「比較」という遊び ~ 2016年 弥生“宙結び”の申言(さるごと) ~
「人は比較から完全に逃れることが出来るのか?」

年をとるとだんだんと穏やかになる。
それは性格もそうだが
心の常の状態がだんだんとそうなる。



その理由のひとつに「比較する」という道具を
手放し始め、自分を含めた周りの状況が
「これはこれでいい」と思えるからである。

人は生まれてから「認識」という概念で世界を把握する。
この認識ごっこがとても楽しいんだと思う。
乳幼児の頃は光の濃淡だろうか・・・
手が自由に動き始めると
舐めたり、噛んだり、触って落としたり・・・
いろいろと違いを試している・・・

認識するためには、対象の「違い」に気を配らないといけない。
そこでおのずと「比較」というツールを見につける。
バナナとりんご・・・
黄と赤
長いと丸い
甘いと酸っぱい
しっとりとツルツル
認識のために使われる言葉や数字も入ってくる・・・

青年期になれば
人が何を持っていて
誰と付き合っていて
どこの学校に行って・・・
そういうものと自分を比べるのかもしれない。
中見からハズレ、本質からハズレ
外身に認識のウエートが高くなるのもこの頃だと思う。

いつも間にか「認識」というレベルを超えて
上下・高低、量の多少、などが「比較」のウエートとなる。

比較が単なる認識のために使われているうちはいいが
そのうちに「価値」というフィルターを使って
「自分」と「他者」を認識し始め
勝手に劣等感や優越感を持つ。

劣等感も優越感も心の状態としてよくないのは
ともに単なる「認識」という枠を超えて
都合のよい「価値解釈」をそえながら
「良い」「悪い」に縛られるからである。
重く、心が不自由になるからである。

世界は「比較」にあふれている。
消費を促す商品は比較され
選ばれるために必死に「差別化」される。
目を開いて世界に立てば
ついつい比較という道具を使い始める。

そこで生まれた冒頭の疑問である。
生まれてからずっと
認識のために使い続けてきたこの「比較」というツールを
完全に手放すことは出来るのだろうか・・・

それはきっと難しいのだと思う。
自分が自分であり続けるためには
「自分」を認識する以上、
そこには「比較しながら認識する」という要素が含まるからである。

まあ、人間は何とヤヤコシイ存在なのか。
持っていていいけれど
持ちすぎると害が生じる・・・
そういうものがいくらでもあるようだ・・・

私たちは油断するとすぐに比べ始める。
そこで・・・
ちょっと重くなったなと思えば
少し下ろしてみる 降りてみる・・・
何事もホドホドに・・・これがコツでであろうか

私は死ぬまでに「比較」からどれほど自由になれるのだろうか・・・

「比較」は単なる遊び・・・
重くなるほどのことではない・・・
自分のいのちを
出来るだけ自分の近いところに置いておきたい。
「これがわたしです」
わたしという いのちは
いつもわたしの中にしかない・・・
人生はそれを確認するだけの旅なんだと思う。

次回は、昨日行われたタロット・アシャイングについてご報告いたします。
