秋、秋分のころ⑨・・・台風25号も緩和チャレンジ
これ以上、日本列島に災害が起きないように・・・
で、今回も緩和チャレンジです。
数霊25・・・得ではなく、徳を実行すること。
家族への感謝を伝えよう・・・
コンレイ=数霊57と66
57・・・笑顔を忘れず、白いものを着たり、食べたりしましょう
66・・・自分が持つ優しさを発揮しましょう。
自分より弱い立場の人たちの助けになる生き方を心がける。
いまのところ、米軍の進路は日本と決めたわけではないのですが
あらかじめ心づもりしましょう。➡「米軍台風進路予報(計画)」

最近の台風は、上陸したらだんだんと弱まるというかつての常識は通じません。
弱まると電磁波を継続的にあてていますので
気を付けないといけません。

アラスカあたりからでしょうか・・・

(各国にもっと細かく点在しています)
よろしければ、上記のことを日常で気を付けながら
「台風緩和チャレンジ」にご参加ください。
それと細かい情報は、こちらが詳しくていいと思います。
不安を煽るばかりのTVや気象庁よりよほど落ち着きます。
➡Windy.com
➡宇宙用電力システムによる天気管理 抽象
「宇宙ベースの電力システムと宇宙で生まれたエネルギーを使って気象を変える方法。宇宙ベースの電力システムは、接続構造を使用せずにシステム構成要素の適切な位置決めおよび整列を維持する。電力系統要素は軌道に投入され、フリーフローティング電力系統要素は、制御システムを用いて適切な相対的位置合わせ、例えば、位置、向き及び形状に維持される。宇宙ベースの電力システムからのエネルギーは、ハリケーンなどの気象要素に適用され、天候要素を弱めたり散逸させたりするために気象要素を変更します。天気要素は、ハリケーンの目のような気象要素のセクションの温度を変化させること、気流を変更すること、または気象要素の経路を変更することによって変更することができる。」
あとはこちらで、電磁波の様子も見られます。
➡MIMIC
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
秋、秋分のころ⑧・・・樹木希林のメッセージ
縁があって長野上田市で成人を迎えた若者に
手紙を書いていたことがわかりました。
クローズアップ現代です。
その番組最後に紹介されていた
教師を目指す若者にあてた手紙です。
今のベテランの教師でさえも
こういうことを言ってくれる人が少なくなりました。
私が目指してきた教師像を
樹木希林さんがズバリと言ってくださっていて
あらためて
「ああ、これまでも、これからも、、これでいいんだ・・・」と
おだやかに感嘆の声を上げた一節でした。
拝啓 ゆり乃さん、
法華経の薬草喩品 第五番にね
太陽も雨も風もわけへだてなく降り注ぐって書いてあるの。
だけど木のもつ性質でうまく育つものもいれば 根腐れする樹もある。
陽が当たりすぎて枯れるかと思えば
日陰だからきれいに咲く花もある。
て、生徒も同じ。
それぞれの性質によく耳をかたむけ聞いて
その子が一番輝く場所を共に探す。
教育って教えるだけでなく、
寄り添い共に育つことかもしれない。
それが面白くなったら、
ああ、教師になって幸せーっっっョ。
樹木希林
亡くなった人は、いなくなるんではなく
ちゃんと胸のなかにいてくれている・・・
まさにそうなんです・・・
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genre : 心と身体
秋、秋分のころ⑦・・・この地球に「3つの間」が与えられたわけ(4)
手間は文字通り「手」を使い、
時間は「待つ心」の妙を教えます。
味噌・醤油、酒が生まれるのは
すべて「手間」と「時間」のなせる業です。
では「空間」は何でしょうか?
「空間」は「からだ、身体」だと思うのです。
つまり、ヘソ、丹田を動かすこと。
「わざわざ会いに来ていただいて・・・」
「きちんと向きなおって話を聞く」
「ひざをつき合わせて・・・」
という価値は、からだを移動しないとできません。
どんなにバーチャルな世界が進んだとしても
私たちにからだがある限り、
この「わざわざからだを使う」という作業の魅力は
決して消えないでしょう。
例のeスポーツであっても、
もともと各家でオンラインでつながって、
キーボードをたたき、コントローラーを握りしめて
画面に向かえばことは足ります。
しかし、わざわざホールを貸し切って
観客まで集めて、本物のアスリートのように
「プシュー!」と煙(ドライアイス?)を浴びる
登場シーンをわざわざ演出してまで開催するのは、
私たちがいかに空間の魔力に惹かれているのかがわかります。
しかも、プレーヤは互いに向き合って(へそを向き合わせて)います。
本当の格闘技みたいです。
3D、VR、ARが進み、拡張現実, 仮想現実が広がりを見せても
この身体が空間を移動する醍醐味は私たちから消えることはないと思います。
これからは3D、VR、ARが進めば進むほど
この身体へのフォーカスは強くなると思います。
いえ、逆ですね。
からだから離れられないから
3D、VR、ARの技術が進むのだと思います。
私の周りには、その「空間」の達人が多いです。
思い立ったら車でひとっ飛び、東京への方や、
人づて、子供さんづてでも大丈夫なのに
わざわざ、伝言をされに見えたり、
足を運んで野菜を届けてくださったり
地蔵のことをブログに書くと
すぐに関の地蔵盆に足を運ばれたり・・・
「時間」が待つ心・・・つまり受け身の妙だとすると
「空間」は能動の妙でしょうね。
自らが「空間」を移動することで
「手間」「時間」を味方につけるわけです。
「わざわざ」という手間は
「待っている人」のこころを温める「時間」つくります。
「ありがたいなー」ということになるのです。
郵送やITが主流の世の中で
自分のからだを使って「空間」を移動することは
人生を楽しむ最大の方法でしょう・・・
自らが止まって風を待つのもいいですが
自らが動いて風を起こすことも「楽しみ」を生む方法です。
もうお気づきかと思いますが、この3つの「間」は
ひとつを楽しむと他の二つが連動し始めます。
そういう3つの間を私たちはこの地球上で与えられたのです。
効率や生産性も時には大事ですが、
そればかりでは、わたしたちのこころは
カラカラに乾いた砂漠のようになってしまうのです。
一見不自由に感じるこの「間」は、けっしてそうではなく
むしろ、使いこなせば我々に自由な風を吹かせる
素晴らしい「仲間」なのです。
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AddCafe10月の予定('ω')ノ
現在の沖縄の状況はこちらを☟
皆様どうぞお気を付けください。
なお、「台風緩和チャレンジ」と人工台風についてはこちら☟
秋、秋分のころ③・・・進路は、また日本と決めた模様
秋、白露のころ⑦・・・人間性なき科学(人工地震初級編)
来月のAddCafeの予定です。
来月もよろしくお願いいたします。

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秋、秋分のころ⑥・・・この地球に「3つの間」が与えられたわけ(3)
よく「人生がつまらない」という人がいますが
それは全く逆の意味に導かれていることに
気が付いていないだけです。
例
①「時間がありすぎて暇だと勘違いして、詰まらない」
➡実は、何もすることがない時間を
有効に時間をつかえていないだけ。
もしくは、本来自分がすべき「手間」をさぼっているだけ。
②「忙しすぎて時間がないと嘆いて、詰まらないと愚痴る」
➡忙しい時間をどうやって楽しみに変換できるのかの術を知らない
もしくは、その忙しい時間は本来自分のやりたいことではない・・・
または、あえて忙しくすることで何か大切なことを見ないようにしている
そういうことだと思います。
「つまらない」=「詰まらない」
つまり、隙間がある、風が吹いているということです。
「つまらない」を本当に「「つまらないもの」にしている人は
実は「手間」を惜しんでいるのです。
先ほどの例で行けば、
①は、本来「手間」をかける部分をすっとばして
外注しているか機械化しているので
妙な暇ができるのです。
逆に②は
無駄に「手間」掛け過ぎて、かえって必要な暇さえもなくして
本来の自分を見失っています。
人生とは、この隙間と風を楽しむことだと気が付けば・・・
「詰まらないなー」は、「風が吹いて気持ちいいなー」ということになるのです。
あなたの友人で「人生がつまらない」と嘆く人がいたら
「ゆったりと隙間の風を楽しみなさい」ってことだよといって
祝福してあげてください。
人生を楽しむことは、
「風」が吹くこと=詰まりがない状態
と、ぜひ覚えておいてください。
余談ですが、
人はどこかで「手間」をかける言い訳を用意しているものです。
例えば、さんざんおいしいものを食べ過ぎて
あとからお金をかけてダイエットや断食をします。
これなど、自分も気を付けないといけませんが(笑)
ちょっと笑える自作自演の「手間」です。
そうやって遊んでいるのが人間です。
そういう滑稽なことをするのも人間なのです。
そういう「滑稽さ」を、
落語のように自覚していればいいのですが
世の中にはそれを自覚せずに真剣に
価値ある「手間」を取っていると思い込んでいる人もいるので
それは、はたから見ると本当に「間抜け」になっています。
できればこういう「手間」ではなく
本来の「手間」に戻るべきですが・・・
20代のころ、いづれ来る30代40代の目標にしていた歌です。
「時間」と「手間」について、
自分の「潔さ」を育てる歌です。
平凡すぎる毎日と今を嘆くよりも
追いつく自分の弱さを追い越していきたい
渡辺美里「BELIEVE」
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秋、秋分のころ⑤・・・この地球に「3つの間」が与えられたわけ(2)
私たち地球にいきる人間に
こうして与えられた3つの「間」(時間・空間・手間)は
きっと神様からのプレゼントです。
人間が使いこなせばこなすほど
どんどん見方になってくれる大切な「仲間」です。
私たちがこの3つの「間」を使いこなせば
肉体を持っていても自由になれるということです。
例えば時間・・・
確かに「今」という「時」をいきることはとても大切です。
後悔というのは、心が過去に縛られて今を楽しめないことですし、
心配というのは、未来に縛られて同じく身動きできない状態です。
「いまが大切・・・」
よく、スピリチュアリストはこのことを言います。
でも、時にその物言いが
とても薄っぺらいものに聞こえるのはなぜでしょう・・・
それは、わたしたちはこの「今」だけでは
人生に味わえないようにできているからです。
つまり、「今」だけが大切で、
時と時の「間」である、「時間」が
どうでもいいというわけではないからです。
いや、むしろ、「人生の玄人」は
いまを大切にしながら「時間の妙」を手の中におさめているのです。
よく「時間が解決する」とか
「時間薬」というように、
「時間」は私たちの「後悔」「心配」という毒を
中和してくれる大切など道具です。
時が経過する「間」がなければ
私たちの人生はもっと苦しく、つまらないものになるでしょう。
この「間」の妙が、私たちの本当の「悦び」なのです。
数時間、数日で終わってしまう「楽しみ」ではなく
神様の粋な計らいの「悦び」なのです。
人生そのものに制限(寿命)があることで
私たちはその制限を存分に楽しめます。
寿命がない苦しみは、若狭などに伝わる
「八百比丘尼(はっぴゃくびくに)伝説」でもわかります。
寿命があることで、私たちのいのちは輝きますし、
昔を思い出しては心が暖かくなったり、元気になったりします。
これは「時間」という粋な計らいがなれれば
味わうことができません。
そういう意味で「時間」は
人生を味わうのに欠かせない調味料のようなものです。
つづく・・・
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genre : 心と身体
秋、秋分のころ④・・・この地球に「3つの間」が与えられたわけ(1)
3次元空間に生きています。
そこに「時間」をいれると4次元の世界だといわれます。
ドラえもんのポケットです。
先日、定期的にお参りすることが大切と
水子参りのお話をさせていただきました。
➡秋、秋分のころ②・・・たまには散歩
この「定期的」=「時間」をかけるということは
この3次元の世界ではとても大切なのです。
もっといえば、この「時間」を楽しむために
生きているといってもいいでしょう。
今日から、いつか書こうと思っていた「時間」について、
そして、それも合わせた3つの「間」について、
日頃私が考えてきたことをお話しさせていただきます。
実は、人間がこの地球上で生きていく上で
いつでも楽しみ上手な方はこの3つの「間」を
上手に使われています。
意識するしないに関わらず、です。
三つの間とは、
時間・空間・手間・・・です。
それをうまく使うと「仲」という風が吹きます。
「仲」というのは「中」であり、実は「風」と関係があって
自由に吹きわたる風のことです。

また、その風が吹くと、肉体を持ちながら
風が吹いたように、自由に爽やかな生き方ができます。
もちろん苦しみがなくなるということではなく
「苦は、苦の中にいて、苦のままで楽である」
の境地に近づくのです。
以前の記事➡十年、をちこち・・・84
その風が吹き渡る「間」にできる人間関係を
「仲間」といいます。
もちろん、文字通り 人の仲間も生まれますが
「風」が吹くことが重要です。
「風」がない人間関係は
・足の引っ張り合い
・上下関係の強制
・どちらかが犠牲
・損得でつながる関係・・・
など、
いわゆる人間関係で悩む「仲間」となります。
「風」が吹いていると、
気のいい「仲間」が周りにできます。
利害関係、損得関係ではない、
本当に気の置けない「仲間」です。
その仲間は、自立個人でありながら互いに助け合いつつ、
縛りあいのない、気の向くまま、
風のようにふるまえる自然体同士です。
実は、先述した、定期的にお参りすることは
この3つ(時間・空間・手間)を
うまく使っていることにつながります。
「時間」・・・定期的に、時を取る、暇という隙間を取る
「空間」・・・足を運ぶ、場を変える、思い馳せ忍ぶ(足を運べない人は思いを馳せるだけで移動したことになる)
「手間」・・・手を合わせる、花を手向ける、お線香をあげる
生きていくなかでこの3つをうまく使えないことを
「間抜け」(マヌケ)というのです。
間抜けは、詰まり詰まった状態で息苦しく
結果的に生き(息)にくくなる・・・というわけです。
つづく・・・
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
秋、秋分のころ③・・・進路は、また日本と決めた模様
台風24号は、その時までずっとのろのろで西北西へ進んでいました。
進路も定まらなかったとか・・・➡強い台風24号さらに発達中 今後の進路、依然定まらず
それにしても、ここまで予想が定まらないのなら
巨額の資金を投入して予想する環境を整えても仕方がない気がします。
気象庁のスパコンはいったいどうしたのでしょう・・・(苦笑)と思っていました。
今日の朝見ましたら、
北寄りに大きくカーブし始める予報に切り替わっていましたので
おそらく今回も日本をターゲットにするようです。
人工災害について学びたい人はこちら➡秋、白露のころ⑦・・・人間性なき科学(人工地震初級編)

(米軍予想)

(日本もそれに合わせて進路決定)
人工ですから、変更可能・・・
勢力を増大し補強しつつコースを変えています。
西日本、北海道、関西・・・
私たちの周りにもブルーシートが充てられた屋根や壁が
ちらほらと目につくようになっています。
どこまでも繰り返させないためにも
まずは「人工災害」について知ってください。
そして・・・
またまた「緩和チャレンジ」したいと思います。
数霊24・・・優しさ、女性性
「最近イライラが続いている場合は
心穏やかにご自身の優しい気持ちを発揮なさってください。
琴を奏でる趣味のある方はぜひ優しい曲を演奏してください。
優しい音色で弦楽器、ギターやハープなどを奏でるのもいいと思います。」
チャーミー 数霊91・・・直感、玄米、共有
「考えることと直感のバランスを考えましょう。
日頃どちらかに傾きやすい人は、そのバランスを考えて・・・
ご自身の家族を愛するように、他の人たちの家族も愛する気持ちが大切です。」
よろしければご一緒に・・・
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
秋、秋分のころ②・・・たまには散歩
で、当日の朝、ごみを出しに行きます。
いつもは車でビュッと行ってしまいますが
今日は、天気、空気、気分の3つの「気」が
そろってよかったので、散歩がてらゴミ出しに・・・
帰りはついでに少し遠回りで
ぐるっとまわって帰ってきました。
途中、光徳地蔵さんもお参りもしてきたのですが、
ここはいつ来ても本当にきれいにされていて
そばには不意に来てもいいようにお線香の箱も置いてあります。
ご自由にどうぞ・・・という感じです。
当番なのかボランティアなのかそれはわかりませんが
実にお心遣いが行き届いたきれいなお地蔵様です。
お店の「菩薩行(相談行)」で
女性から水子さんのご相談があります。
そういう方が決まって
「どこの水子供養に出かければいいでしょうか」とお尋ねになりますが、
私は、「特に大金を払ってまで、
大きなお寺に行く必要はありませんよ」と
アドバイスさせていただきます。
大金と水子の供養の度合いが比例するわけではありません。
大切なのはその子のことを
感謝をもって定期的に思い出してあげることです。
そして、このお地蔵さんのように
きれいに掃除が行き届いて
地域で大切にされているお地蔵さんのところに定期的に行って
お参りをしてあげるだけで十分です。
できれはご自身でも少し掃除をされて
帰ってくれば立派な供養となります。
わたしが観じさせていただいた赤ちゃんは
どの子もみんな、お母さんやそのご家族を
恨んでいる子は一人もいませんでした。
どちらかというと今でもお母さんのことを
大切に見守ってくれていたり、
次に生まれたご兄弟姉妹をあやしていたり、
時期を置いて再びお子さんになって生まれてくることもあります。
そういう意味で「水子が憑いているわよ!」という脅しで
金品を巻き上げる霊能者は少し遠ざけたほうがいいと思います。
供養は、例えば、毎月一回定期的に個人で地蔵参りされたり
旅先で出会ったお地蔵さんにそっと手を合わせるだけで
その子はもう十分お母さんの気持ちをわかってくれます。
どうぞご安心を・・・
今あるいのちを今ある環境で精いっぱい楽しく生きてください。
それがその子たちの何よりの願いでもあるのですから・・・
世の中には、かつてそういう経験のある女性や
さまざまな理由でそういうことをなりわいにされてきた女性の
「罪悪感」や「劣等感」を巧みに利用して
大金をまきあげる「スピリチュアル産業」があるのも事実です。
大切なのは、お金の額や儀式の仕方ではなく、
心からその子のことを思う気持ちや
自分の人生を大切に思う気持ちであるということを
どうぞ忘れないでください。
あ、散歩のお話でしたね(笑)
散歩をすると
思考の片隅に程よい空間ができて・・・
リラックスして「文字」が紡げます。
天気、空気、気分・・・
ホント、いい朝でした。
秋、秋分のころ①・・・わたしは、わたし
秋分の節気は・・・
地球の赤道を延長した天の赤道と太陽の通り道の黄道がちょうど交差したところが黄径0度。
秋分とは、太陽が黄径180度(秋分点)を通過するときのこと。春分と同じく、太陽が真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じになります。
極楽浄土があるという真西に太陽が沈むことから、亡くなった人をしのぶ日とされています。
春分・秋分の3日前から7日間をそれぞれ春の彼岸、秋の彼岸とします。
※春分・秋分は「彼岸の中日」といいます。彼岸は日本独自の行事です。
「暑さ寒さも彼岸まで」と言われ、この日を境に寒さが増してきます。
という時期だそうです。
文字通り、秋分の日というのがありますが、
節気として期間があるとは思いませんでした。
近くの小学校では運動会が催されているのか
ラジオ体操の音が聞こえてきます。
それにしても、9時から始まって
25分間、いわゆるお偉い方々のお話があってのラジオ体操。
この「お偉い方たちのお話」っているんでしょうか・・・
もうこういう旧体制をやめてもいいと思うのですが・・・
大人にとっての当たり前と
子どもにとっての当たり前が
大変解離している時代が
「現代」なのではないでしょうか・・・
もう大人のやり方を
子供に「あたりまえ」として植え付ける時代ではありません。
もちろん子供には未熟なところが一杯ですが
それは大人も同じこと・・・
私は子どもにいろいろな自分を見つめてほしいと思っています。
十人十色と一言でいうのは簡単ですが、
日頃大人からどういう言葉をかけられているかで
「見つめる力」は全く育たなかったり
深く育ったり・・・本当にさまざまです。
「・・・してごらん」
「・・・しようか」
「・・・はどう?」
「・・・してくれる?」
英語の
Please
Let's
Why?
そういう問いかけはすごく大切です。
もちろん言いなりになることでも
言いなりにさせることでもありません。
まずは聞いてみましょう・・・。
子どもの話を10分でも聞き続けるのは
大人にとって苦行です(笑)
自分の意見を述べず
聞き続けることは本当に大変です。
そうして、子どもたちが(もちろん大人も)
「わたしは、わたし」になるまでには
実に多くのインプットとアウトプットがいります。
大人でも難しいこの「わたしは、わたし」・・・
せめて大人の私は、
子どものそれを邪魔しないでいたいです。
樹木希林さんの一人が語り・・・
今年、あなたはひとつ歳を取る。
その度に、歳相応にとか、
いい歳してとか、つまらない言葉が、
あなたを縛ろうとする。
あなたは、耳を貸す必要なんてない。
世間の見る目なんて、
いつだって後から変わる。
来たことのない服に袖を通して、
見たことのない自分に心躍らせる。
他の誰でもない「私」を楽しむ。
そんな2017年が、
あなたには必要なのだから。
年齢を脱ぐ。
冒険を着る。
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秋、白露のころ⑮・・・泣きたくなったとき
世の中には色々な涙があるけれど、ひとりでいる時に泣いてしまう「涙」って、自分の限界までやってきた人にしか流せないものです。
— しいたけ. (@shiitake7919) 2018年9月19日
だから、そういう時は結果じゃなくて、「今が情けない」じゃなくて、自分を少しだけでも褒めてあげても良いんじゃないかって思います。
しいたけさんのつぶやきを見てふと思い出した。
金華山と長良川・・・
もうかれこれ30年以上も前の話。
22才の春は、いろいろな意味でしょげているときでした。
同級生の中で唯一教員採用試験に落ち、
臨時採用のためのエントリーや今後のことを考えて
悶々としていたのがこのとき・・・
きっとだれもが人生で一度や二度
この取り残されたような
なんとも言えない寂しさを
抱えたことはおありではないでしょうか。
若い頃というのはとにかく視野が狭く、
自分の非力さに対する苛立ちとあきらめを
いったいどこにしまい込めばいいのかわからなくなるときがあります。
教採に見事に落ち、一時実家に帰っていたわたしは、
こころが落ち着かなくなると必ずといっていいほど
金華山を見上げる長良川の河川敷きに車を止めて
ゆったりとうたた寝をしていました。
なんともいえず、ポカッと浮いてしまったあの時期・・・
虚無感が時折流れたあの時期、
長良川のほとりは、本当に心安らぐ陽だまりでした。
中二から抱き続けた夢の教員への道を
再確認するために、長良川で禊を受けていたのかもしれません。
今日は、母を訪ねる日・・・
ドライブがてらきっとあの長良川のそばも通ることでしょう。
敗者復活をさせるのは、人それぞれでしょうが、
私の場合は、ずっと変わらずそこにある里山や里川がそうでした。
川と山が、もう一度生かされるいのちを与えてくださいました。
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秋、白露のころ⑭・・・韓国歴史ドラマの面白さ
私には寒いと感じだ夜。
今年初の毛布で寝た。
まあ、途中、蹴飛ばして寝ているので
意味はないが・・・
さて、最近も韓国の歴史ドラマが面白い・・・
韓国歴史ドラマの面白さは、
ドラマに出てくる衣装、風習や慣習、儀式や法の一部が
日本のそれとよく似ている部分があって
「ああ、これが伝わったのか・・・」と
伝播する経緯が想像できるからだ。
例えば連判状・・・
何か事を起こすときに
裏切者が出ないように互いを監視するサインだが
先日、それを円形に書くシーンを見た。
円にする意味は、だれが主犯なのかを不明にする狙いがある。
横に書けば、最初の人物がリーダーだとわかるからだ。
これは、日本の江戸時代に
農民が一揆をするときに書かれた円形連判状と全く同じだった。
そういう楽しみ方ができるのがお隣韓国のドラマだ。
もう一つの楽しみ方は、
韓国の歴史ドラマは、日本の歴史ドラマのように
「さも本当にように・・・(歴史に沿っている風に)」という狙いは全くなく、
描く監督、脚本家によってストーリーや人物設定が根こそぎ違う。
つまり、演出重視で史実はほぼ無視という感じだ。
たとえば、韓国三大悪女の一人「張禧嬪」チャン・ヒビンは
ドラマ「トンイ」と「チャン・オクチョン(ヒビン)」とでは全く別の描かれ方をしている。

トンイとチャン・オクチョン(ヒビン)の「悪女/良女」が全く逆転するだけでなく
トンイでは全く表現されなかった、針子「チャン・ヒビン」が描かれている。
日本のドラマでも描かれ方ひとつで
善悪が変わることはよくあるが
職まで違うのは驚きだ。
違うことが嫌味ではなく
それが「演出」として素晴らしいものになっているのだ。
その理由の一つがわかった新聞記事に出会った。

韓国では、50以上の
国公私立大学に「映画・演劇学部」があるらしい。
演者だけではなく、脚本家、プロデュサー、照明、
他にも戯曲論、演出論、伝統芸能など、
舞台に関する今昔表裏すべてを学べる。
それにくらべて日本ではせいぜい私立に10前後。
内容も薄い。
人口比では、10倍以上の差という。
日本は芸術の産出は、伝統芸能でない限り
主に個人の能力に依存している。
または、大半がコネでつながっているのかもしれない。
うまくもない歌、棒読みセリフの役者・・・
若く、プロダクションが強いというだけで
TVや映画に出れる芸能人も多い。
若いときにちゃんときたえないので、
やがて「時分の花」(若いからうけるだけ)で終わってしまう。
一方、韓国の場合は、
国がその育成と支援を担い、厳しく育てる。
実は韓国だけでなく、イギリスなども
専門の育成センターがあり
ダンサーを育てるための助成金が
国から潤沢に支給されていたりする。
以前も日本の高校生ダンサーが、
韓国でデビューしたいと、かの地に修行に出かけ、
あまりの厳しさに泣き崩れるというドキュメンタリーを見た。
芸術育成という点では、日本は昔から疎いが
いまそれが歴然の差となって表れ始めているのかもしれない。
「なるほど」とひざを打った。
韓国は、エンターテイメントを育てる気概が違うのだ。
それは産業にまで発展し、経済貢献をしている。
韓国のドラマが、なぜ奥が深く、面白いのかがわかった。
日本では「そんなことでは食べていけませんよ」というが
その「そんなこと」に中に芸術部門は多い。
しかし、私の周りでも
その食べていけない職業を望む生徒もちらほら出てきている。
俳優やダンサー、演出家、舞台効果・・・
イラストレーターに、アニメ作家、画家・・・
今の子どもが、親御さんに芸術関係に行きたいと言って
頑張りなさいと言える「大学」「高等教育」の機関が少なすぎるのだ。
昨今の日本では、
即お金にならない人文系の大学はいらないと
極端な効率主義が広がりつつあるが
芸術とエンターテイメントもまさにそれに入っているようだ。
(国の助成金が即お金になる研究に多く出るので
大学の研究そのものが、スポンサーの国にこびたような
狭い世界になっていることもある。)
芸術、それをエンターテイメントまで育てることは、
時間はかかるかもしれないが
まちがいなく人のこころの豊かさと潤いを
名実ともに生み出すと思う。
人口も減少し始め、鉱山資源も少ない日本の宝はやはり「人」。
芸術に関する考え方をそろそろ真剣に考えるときが来ていると思う。
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秋、白露のころ⑬・・・なんのための学力?

「学力テストの成績」=ボーナス支給
アメリカでブッシュJr.のときにも
公立の小学校学力テストの結果で生徒が転校を強いられたり
教員の減給・解雇が行われたり
学校が廃校に追い込まれたりする法律がありました。
「おちこぼれゼロ法」No Child Left Behind Actです。
(2002年制定、和訳がセンスありませんが)
1全国一斉学力テストを3年生~8年生(日本の小学校3年生~中学2年生)に課す。その学科は国語と算数だけで毎年行なう。
2ニ年連続で目標達成に失敗した生徒は、他の公立学校への転校を勧められる。三年連続で目標達成に失敗しても同様で、その生徒を他の学校に移す事が出来る。同時に携わった教員は減給・解雇の罰を与える事が出来る。
3四年連続でノルマが達成出来なければ、その学校への国からの助成金はカットする。教員の大規模な入れ替えやカリキュラムの変更等が出来る。
4五年連続の場合その学校を廃校にするか、民営の学校(チャータースクール)にする。
おちこぼれという言葉を聞くたびに思うのですが
あえてこの言葉を使うとするなら
「おちこぼれ」ではなく
「おちこぼし」・・・
「不登校問題」ではなく
「学校問題」・・・
そういう何気ない言葉からも
お上がどう責任転嫁しているかがわかります。
さて、アメリカの10年15年後が日本と言われますので、
いずれこういう新聞のような問題が
日本でも行われると危惧していましたが、
まさにその通りとなりました。
学力とはなにか?
だれが学力を育てるのか?
学力育成に影響を与えるのは何か?
そもそも10年以上続けているこの学力検査はまだ必要なのか?
こういったことを考慮検討なしに
全く短絡的としか言いようがない方針です。
「競争」は必ず悪いとは言いません。
しかし、どういった動機で競うのか・・・
そこがとても重要です。
子供が身体を爆発させて
無邪気にわーっ!!!とはしゃぎながら走り出す競争と、
無理矢理追いたてられて
「走れ!」と命令されて走るのとでは
人間の尊厳に対する価値観が違います。
そもそも、先生も受け持つ生徒のカラーも十人十色・・・
ひとつの尺度として「学力テスト」が使われるならわかりますが、
一斉一律にそれをもとに評価し、しかも金銭を絡めるとは
ナンセンスを通り越して、害としか言いようがありません。
アメリカでは、この「おちこぼれゼロ法」のために
あらかじめ答えを教える先生が増えたり、
こころを込める誠意ある先生が解雇されるという事態を招きました。
やがて公立の学校が統合&民営化され
授業料が高くなり、貧困層が義務教育に通えなかったり、
たとえ通えたとしても、遠くバスに乗って1時間から2時間もかかるという
最悪の事態になりました。
また、小中で低学力の子は、高校生になっても
学校についていけません。
その後、
低所得家庭児童向け医療保険基金から11億ドルの削減もあり
低所得で低学力の高校生たちは、軍からリクルートされ
軍隊に入って自分と家族を助けようとしました。
(軍隊に入ると、教育・医療・税制など優遇が多いからです)
そして、次々とイラクやアフガンなどの激戦地に送り込まれました。
米国は徴兵制ではないので、国としてこれは効果を奏しました。
その背後にいるのが、人の尊厳などお構いなしの
「世界金融資本家」たちです。
今はどうかわかりませんが、
日本でも、2、3年前の中学、高校生の進路説明会に
自衛隊の方が見えて熱心にリクルートされていたり
志願者の中で、個人的に2次、3次まで行った合格者は
自衛隊の高官が自らが自宅まで高級車に乗って迎えに来て
関東方面の試験会場まで送り届けていたことも事実です。
すくなくとも医療、教育に関しては
過去のアメリカは感心できません。
こういったアメリカの失敗を是非学んでほしいです。
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genre : 心と身体
秋、白露のころ⑫・・・弱さからはじめる
強くない・・・と思っていると
日頃からそこの不調に敏感になる。
一病息災・・・
からだを大切にして
気の合った人と
杯を交わしながら
他愛もない話で笑いあいたい・・・
それだけできれば人生OK!
とそう思っているので
胃が不調の時は
ビワの葉温灸で養生する。
宙言のUさんからビワの葉の効用を教えていただいてから
かれこれ5年ほどになるだろうか・・・
自分でもびわの葉エキスをつくったり
ビワの葉温灸を試みたりと
「ビワの木一本あれば医者いらず」を肌で体験している。
昨日もうっかり温灸に触れてしまい
すぐにビワの葉エキスに浸した絆創膏を貼って寝た。
ヒリヒリしていた指が痛みの取れて
今日はもう何ともない。
再生能力を劇的に助けるビワの葉エキス・・・
千島学説によれば
赤血球が細胞をつくりますので
ビワの葉エキスと赤血球の相性がいいことがわかる。
ビワの葉エキスが赤血球を集めやすくする理由は
いまのところ探求中です。
とにかくビワの葉エキスはホントすごい。
あることを「弱い」と思っていると
そればかり気になって
すぐに病院に行ったり
毎日が楽しくなくなったりするほど
気に病む心配性の方もいるが
「弱い」からこそ
自分の人生の本当に大切なことに気が付けたり
養生のための「ビワ」についての知識と実用が増したり
ビワを介して人と交流が持てたり
結構いいことも多い。
物事は、表裏一体・・・
100%いいことだけもないし
100%わるいことだけもない・・・
私たちのからだはもどかしいほど有限だ。
でも、有限だからこそ、弱い自分に気が付き
人の痛みや悲しみがわかるようになる。
健康な時ほど人は傲慢になってしまうからだ。
そう考えれば、自分の弱さをいたわり
世界の弱さを思いやり
「負」からはじまる「まあるい世界」もある。
負をしりて分しり
無理しり虚をしれば
人生すべて明らめの道
永尾 雄二郎
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秋、白露のころ⑪・・・幽玄

真っ暗な暗闇の一歩手前・・・「玄(くろ)」である。
暗闇というが実は
本当に真っ暗なら何も見えない・・・
目を閉じている「闇」ではなく、
眸をあきながらの「玄」のだ。
あの世とこの世をつなぐ「玄」には
人を妙に落ち着かせる何かがある。
そこにはすべてがあるが
だれにも手につかむことはかなわぬ。
彼方から来てくれる人
こちらから向かう人が
すーっと出会う世界が幽玄か・・・

思いもかけず
長良川の鵜飼いを見ることができた。
小舟に乗る醍醐味は、
船底に身を沈めた時の水面の高さだろう。
水面と自分のへその高さが同じになって
まるで自分が水面を滑っている錯覚になる。
自分が水の一部になった(統べる)ようになる。
へそ(丹田あたり)は
「体感」「同化」と深くかかわっていることがよくわかる。
日本の古典芸能には「序破急」という美学がある。
雅楽や能、狂言に展開される三つの流れである。
始めゆったりとはじまり、
やがて拍が重なり打ち破るようなリズムに変わり「急」をつげ、
結末・収束に向かっていく。
身近なところでは、花火がそうである。

この鵜飼いもまさにそうであった。
すでに古墳時代にはあった生業としての鵜飼い・・・
その「玄妙さ」を解し、大名を接待するために
芸術(ショー)にまで発展させ、
鵜匠の位をきちんと保証した信長の発想と先見の明には驚かされる。
乗船し、初めは1時間ほど水面に船を浮かべたまま
ゆったり食事をしたり、遊覧してくる舞を楽しませていただく。
いわゆる「舟遊び」だ。
なんと船は、飲食飲酒OKなのだ・・・

こういう緩さから始まる。
食事が終わるとその日の川の状況によって
すべての小舟の並び方を変えて鵜飼いが始まるのを待つ。
鵜飼いそのものは20:00前から始まり21:00には終わる。
「ホゥー、ホゥー」
鵜を鼓舞する鵜匠の声が
どこからともなく聞こえる・・・
「カァンカンカンカン!」
小舟をたたく音が追いかける・・・
せわしなく手繰り寄せられる追い綱・・・
流れに合わせて鵜舟が幾船も通り過ぎていく様は「急」・・・
最後の総がらみは寂しささえ覚える。
おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 芭蕉
18:45に乗船してからの2時間ほどを
食事に始まり、ぼんやりとした提灯に照らされる小舟や
水面に映る街明かり、船間を抜ける涼しい風、
雲陰から覗く月などを楽しむ時間は
おそらく今まで経験したことのない実に豊かな時間である。
下流の河口堰ができてからアユは激減したらしい。
➡秋、白露のころ④・・・よみがえれ長良川!
しかも、今年は大雨と台風で
これまで40日以上も鵜飼いが中止になっているらしい。
今年は鵜飼いが中止になった日が多かったためか
この日は鵜飼いに関わる全ての人・・・
船頭さん、案内の方、お団子屋さん、お弁当屋さん、近くのお寿司屋さん・・・
とても楽しそうに話しかけてくれたり、解説をしてくれた感じがする。
鵜飼いを誇りに思われている気持ちが
こちらにまで伝わり、実に温かいひと時だった。
私の母も、そのまた父母も
この近くでこの玄妙を見て過ごしたかと思うと
私まで嬉しくなった。

今年の鵜飼いは10月15日までらしい・・・

近くでお弁当を購入し(仕出しも注文できる)
上着を一枚持って、ぜひお出かけになってはいかがだろうか・・・
きっとご満足される一夜になると思う。

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秋、白露のころ⑩・・・樹木希林 『生きるも日常、死ぬも日常』
わたしのなかで「さん」付けするほどの大ファンでもなく
もちろん面識があったわけでもないが、
ことあるごとにいわゆる、惹かれる方だった。
亡くなられた報を聞き、
あらためてその偉大さがわかる人物・・・
以前、2年半前にも記事にしている。
➡「死ぬときぐらい好きにさせてよ」 ~2016睦月・宙結びの申言(もうしごと)~
亡くなられたのはとても残念だが
好きに死ぬことができたとせめて願いたい。
天下の伊勢神宮遷宮のときも
儀式とか社殿とかそういう「かたち」あるものを
過度にほめたたえなかった。
人のこころや祈りという「かた」に
神を降ろす人の「こころ」を見出し、
過度に「かたち」を求める現代の「無駄」を
歯に衣を着せぬ自然体でコメントされていたのが印象的だった。
その後、
「神宮希林 わたしの神様」という映画もあった。
えてして、俳優と呼ばれる人々は
自然体の立ち居振る舞いができなくなるものだ。
年輪から生み出される「コワいものなし」の彼女の自然体に
まだまだ若輩者の私はとてもあこがれる。
孫娘さんとの共演「あん」のインタビュー・・・
彼女は言います。
「生き死にに対して境目がない・・・」
(遺作は、「日日是好日」かな)
私も気張らず、自然体で見れるときに見てみたいと思います。
「人は必ず死ぬというのに。
長生きを叶える技術ばかりが進歩して
なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。
死を疎むことなく、死を焦ることもなく。
ひとつひとつの欲を手放して、
身じまいをしていきたいと思うのです。
人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。
それが、私の最後の欲なのです。」
樹木希林
余談ですが、本当の画家 熊谷守一さんです。
雰囲気が木ぃじいちゃんに似ています。
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genre : 心と身体
tag : 樹木希林
秋、白露のころ⑨・・・支配欲と愛
世間の若者のようにJファンが多い・・・
最近のJは、
どういうわけか恋愛報道がよく漏れ聞こえてくるが
最近もある生徒の熱烈ファングループのとある男性の
熱愛報道が流れた・・・
まあ、本人は痛くショックを受けているのだが・・・
世間のSNSではかなり過激な反応もいくつか見られたようだ・・・
私たちが若かった頃の昭和にも
熱烈に芸能人を追っかける「追っかけ」という若者が多かったし
恋人や結婚が発覚してショックのあまり泣き崩れる若者もいたとは思うが
今の若者はどうも様子が違う・・・
以下、昭和の年寄りの感想として書く。
ファンをしてきた長さからそのつらさも理解できるが、
熱愛が発覚するやいなや
「それってファンだろうか???」と思われる言動が飛び交う。
塾の生徒が言うには
「プロとして隠しきってほしかった」という
私にとっては何か不思議な意見もあったが、
極端なものに
「裏切られた!」とキャラの人形を痛めつける画像をSNSに流したり
「今まで貢いできてバカみたい。絶対に許さない!」と
ファンサービスをする彼をにらみつけたりするらしい。
相手がこれまでの自分のイメージに合わなくなると
手のひらを返したように憎悪をむき出しにする。
そして、それを抑えることができないようだ。
もちろんSNSでその感情が2倍にも3倍にも広がるのだろう。
そこがネットのすごさであり、怖さでもあろう。
こういう熱愛報道で
「ああ、彼も人間だったよな」と
良い意味であきらめ、認めて、祝福するのが
自然な流れのような気がするが、
こういった攻撃的な行動に走る若者は
どこか「愛」が歪んでいるような気がする。
「かわいさ余って憎さ100倍・・・」
他者への本当の「愛」ではなく
「自己愛」(愛している自分を愛している愛)
「欠乏愛」(愛すことのできない、愛されていない自分の空欄をうめる愛)
「代行愛」(同上)
「妄想愛」(個人として愛されていると錯覚する、自分がイメージした彼しか愛せない)
などと言えばいいのか・・・
そういう自分の愛情の傾向に気が付けない場合もある。
芸能人の彼が自分を個人として愛していると錯覚し
プライベートの彼と芸能人としてファンサービスする彼が
交錯している人もいるだろう。
調べると、
自己愛性パーソナリティ障害の症状とあった。
「自己愛性パーソナリティ障害の症状」 メイヨー・クリニックより
・人より優れていると信じている
・権力、成功、自己の魅力について空想を巡らす
・業績や才能を誇張する
・絶え間ない賛美と称賛を期待する
・自分は特別であると信じており、その信念に従って行動する
・人の感情や感覚を認識しそこなう
・人が自分のアイデアや計画に従うことを期待する
・人を利用する
・劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる
・嫉妬されていると思い込む
・他人を嫉妬する
・多くの人間関係においてトラブルが見られる
・非現実的な目標を定める
・容易に傷つき、拒否されたと感じる
・脆く崩れやすい自尊心を抱えている
・感傷的にならず、冷淡な人物であるように見える
➡自己愛性人格障害ガイド 特徴、チェック、治療、原因
学校や職場にも当事者、被当事者に関わらず
苦しんでいる人がいるかもしれません。
こんなサイトもありましたのでご参考までに・・・
➡自己愛性パーソナリティ障害の人への接し方
なかなか勉強になります。
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genre : 心と身体
tag : 支配欲自己愛性パーソナリティ障害愛
秋、白露のころ⑧・・・無知の知
日本のルーツ(上古代)や自分のルーツを調べたりするのが大好きです。
日本で最古の歴史書といわれる「古事記」「日本書紀」は
歴史の勝者である為政者の意図がふんだんに盛り込まれているため
その信ぴょう性に「一点の曇りだらけ」です。
ですから、自分で調べて落とし込む以外に方法はありません。
またその2冊に便乗した「神社」などは、
歴史的建造物、しきたりとしては
確かに歴史的価値はありますが
祀られている「神」に至っては、
これまた為政者の意図がふんだんに隠れていますので
自分の感性と知性をフルに使って
本当にエネルギーのある「場」を感知しながら
「神とは何か?」を自問しながら
謙虚にお参りするのがわたしの常となっています。
誤解を招くといけませんので付記しますが
わたしは「神」「神社」「祈り」「信仰」を
否定しているわけではありません。
人間が作り出した神に、
人間が作り出した「自分に都合の良いナルシストの物語」に
嫌気がさすだけです。
人間の便乗が作り出した「曇り」を
ささやかな個人として晴れやかにしたいだけです。
おそらくこの旅は、生涯続くでしょうし、
きっと終わりも答えもないと思います。
きっと「これが絶対の真実!」と
たどり着けるものではないでしょう・・・
「壮大なロマン」などと言って逃げるつもりもありませんが
おそらく非力な一人の人間にたどり着ける範囲などは
偉大な先人たちの知恵を拝借したとしても
たかがしれているということです。
世間では、まことしやかに・・・
まるですべてをわかったかのように・・・
「この神社の御利益が・・・」
「この神が○○を叶えてくれる・・・」とか
はたまたぶっ飛んで
「ハイヤーセルフとの対話で幸せに・・・」とか
「ツインソウル、ソウルメイトで幸せに・・・」とか
「日本を救う方法はこれ!」とか
「(○○星の宇宙人言った)君は地球を救う人の一人・・・」とか
どこかの本やだれかから聞いたことがあるようなことを
まるで自分が発見したかのように(乗っ取り)
ブログや商業活動等で自己顕示されているスピリチュアリストが多いですが、
自戒も含めてお伝えします。
そんなに単純ではありません。
是非、ソクラテスの「無知の知」を噛みしめてください。
無知であることを、知っている(自覚している)・・・
ソクラテスは言います。
「彼らは、私と同じだ、善美について知らない。
ただ、彼らはそれを知らないのに知っているつもりでいる、
私は知っているとは思っていない。そこが、違いだ。」
(※彼ら=「ソクラテスより、知恵のある者はいない」と思った友人や賢者たち)
所詮「観える」「観えない」の世界は、
「私はこう感じますけど、あなたはどう思いますか?」
「私は今のところこういう所にたどり着きましたが、
これが絶対ではありません。
あなたはどこにたどり着かれていますか?」
に過ぎないものです・・・
その謙虚さを忘れて「こうだ!」と決めつけるのは
善悪を通り越して、滑稽ですらあります。
人の感性や知性に便乗し、乗っ取る行為は、
さび付いた感性を磨くことなく、
「真実の探求」をさぼったもののする
恥じ入る行為と自覚されるべきです。
実は、この乗っ取り行為は
はるか何千年も昔から行われています。
古くは、高度文明で生きていたシュメール人とその土地を乗っ取り
彼らの歴史や神話、しきたりを乗っ取ったユダヤ人がそうですし、
縄文では、口伝えが主流だったムラの神話、しきたりを、
これ幸いにと大陸から流れてきた難民(敗者)の貴族皇族≒さまざまな氏族が
各地で婚姻、乗っ取りを繰り返していきました。
大きな流れでは、それが文武天皇の「大宝律令」まで続きます。
そういう意味で日本は単一民族などではありません。
さまざまな敗者復活戦が繰り広げられたクニです。

(偉大な先人のお一人、沖浦和光さん)
➡「日本人」はどこから来たのか 沖浦和光
こういった乗っ取りは、歴史的にはかなりの常套手段ですが
特に、スピリチュアリスト個人として探求をさぼることは
決して感心できるものではありません。
「乗っ取り→なりすまし」に至っては言わずもがなです。
なぜなら「真実探求」は「スピリッツの探求」であり、
「魂の鍛錬」です。
野球の選手がランニングを怠るのと同じ行為かと思います。
(とわたしは思います)
どうぞ、その乗っ取り行為から生まれる「スピリチュアル商品や体験」で
安易な「商業」行為はお控えください。
もちろん、長い歴史の中で、真実は
見出した人の数だけ存在しましたので、
これからもどれが真実かはきっと誰にも特定できないでしょう・・・
しかしたどり着けないからと言って
手っ取り早く「乗っ取ればいい」とはなりません。
ソクラテスの「無知の知」と同じで
乗っ取りの自覚がない人が一番大変ですが・・・
人間は「善美」の極みにはたどり着けないのでしょう・・・
しかし、だからといって
「善美」の極みを追い求めなくていいことにはならないのです。
「自分の感受性ぐらい」 茨木のり子

(茨木のり子さん談 より抜粋)
それに、一億玉砕で、みんな死ね死ねという時でしたね。
それに対して、おかしい んじゃないか、死ぬことが忠義だったら
生まれてこないことが一番の忠義になるんじ ゃないかという疑問は
子供心にあったんです。
ただ、それを押し込めてたわけですよね。
こんなこと考えるのは非国民だからって 。
そうして戦争が終わって初めて、
あのときの疑問は正しかったんだなってわかった わけなんです。
だから、今になっても、自分の抱いた疑問が不安になることがあるでしょ。
そうしたときに、自分の感受性からまちがえたんだったら
まちがったって言えるけれども、
人からそう思わされてまちがえたんだったら、
取り返しのつかないいやな思いをする っていう、
戦争時代からの思いがあって。
だから「自分の感受性ぐらい自分で守れ」 なんですけどね。
一篇の詩ができるまで、何十年もかかるってこともあるんです。
秋、白露のころ⑦・・・人間性なき科学(人工地震初級編)
今日も一杯のびわ茶を飲みながら執筆します。
「私の公式は両刃の剣なんだ。
使い方によって幸福も災いももたらす。
その選択は人間次第なんだ」
- アインシュタイン
人工地震はオカルトでも陰謀論でもありません。
れっきとした科学的な技術の進歩から生まれたものです。
しかしアインシュタインも言うように
使い方によっては、人間を幸福にも不幸にもするのです。
その技術が誰の手に渡り、
何の目的で、だれが行使するのか?
それによって全くちがう結末が待っています。
ガンディーが指摘します。
「人間性なき科学」 Science without Humanity
は社会的な罪だと・・・
これは「七つの社会的罪 (Seven Social Sins)」の一つです。
他はこちらを参照➡七つの社会的罪 (Seven Social Sins)
人工地震や台風、進路の変更、津波を起こせる技術は
国連でも存在が認められており
「環境改変技術の軍事的使用その他の敵対的使用の禁止に関する条約」として、
2013年11月の時点で124か国が署名・批准しているのです。
人工地震の話をすると
無関心な方・・・
懐疑的な方・・・
恐怖にさいなまれる方・・・
本当にさまざまです。
どのタイプにしろ
人の感情は止められませんので
仕方ありません。
でも、もし余裕がある方は、
行動してみてください。
事実を事実として知ること学ぶこと・・・
受け止めること・・・
できればひろめること・・・
もし、議員に知り合いがいれば
それらの施設の運用停止を求めること・・・
もし、あなたが初心者であれば「知る」ことから始めてください。
それが「人間性なき科学」を止める第一歩になります。
学びたい人はこちら➡人工地震の基礎知識、歴史、年表
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秋、白露のころ⑥・・・いのちあるものが いのちあるように
教材屋さんがみえた。
どんな少ない冊数でも直接すぐに車で届けてくださる。
本当にありがたい教材屋さんだ。
しばし雑談・・・
実は先日の台風で驚くべきことが起きていた。
県内トップクラスのある進学校では
あの台風のさなか授業があったというのだ!
しかも、授業はやる、来れる人は来なさい・・・
(授業は進むので、来れない人は置いて行かれるということか)
そういうスタンスだったのだそうだ・・・
実は私がいた塾でも15年ほど前までは
台風でも塾はあった。
ただし、身の安全を第一に・・・無理をなさらず・・・
もちろん欠席の場合は振替をする・・・
当たり前だが、迷っておられる方は、
先に振替をご案内した。
そういう感じだった・・・
今にして思えば、会社の方針だったとはいえ
警報が出た場合の学校の基準に合わせるように
社長に進言すべきだったと反省している。
話の進学校は、テスト前ということで
進度が遅れるというのが理由のようだった。
真実は、確かめていないのでわからないが
振替がない以上、危険を承知で、警報の出ている中でやるのは
おそらくそういう理由以外ほかに見当たらないだろう。
今の時代、
古いものと新しいものと感覚が
知らず知らずに大きく乖離し、
気が付くと大事になっていることが多い。
しかもそれが善意、悪意に関わらず加速している。
あの未曽有うの東日本の震災が
わたしたちの何かを変えたのはまちがいない。
昨今のスポーツ界を見ていても
アメフト、相撲、レスリング、ボクシング、体操、バドミントン
合気道、ウエイトリフティング・・・
ぞろぞろぞろぞろ出てきている。
昭和の終わり、「戦い」「競争」「進歩」が疑われ始め、
かわりに「癒し」「ゆるみ」「霊魂」に移行していったように
平成が終わる今、
おそらく「地位」「名誉」「上下」「優劣」が
「いのち」に勝ることはなくなっていくだろう。
次の時代は、商業やスローガンの「癒し」を超えて・・・
本当の「いのち」・・・
わざわざ「癒し」や「いのち」といわなくてもいい「いのち」・・・
「花」や「虫たち」、風にそよぐ「木々」・・・そういう「いのち」に
やっと人間たちがお互いなれるのかもしれない。
話を戻そう・・・
何のことはない。
古いほうが、新しいものたちの変化に鈍感で
古いやり方のまま、それが通用すると思っている思い込みから
大問題に発展しているだけだ。
古いものが、問答無用で新しいものを押さえつけられる時代は
もうとうの昔のできごとだ。
古いものは、本当に気を付けなければいけない。
古いものの「裸の王様」現象は
これからもあちらこちらで噴出してくるのだろう・・・
古いものが「裸の王様」にならない方法がある。
当たり前だが、
組織の存続を保つ名誉や顕示(地位)、または個人の能力ではない。
自他ともに迷ったときには、
「いのちあるものがいのちあるようにするには・・・?」と問うてみればいい。
こたえは至極シンプルになると思う。
いかがだろうか・・・
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tag : いのちあるものがいのちあるように裸の王様
秋、白露のころ⑤・・・名言
しかし、わたしの日常の中で子どもの名言も結構耳にする。
昨日もそうだった・・・
最近は、LGBT教育が進んでいるのか
学校で行われるアンケート用紙にも
男 女 その他
という感じで解答欄ができているらしい・・・
その子がそう教えてくれた・・・。
私 「へぇ~、いまはそうなんだ」
生徒 「でもさ、性別っている?」
実に最先端な感性だ。
私 (なるほどなー・・・)
続けて生徒が言う。
「友達とかさ、(LGBT)とか気持ち悪いっていうけど
〇〇(自分の名)も気持ち悪いって言ってるけど、
自分になんかされるわけじゃないじゃん。
別にいいと思うんさな。
まあ〇〇(自分の名)も、合わせて気持ち悪いって言ってるけど
でもその人がしたいっていうんだからそれでいいじゃん。」
たしかにそうだ。
自分に何かされたり
自分が何かを奪われるわけではないのに
人はよくあーだこーだといいやすい。
(私も気をつけよっと)
今までもその子は名言を放っている。
その子のある行動が不思議で理由を尋ねた。
私 「どうしたらそうなるん?」
私はてっきり言い訳めいた言葉が続くと予想していた。
しかし、彼女は違った。
「〇〇(自分の名)になればわかる!」
完全なる同化を提案された(笑)
これには、笑えた。
たしかにそうだ。
その人になってしまえば何の疑問も湧き起らない。
分離しているから「不思議」になるのだ。
納得・・・
子どもたちと日々会話をしていると
大人だと思っている自分の固まった頭が実にやわらかくなる瞬間がある。
彼女たちの名言は
そのまま子育ての名言だ。
これではどちらが先生かわからない(苦笑)
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秋、白露のころ④・・・よみがえれ長良川!
私の実家は木曽川のすぐそば。
母の実家は、金華山の麓、長良川のそば。
伊吹山系、両白山系の揖斐川は、父の心の故郷。
(今年ソフトの東海大会の応援に行った場所でもある)

20代の初め頃・・・
大学と実家を行き来するうちに
わたしは、勝手にこの三川を
自分のいのちの源と思うようになった。
高校生までは
河の源流も中流も下流も
一本の流れとして思いをはせることはまずなかった。
車やバイクを運転するようになり
実家から堤防沿いを下流に向かい、海まで走った。
あたりまえだが、海に着くのである。
帰りはまた上流に向かって走る・・・
遠くに金華山や伊吹の山々がみえる・・・
これまた当たり前だが、山にたどり着くのである。
はじめて川の雄大さと
途切れることのないいのちの流れを肌で感じた。
その長良川に、今から30年ほど前大事件が起きた。
河口堰の建設だ。
(1988年工事着工、1995年に全ゲート操作)
まだ若かった私はもちろん全くの無知識だったが
直感で「この工事は無理がある」と思った。
多くの反対運動も起きたが
ああいうものは政府が決めてしまえば
簡単に覆るものではない。
御用学者が環境アセスメントを実施し、
「影響は軽微」と主張した。
結果は全く嘘だった。

(H6工事完成、H7、7月本格運用)
学者とは何ですか。
川について知らない人のことですか。
※岐阜県羽島市の漁師 大橋亮一さん(61)
川のことは漁師に聞けばよかったのだ。
ほぼ同じ時期の1997年4月に
諫早湾の潮受け堤防が閉じられ、
どちらも河川や干潟の自然環境を大きく破壊する公共事業として
90年代から社会問題になっていた。
今年五月には
長良川河口堰の開門調査の可否について議論する
愛知県の有識者委員会が開かれた。
➡長良川河口堰、今秋に現地調査へ 開門巡り愛知県有識者委
とても喜ばしい進展だが・・・
河口堰運用から20年以上たっている。
その20年で新たな自然系も生まれ
海水が遡上しては困る農地なども生まれているから
きっと、諫早湾のときと同じで、ことは簡単にはいかない。
農民と漁民の新たな戦いが生まれるかと思うと胸が痛む。
米軍基地でも、こういった公共事業でも
いったん稼働すれば、それに合わせた生活体系、自然体系が生まれる。
すべてやめてしまって元に戻せばいいという
単純な問題でなくなるのが、こういう公共事業の難しいところだ。
それでも私は思う。
望郷の念の強さから
勝手なことを言わせていただければ・・・
多くの是非に揺れながら
できるだけ自然のかたちにもどしていって
肯定、否定の、それぞれの壁を超えていく「智慧」が
人間にはあるのではないかと・・・
諫早湾の問題にその智慧が隠れているのかもしれない。

➡諫早湾干拓で漁民とともに反旗を翻す農民たち
➡諫早湾干拓とは何だったのか
昭和から平成にかけて私たちは多くを失っている。
●学者が有識で、民が無知という図式を抜け出すこと・・・
●政府はこれ以上、金のために余分なことをするのをやめてほしいこと・・・
次の元号では目標にしようと提言したい。
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秋、白露のころ③・・・落語の「ばか」
「なにばかなことやってんだ」
「ばかいっちゃぁいけねえよ」
落語にはよく「ばか」をする人が出てくる。
しかし、この「ばか」は実に愛嬌がある。
また、その「ばか」には嫌味がない。
その「ばか」を噺家も観客も笑いの種にするのだが
本当にばかにして笑うんではない。
いってみれば、落語の中のばかは
間が抜けている人であり
うまくできない人であり
数も数えられないような知識不足の人である。
しかし、われわれは
その人たちと対極にある「賢い」人なんだろうか?
きっと違うと思う。
このたくさんの「できない」は
きっとだれにでもある「ばか」さ=「弱さ」なのではないかと思う。
ましてや、年を取ればみんなそういう「弱さ」を持つことになるはずだ。
落語のすばらしさは、
その弱さを笑いによって許してもらえる安心感と
その弱さゆえに「お互い様ですな」と思いやるやさしさにまで
私たちを昇華させることなんだろうと思う。
現代の学校や職場で、相手をバカにするは、
本当にバカにしているから
バカにしている本人は笑えても
バカにされている側は全く笑えない・・・
周りも笑えない。(もしくは、ボスに合わせてむりやり笑う)
これがいじめだ。
本当の笑いやユーモアは
そこにいる人がみんなどっと笑っちゃうことだ。
「オレってばかだなー」
「わたしってばかよねー」
って互いに笑いあえるのが本当のユーモアだ。
いじめが多いという今の社会は
落語にもっと親しんでゆるんだほうがいいかもしれない。
「お互い様」
「明日は我が身」
そういうやわらかい世界を養えるのかもしれない。
さらに、落語の中のばかは、ご隠居なり、お店(たな)の亭主に
日頃から可愛がられてるバカが多い。
つまり、いつも面倒を見ているから
決して冷たく扱うばかではない。
最近の「ばかにする」は
よく面倒も見ないでばかにすることが多いから厄介だ。
職場でも学校でも
「生産性」「効率性」を重視するので
時間があまりにも早く流れる。
だから、その「ばか」を面倒見る時間が取れないらしく
人はとても「冷たく」なっていく・・・
江戸時代は、時間もゆったりと流れているので
多少の失敗が許されつつ
「おち」によって大笑いで終われる・・・
これはシビアなことだが
これからは、学校にも会社にも
発達障害が5.6人に一人と言われている。
また、もうすぐ3人に一人がお年寄りだ。
➡夏、大暑のころ②・・・本間先生、発達障害まとめ
➡http://pysr2012.blog.fc2.com/blog-entry-1535.html
今後、このやわらかい社会は必ず必要になる。
このやわらかい社会をつくるためにも
落語はとても役に立つのでは・・・
実家から帰る道中・・・、
先日いただいた落語のCDを聞きながら
そんなことをあれこれ考えていた。
またライブで落語を楽しみたくなった・・・
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genre : 心と身体
秋、白露のころ②・・・雲に宿る竜
でも、曇りや雨でも楽しみ方はある。
特に今回の長野の旅は「雲」の旅だった・・・
旅の始まりは、雷雲と雷雨・・・
いつもは絶対に間違えないのに
夜中だったからか、雷雨だったからか・・・
すーっと新名神に迷い込んだ・・・
まさに「山怪」の世界・・・
(「異界百名山」原作「山怪」
本日9月9日15時から再放送!NHKBSにて)
山の「闇」は平地の「闇」とは全く違う。
何かが生まれそうな、そして、何かを引き込みそうな、
そんな「闇」だ。
高知の山でも感じた恐怖と畏敬が
同時に体の下から沸き起こる・・・
どんどん近づく頭上の雷鳴と稲光・・・
近づきたくないのに高速道路だから
近づかないわけにはいかない・・・
味わったことのない恐怖からか
車中であっても首をすくめる。
土山の山頂で雷鳴と豪雨の洗礼・・・
今まで雷に恐怖を感じたことはなかったが
この時ばかりは縮み上がった・・・
町中で見る雷と山頂の雷鳴は全く別物だった。
まさに、人と神の違いをまざまざと見せつけられた。
山中での雷鳴と雷雨は、決して人間を寄せ付けない
「畏れ」の仕業であった。
まあ、必然の20分ロス・・・
結果的にその20分が意味があった。
そのロスのお陰で
山梨の一般道で渋滞に会い
1時間ほど遅れて富士山の北側へ・・・
すべてが遅れたから
あきらめていた富士山を拝むことができた・・・
そうやって久しぶりに出会った富士山は
傘雲(釣鐘雲?)をかぶっておられた。

刻一刻と変わるその雲は
森羅万象、諸行無常・・・

「雲」という漢字は、
「あめかんむり」に「云」・・・
はじめは、云(うん)という象形文字だけで
雲「くも」という意味の字だったそうだ。
のちに雨(あめかんむり)を加えて雲の字となった。
云は雲の流れる形の下に、
竜のしっぽがうちに巻いて現れている形だそうだ。
つまり、雲の中には竜がいると考えられていた。

そういう知識があると
曇りや雨の旅でも
結構楽しめるのではと思う・・・
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genre : 心と身体
秋、白露のころ①・・・母の心
処暑から数えて15日目頃。
この日から仲秋になります。
草の葉に白い露が結ぶという意味。夜の間に大気が冷え込み、草花に朝露が宿ることから名づけられたのでしょう。
野には薄の穂が顔を出し、太陽が離れていくため空が高くなるなど、本格的な秋の到来を感じられる頃です。
日中はまだ暑さが残りますが、朝夕の涼しさの中に肌寒さも感じ始めます。
秋なのに「白」?
日本人からすると「白」は雪=冬をイメージするのが一般的のように思いますが、
中国の陰陽五行では「白」は秋の色とされています。
という節気だそうです。
さて、先日、長野からの遠出から帰ってきたわたしに
「大丈夫だったか?」と尋ねる母・・・
自身のからだよりまず子の身体を気遣う・・・
情けないことにいまだ「子」をしているわたし・・・
そして、母の心に絶大な尊厳を見る・・・
母というもの
親というものの偉大さを
いまの生徒たちに伝えるのも
私の役目・・・
白露の初日、
ラジオ番組「感じて漢字の世界」でも「露」をとりあげていた。
「あめかんむり」に「路」・・・
なかの「各」は祝詞を書いた箱に
神が降りてくる様子を表す言う。
降りてきた神が歩く路(みち)を表すのは左の「足」・・・
母のありがたい是露(こころ)遣いは、
是(まさ)に 露(こころ)=「正」に「神」・・・
ということか・・・
まばゆい白露の珠に頭を垂れる朝です。

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genre : 心と身体
秋、処暑のころ⑯・・・竜胆の花のように
6日未明に起きた北海道胆東地方で地震・・・
こういう大災害が起きると決まって
何目線かわからないトーンの
似非スピ系の方がでてきます。
一部は、脅し系で
「地球が怒ってる」
「人類が愚かだから」とか
一部は、諭し系で
「人類に気が付かせるため」
「地球の波動が上がっているから」とか
一部は、脳内お花畑系で
「台風はネガティブな思考が飛ばされる時」とか
一部は、予知系で
「そうなるとわかっていました」
「こういう予兆がありました」とか
極端にひどいものは
上から目線&悟り切ってます系で
「被災した人は魂レベルでわかっていた」など・・・
本当にあきれるしかない記事を
平気で発信していきます。
あの東北の震災のときは本当に多くいました。
先日の台風もその調子でした。
そして今回の地震も
きっとそういうトーンが出てくるでしょう。
そういう方は、
現地に行って、現地の方に
同じ話ができるかどうか考えてみてください。
きっとできないと思います。
できないことを書くものではありません。
それが誠意というものです。
自分にできることは何か・・・
まずそう考えます。
ほとんどの方が
人知れずそう考えられると思います。
それが陰徳です。
そして、冷静に抑えたいのは
地球の温暖化は本当にあるのか?
人工という可能性はないのか?
そういうことをきちんと調べたうえで
自分の感性で判断し・・・
そのうえで被災された地域や人々に
これからを生きる子供たちに・・・
自分ができることは何か?を問うこと・・・
そういうことです。
「語りえぬものについては、
沈黙しなければならない」 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン
神の存在は知っているが、
神については語らない
ましてや、神がこう言っている、ああ語っているなどは
口が裂けても言わない
神を語れば語るほど
偽物になるから・・・
祈りのすばらしさは知っているが
祈りについては語らない
祈りはイベントや行事ではないから・・・
スピリチュアリティ(霊性)については体現するが
声高に主張しない
スピリチュアリティ(霊性)は特別な人の特権ではないから・・・
まるで竜胆(リンドウ)の花のように
じっと誠実に咲き続ける・・・
竜胆(リンドウ)の花言葉・・・
あなたの哀しみに寄り添う
「銀河鉄道の夜」の竜胆の場面から
私はそう解釈しています。

ちなみに、
最近、北海道で地震が多いな、おかしいな・・・
と思った方は、その感性を大切にしてください。
2016年1月14日 12時25分頃に
北海道浦河沖で震度5弱の地震が発生しました。
そのときも、人工を疑い調べました。
(この年は2016年4月1日 11時39分頃に
三重県の南東沖でも人工地震が起きています。)
そのながれで、2016年4月に宙の言の葉で
CCS(二酸化炭素CO2を地中に封じ込める技術)という技術について学びました。
地球の温暖化を防ぐという大義名分のもと開発実施されている技術です。
➡二酸化炭素回収・貯留(CCS)
➡二酸化炭素削減技術実証試験事業 (苫小牧CCS実証事業)



それは、地震を引き起こす可能性があるというデータもあります。
➡二酸化炭素貯留に地震を引き起こすリスク、米研究
地震爆発論学会も警告をしています。
こういうことを調べて知ったうえでも
「地球が怒っている」とか
「地球温暖化」とか
「人類に気が付かせるため」とか
述べていいものか・・・
自分の知性と感性をフルに活用しなければいけません。
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genre : 心と身体
tag : 語りえぬものについては、沈黙しなければならない
秋、処暑のころ⑮・・・赤い感情と青いインク
けっこう書けるもんだなと我ながら意外に思っている。
それでもわたしは自分が筆無精なのか
筆まめなのかわからない。
手作り市「宙結び」をしなければ
このブログも生まれなかったし
そのころは、市に関する以外の深い日常の感情を
ほとんど書くことをしなかった。
かなりアクの強い自分だが
巷の、ただ、感情をただ書きなぐるような
ブログにはしたくなかった。
そういう「赤い感情」(深いダイレクトな感情)は
こころの中で留めておくか
宙の言の葉、花結びや
菩薩行(相談行)のリアルな場で必要なら言うに留めた。
そこでは、「人の噂も・・・」で
文字にならないので、時の流れにゆっくりと消えていった。
最近はそれを書いてみようと思うようになった。
その赤い感情を「青色のインク」で書けないものかと
思うようになった。
文はきっと「人をあらわす」と同時に
人を育てると私は思う。
一年たった頃、どんな境地になっているか楽しみだ。
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秋、処暑のころ⑭・・・玄徳の習得(8)
生而不有、
為而不恃、
長而不宰、
是謂玄徳、
生じて而も有せず、
為して而も恃まず、
長となりて而も宰たらざる、
是れを玄徳と謂う。
(老子 上編 第十章)
いろいろと訳し方はあるでしょうが、
たとえば、
「自然」は何かを所有したり、
期待したり、取り仕切ろうとはしない。
ただ、そのままに在る。
これが「玄徳」が目指す姿であり、
これは「真」の生活です。
「講老箚記 – 東洋思想・哲学・文化の研究」より
またたとえば、
自分が生み出し大切に守り育て、
花咲かせた「おもゐ」を独占せず、
自慢せず、取り仕切ろうとしないことが出来ているか。
これらを実践することで
「神秘なる徳」が醸し出されるのだ。
「まどゐ。 ~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 」より
つまり・・・
自分が何かをなせる(なせた)としても声高にそれを吠えず
仮にそこから何かが生まれたとしても
それを自分のものだと敷居を立てず、
ましてや、その「先生」なんかにはならず、
それを常に心にとめて日々「生きること」に努める・・
そう私は解釈しています。
ですから、仮に「観える」自分がいたとしても
それができますからなどと人(客)を集めず
ましてや料金など受け取らず
同じように見える人(ファシリテーター)を育てるなどと講座など開かず・・・
そういうことを日々の常として
そういう「徳」を自分の人生に生じさせながら「道」とし、
自然の運行に身をゆだねる・・・
そういう運命を全うできるように
人として素朴に生きていく・・・
そういうことをいつも考えています。
文科省などは2018年度から
小学校で「道徳」の授業を教科化しましたが
(2019年度中学校も)
昨今のお役人の、「玄徳」」はもちろん
「徳」のかけらもない言動を見ていると
「道徳」を学ばなければならないのは、
小学生や中学生ではないでしょう。

(障害者雇用 国機関8割で水増し 3460人)
文科省はもちろんですが、特に、
「水増し人数が最も多かったのは国税庁で千二十二人。
国土交通省の六百三人、法務省の五百三十九人が続いた。」
には驚きました・・・。世の中もうめちゃくちゃです。
せめて言わせてください・・・
わたし、まじめに税金を納めてますけど・・・(苦笑)
わたし、まじめに法を順守しようと努めてますけど・・・(苦笑)
(最近はスピード違反もなく過ごせています)
おまけに、小中の夏休みの宿題で
「社会をよくする運動」
「人権作文」
という作文がありますが
これらを宿題にするのも彼らではなく、
永田町の面々でしょう・・・
日本の日常から「徳」「陰徳」「玄徳」の話が
絶滅危惧種のように消えてきそうですが、
めざす「道」としてこれからも
自分に、そして塾の子どもたちに伝えていきたい・・・
そう思っています。
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秋、処暑のころ⑬・・・玄徳の習得(7)
遅い夏の旅・・・
会いに行った長野の友が言った。
その友は、2年前に長野の浅間山の麓に魅せられて移住された。
この神社参りへの心の変化のお話をうかがいながら
ふとある考えがよぎった。
ここからは、僭越な物言いになることをお許し願いたい。
これこそ「自己表現」と「玄徳」の違いを
如実に表していると思う。
昨今、「神社参り」「神参り」を
まるで特別な自分を演出するように・・・
そして、
そういったことをパワースポット巡りと称して募り、
また、神社参りや神参りをツアー化し、
「スピ系もどき商品・体験」にしているセラピストが多々いる。
本当に多々い過ぎて
辟易とするのだが・・・
そういった人々は、
神々が社にいると思っているのだろうか・・・
ひかえめに、だが、力強く言うが
神は社になどいない・・・
さらに、その神々も
何千年という歴史の中で
すり替えられ、
新旧本末が転倒していることがほとんどである。
そして、この神社仏閣は、
その長い歴史の中で
神仏混淆であるし、
怨霊封じの仕掛けでもあるし
武士たちの休息所、物資補給所であり
負傷した者たちの救援所であり
その修験者は、間者の役割も果たしたし・・・
今でいう物産品を扱う商業プラットフォームだったし
庶民にお金を貸す貸金業だったし・・・
また、戦国武将たちが祈願する代わりに
土地や金品をもらったりする政治的な場所であったし・・・
さらに、金を渡すものが上位に立つのは世の常で
寺社が「武士化」していく流れも、時代のなかでは必然だったし・・・
いまでは、憲法改正の署名用紙が置いてある
とてもとても政治的な場所でもあるし・・・
(神社は、「神社庁」管轄ですから)
とにかくいろいろとある。
(歴史をみれば、そうなることも必然と言えば必然)
つまり、本来の気とかエネルギーという
純粋な部分を汚してきたのは
あとからやってきた人間の浅知恵だし
いままた、そういう「スピ系もどき商品・体験」で汚そうとしているのが
現代の人類ということになる。
首をすげかえられ、
しいたげられた氏族(氏神)が
草葉の陰で泣いてるのに、
あたらしくすり替えられた神(氏族)を
まるで自分の所属神の様にふるまい、
連れて行った皆をその前でかしずかせるのが
いまの「スピもどき系 神参り神社巡り」である。
その友人が神社に行かなくなったのは
浅間の麓・・・
見上げる浅間の峰々・・・
湧きいずる雲・・・
風にゆれる林の木々・・・
樹間をそよぐ風・・・
そのすべてが神だと悟ったからだ・・・
だから、わざわざ神社に行かなくとも
ましてや、セッションルームでエネルギーワークもどきを受けなくても
日々神と対面し、包まれているから、もう十分なのだ。
ある人物に先導(誘導)され神社に行き、
「特別なことをしています感」満載の 神社巡りと神巡り・・・
これは互いに 「自己表現」化した
スピもどき系 キラキラわくわくお披露目会・・・
傷のなめ合いというのがあるが
キラキラわくわく自画自賛会も気持ちが悪いものだ。
そういうことは、心ひそかに自分が信じた(感じた)時に、
信じた(感じた)やり方ですればいい・・・
この友人のように、
すべてに神を見出せる自分に出会うこと・・・
そういう魂魄に育つこと・・・
それを「玄徳」という。
魂(精神)と魄と(肉体)が分離していない
日常の在り方・・・
それが「玄徳」である。
言っていることとやっていることの合一と置き換えてもいい。
誰かに見られるため、認められるための神社、神参り・・・
そういうことを、勧めることも、やることも(金品が行き交うのは言わずもがな)
そろそろやめてはどうだろうか・・・
商品化した「スピもどき系自己表現」・・・
さらに、「スピもどき系自己表現」化した(させる)セッションやセラピー・・・
どれも魂魄分離のままで 実に気持ちが悪い。
きっと誰のためにもなっていない。
秋、処暑のころ⑫・・・玄徳の習得(6)
そう今はそうたどり着いています。
そして、その自己実現をかなえるための
前段階としての「自己表現」に
私は疑問を持っています。
ましてや、「自己表現」を
「愛」
「人類の癒し」
「地球の高波動」
などと因果、相関関係があるというのは
実に短絡的なのでは・・・というお話をしましょう。
人間が自由に「自己表現」をしつくせば
自然を破壊することも
人間の健康を害することも
人のマイナスの感情が行き場を失いさまようことも
人類は、もう何千年も経験済みです。
光あるところに影があります。
光と影は表裏一体です。
一方だけが、存在することはありません。
そのことを熟慮せずに
「自己表現で地球を癒す」と
短絡的に行動を起こすことは
まさに「木を見て森を見ず・・・」
「葉をみて木を見ず」ということです。
誤解を恐れずに言えば
私たちの自己表現とは
「絵を描く」
「踊る」
「歌う」
・・・
そういった大げさな芸術活動ではありません。
そういうことは・・・そうですね・・・
「遊び」といえばいいでしょうか・・・
子供たちの遊びをじっと見てください・・・
もちろん楽しそうに遊ぶ時も多いでしょうが
時に人のおもちゃを奪ったり
殴ったりして、泣いたり喧嘩したりしていませんか・・・
あれが「自己表現」なんです。
「自己」というのを自由に出そうとすると
どうしてもそういういわゆる「負」の部分が
出てしまうのが人間なんです。
大人の自己表現の場合、
表に出てきませんが、
内部にうごめいているだけです。
見る見られるの対極の中で
「奪う」
「叩く(砕く)」
「抑える」
「威圧する」
そういう部分が出てくるのです。
例えば、一流の人が、一流の人に嫉妬する・・・
これは「嫉妬」という形で、
己の「自信」を奪っているのです。
➡さだまさし 中島みゆきに嫉妬「到底戦えない 別の宇宙を見る思い」
私もまがりなりにも「踊り」を25年ほどやってきましたから
感覚としてわかるのですが・・・
表現とは一種、
自分を守るためにやる部分があります。
「囲い込む」と言ってもいいと思います。
神社の玉垣(タマガキ)に似ています。
結界をはるんです。
でないとオリジナルになりませんから・・・
そこに不法侵入してくる感情や輩を
シャットダウンする時期があるんです。
だからさだまさしも
「僕はどっちかというからすねているから、
カラオケで歌われてたまるかみたいな歌ばかり作るから。
正式には流行歌じゃないんだけどね」というんです。
そうやって自分のアイデンティティーを守って守って
やっとそこを超えたところで見えてくるものがある・・・
それが、「空」の感覚というのでしょうか・・・
もう、奪う奪われるの世界にいない何か・・・
だれにも奪われず、だれにも侵されず
そういう穏やかな境地に至るのです。
奪われても、いくら持って行ってもらっても
また泉のように生まれる何かを持ち、存在する・・・
「高い」からそうなるのではなく
「低く低く広がるから」そうなるのです。
まるで「水」のようになるからです。
「表現」が自分の所属でなくなり
自他、出入・・・融合の境地になる・・・
そこまでいければ
俗的に言う「著作権」とか「侵害」とか
そういう言葉から離れられるのかもしれません。
そういう深い過程を経た「自己表現」は
もう「自己表現」とは言わないのです。
前述のさだまさしさんの嫉妬などは
もちろんこれは受け手側の問題でもありますが
「見せびらかす」という言葉があるように
人間には「表現者側の幼い感情」もあることを忘れてはいけません。
そういう意味で、
「自己表現」→「愛」というのは
幻に過ぎないのです。
「営魄(えいはく)を載(の)せて
一(いち)を抱(いだ)く」
(魂魄が分かれることの危うさ)
そろそろ「玄徳」について触れていきます。
つづく・・・
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体