、ヨガを始めとしたダンスウェア、ダンス用品を取り扱っている店。
その先生は、とてもはきはきとした好印象の先生だった。
あとから聞くところによると、私の大学入学とともに赴任・・・
またまた不思議なめぐりあわせだ。
出合うときには出会う・・・
そして、別れねばならぬ時には
容赦なく分かれる・・・
人生とは、その人にとっての必要な出会いと別れが用意されている。
それは、人間が操作できない。
そのころのわたしは、そういうことを
肯定的にとらえられるようになっていた。
さて、その先生のダンスの授業は、1時間目から
今まで経験のない、どこか不思議な体験だった。
知らず知らずのうちに、
恥ずかしいという気持ちも
めんどくさいという気持ちも消えていき
どんどん心の鎧が取れて体が軽くなっていくのだ。
「踊り」といえば、小さいころからクラッシックバレエをしてきた人の
特別な身体能力がないとできない…みたいなイメージがあった。
私には無理だ、踊れない
だから、恥ずかしい・・・
普通そうなる。
ところがその先生の授業は、いまある身体能力で
どんどん表現を楽しめるように持っていくのである。
印象に残っているのは、何時間か過ぎたある日・・・
「イメージのバスケット(籠)」という授業だった。
黒板に、「イメージのバスケット」「鳥」
と書いて、どんな鳥が頭に浮かぶのかどんどん言わせる・・・
「大空を悠々と飛ぶ鷲」
「親子で並んで歩くアヒル」
「田圃を素早く直線で飛ぶツバメ」
・・・
いろいろ引き出していっては黒板に書く・・・
「波」とは大違いだ・・・
具体的に言葉にしていくことで
どんどんイメージが膨らみ、身体が準備し始める・・・
わたしは
「傷ついたインコ」と答えた。
幼少のころから、インコはもちろん
文鳥に孔雀、メジロ、ニワトリに、フクロウ、鷹・・・
我が家には鳥が入れ代わり立ち代わり同居していた・・・
父が好きだったからだ。
鳥のイメージはたくさんあった。
たくさんイメージを膨らませて
イメージが動きにつながる準備をする。
その準備が身体を連れていき始めるころ
即興で踊るのだ。
音楽はない。
先生が持ってきているタンバリンが唯一の音。
その緩急させるタンバリンの音が絶妙なのだ。
たくさんのイメージ、言葉、からだ・・・
ことばのない踊りは、イメージが支えている・・・
イメージするとは、脳に映像を流すことだ。
ダンス初心者は、それがなかなかできない。
単に「波」「鳥」と言われても体がこわばってなんとも動けない。
それを助けるのが「イメージのバスケット」だ。
そのイメージをなぞるように・・・
自分のイメージを自分が模倣するならできる。
このイメージのバスケットというレッスンは、
それまでの固まった体(頭、脳)を解きほぐす役目を果たしていたのだ。
いつしかわたしは、保育園の学芸会を思い出していた。
「ブレーメンの音楽隊」
犬の役だった。たくさん犬の役がいたが、あの時
「上手だね~」
と先生に言われ、嬉しかったことを思い出していた・・・
「ああ、そういえば自分は、表現するの好きだったな・・・」
そんな遠い記憶さえも呼び起こさせるほど
体が解きほぐされていくのがわかった。
からだが勝手に動き出す・・・
自分のすべてを空間へ放り投げる解放感・・・
恥ずかしいという気持ちはもうない。
自己の解放・・・
ダンスの最初の醍醐味を知った授業だった。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
