AddCafe7月の予定 ('ω')ノ
夏、夏至のころ⑩・・・本質が流れていく社会
「二十四節気への手紙」を書く。
PCを開けるとすぐに飛び込んでくるのが
「マイニュース」と呼ばれるページ。
芸能
スポーツ
政治
健康
経済
金融
・・・
国内外を問わない、ありとあらゆるニュースサイトだ。
もちろん画面のカスタマイズもできるが
PCで検索をかけようと思えば
大なり小なり、その情報・広告のシャワーからは逃れられない。
ほとんどのものが、
わたしにとってはさほど重要には思えずスルーするが、
たまたま興味があるものひとつでも開こうものなら
湯水のような2次情報・広告が
立体的に押し寄せる。
あるものを調べようとサイトに入ると
四方八方で情報がリンクされている。
1ページ…2ページと探っていくうちに深みにはまり、
一体何を掘り下げたかったのか(本質)わけがわからなくなる。
本質の迷子・・・
よくある話だが、
貴重な24時間の目減りがこうして始まる。
そして、日々どうでもいい情報の波に翻弄されながら
徐々に、大切な本質から目を背けさせられていく。
本質とは何か・・・
朝、窓を開け
風を感じ・・・
においを感じ・・・
小鳥の鳴き声
雲の貌(かお)
遠くで聞こえる車がアスファルトを滑らす音
犬を散歩させる人々の挨拶の声
駐車場の木の葉を揺らす風のゆくえ
・・・
そうやってできるだけ遠くへ自分を伸ばし
一人称の感覚を通してやってくる
生きている証を受け取ること・・・
それが本質・・・
「興味ない!」
いまの子どもたちが何気なくよく口にする言葉・・・
一方、わたしたち昭和人は
「あんまり興味ないな~」・・・
「あんまり・・・~」というぼかしを使いながら
相手との距離の微妙さを表現した。
いまの子どもたちは
「興味ない」という太いマジックで
自分と他者の仕切りをはっきりと付ける。
一見冷たそうに思えるが、
これは、この情報・広告過多の中
彼らが自分を保つために必要な
防衛本能の言葉なのかもしれない。
なんといっても彼らは生まれた時から
ずっとネットがつながっているのだ。
しかし、まじめに気を付けないとついつい流れてしまう。
本来気づかねばならぬ「本質」までもが
どうでもいい情報・広告に隠れ、流れていってしまう。
私たち大人が気を配るのはそういうところなのだ。
本質に気づくため
毎日心掛けること・・・
たとえば、TVやネットで天気予報を見る前に
自分で空を見上げることだし、
今日の運勢を見る前に
自分の体調をからだに尋ねることだ・・・。
情報や広告とは
そういった本質に気づいてほしくないために
わたしたちに仕掛けられている装置(笑)だと気づこう。
いのちとは、一物全体・・・
つながっていること・・・
生きて生かされること・・・
分断された「生存」にしか焦点をあてさせない
情報・広告には気を付けよう。
情報・広告が、
わたしたちの本質としての「いのち」より
多弁になってはいけないのである。
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genre : 心と身体
夏、夏至のころ⑨・・・素人ふたりのチャレンジ
母の乳房のしこりがリンゴ大からトマト大に変わったと書いた。
実はこのブログに書いた日、
母にある大変化が起きていた。
ちなみにわが家は、
よほどのことがない限り電話や報告をし合わない(笑)
たがいに、実家に行ってわかることが多い。
これは、私が若い時からさほど変わらない。
いつもの散歩コースのショッピングモールで
なぜか上半身がびっしょり濡れたらしい・・・
はじめ、汗かきの母は
大汗をかいたと勘違いしたが、
家に帰ってびっくり・・・
しこりの横下にあった大豆大の
二つのおできのような膨らみが破れ、
中からほぼ透明な液体が吹き出たたらしい。
母は、爆発という表現をした。
もともととても薄い皮だったので
いつか破れるかな・・・とわたしは予想していた。
ただ、あまり予告すると
母が不安になるといけないと思い、黙っていた。
今月初旬、実家に帰った折
母から報告を受けて
さすがに私もちらっと動揺したが、
もともと、いつか破裂するのではと想定していたこと・・・
「千島学説」を学んでいたこと・・・

花結びで
を学んでいたこと・・・などに助けられ、
いや・・・大丈夫だ(にちがいない)・・・とすぐに気を取り直した。
何より昨年の9月に病院にはかからないと決心したので
少しの動揺のために、この方針を変えるつもりは 母にも私にもなかった。
ただ、昨年の9月に検査を受けた時、
医者が軽々と口にした告知と脅しの数々(母にとっては)が
意志の強い母とはいえ、やはり恐怖なのだろう・・・
わたしはすぐさま
「大丈夫、よくなっている証拠だよ」と励ました。
前回と前々回・・・
心配をかけまいと母は破裂箇所を見せようとはしなかった。
わたしは母に、千島学説の資料を渡した。
学説に関する動画を一緒に見たり
資料の解説を私なりにした。
破裂からほぼ三週間・・・
今日電話したら、なんと・・・
トマト大が、プチトマト大!になっているという。
もちろん、破れた傷口にはビワの葉エキス湿布をはり続けているし、
見せてもらったわけではないので
なんともいえないが、
わたしは母の健康寿命が延びているのではと思う。
理由は・・・
・しこりがリンゴ大からプチトマト大になったこと(母の談話)
(前回帰省した折、しこりが小さくなったのは服の上からもわかるぐらいになっていた)
・母が今年も10キロの梅を収穫&梅干しづくりをしたこと
・今も毎日2回ショッピングモールに出かけていること
・出ている液体がだんだんと少なくなっていること
・痛みもにおいもないこと
・食事もおいしいと言っていること
・日常生活を普通に送れていること
わたしが、母の症状を聞いても
「大丈夫!」と言えたのは決して気休めではない。
千島学説で、
母のしこりは、不良化した赤血球であり、
出ている液体は、健全になる過程で
その赤血球が白血球になったのでは?と推察したからである。
赤血球分化説である。

(http://www.chishima.net/genri.htmlより)
わたしたちは素人である。
しかし、あくまでも母が健康で普通の生活を送ることに重きを置くならば
検査を受けてから、10か月・・・
ありがたいことに
とてもいい塩梅になっているのではないかと思う。
そして何より、
母の乳房が破れた日も
わたしが「夏、芒種(ぼうしゅ)のころ①・・・健康寿命」を書いた日も
父の月命日、6日・・・
父も
神様も
宇宙も、本当にやさしい・・・



ちなみに、母がやっていることをまとめて挙げておきます。
やり始めた順です。
①びわの葉温灸
②ビワの葉エキス湿布(破裂前も破裂後も)
③姫川薬石を小脇に挟んで寝る
④ビワの種の粉を朝、3グラムほど(小さじ半分)をのむ
⑤疲れているときは、④を晩にものむ
⑥毎日二回散歩
⑦毎日、生きていることに感謝している
ちなみに、母の場合、てきめんに変わり始めたのは
④をし始めてからだと思います。
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夏、夏至のころ⑧・・・服着てないの?
私の好きなガンディが出てきた。
ご存知、イギリスに対しての民族運動で
「非暴力・非服従」を貫いた人だ。
先生!非暴力って
暴力しないこと?
そうだね・・・
じゃあ、非服従は
服を着ないこと?
だぁ~~(笑)(笑)(笑)!!!
(たしかにガンディは上半身裸が多いが・・・苦笑)
また別の子が・・・
あ、わかった!
銃を持たないことだ!
(漢字違うよ・・・)
今どきの中高生は
とにかく大真面目に笑わしてくれます。
いつもこんな感じです(笑)
こういう話を書くと
よく今どきの中学生は・・・!とか高校生は・・・!と
おっしゃる重鎮がいらっしゃいますが、
そうでもありません。
間違いなく今の子供たちのほうが進化しています。
たしかに食生活や
一日の過ごし方での携帯やゲームの位置づけには
気を付けたほうがいいとは思いますが
ソフトボールを見に行っても
ITなど仮想の世界の技術の扱い方などをみても
昔の高校生がやっていたことを
今の中学生がやっていることは
ざらにあります。
そしてなによりも
競争とか戦うという分野を嫌っていることは
退化ではなく、進化ではないかと思うのです。
なぜなら、生命の根本原理は
「共生」だからです。
子どもたちとともに学ぶ姿勢を忘れる大人のほうが
退化かもしれません・・・
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
夏、夏至のころ⑦・・・心の水脈
子どもたちと過ごす時間が増していて楽しい。
「なあ、先生・・・」
「せんせい!きいてきいて!」
子どもたちはめいめいの切り口で
コミュニケーションの扉を開く。
子どもたちと接していて思うことは
「言葉」の大切さ・・・
言葉は、その背景に
「存在」と「思考」と「感情」がかくれている・・・
じつは「言葉」にできるということは
これはこれは本当に素晴らしいことで
内在している感情を
自分が持っている言葉の引き出しから
適切な言葉を選んで、紡ぐ(つなげる)という
大変な作業をしていることになる。
その紡ぐ力はやがて
すべての教科の文章を読み解く力に進化していく。
したがって、彼らが言葉を紡ぎやすい環境で
ゆったりと待っていること・・・
紡ぐのができにくい子はそれを補佐してあげること・・・
けっして命令や決め付けではなく
補佐と提案にまわること・・・
こういったことが安定した心を生み
それが、学ぶ姿勢をつくり
やがて、学力につながる。
だが、自分の感情を表す前に
もっと難しいことがある。
そういった、自分の感情を相対的につかむ力・・・
これが実はとても難しい。
昔流行ったあの言葉だ。
「ここはどこ?
わたしはだれ?」
たとえば・・・
わたしはこれは好きなのか嫌いなのか?
昨日と比べてごきげんなのか不機嫌なのか?
なぜ不機嫌になったのか?
わたしは好きだが、あの子は嫌い?・・・など、
何かを基準に自分の感情の位置を探る作業が前段階で必要となる。
それができるようになれば
あとは、言葉を増やし、紡ぎ方を学べばいい。
じつは、言いたいことが言えない子や
レストランなどでメニューが選択ができない子は
内内でそういった自分の感情の位置の迷子が起きている。
人間は関係の中で生きている。
だれひとり「存在」単独で生きることは不可能だ。
この「関係が常に動く」のが日常・・・
だからこの関係の波に翻弄されて
自分の感情の船がオールを失い、難破してしまうのだ。
「存在」より「反応」がまさってしまうとも言える。
この関係を自分で整理できることで
自分の感情の位置がわかり
心の水脈が整い、生命力が生まれ、やる気が整う。
ご相談にみえる大人の方でも
こういった迷子になっている方が時々見える。
身近に話を聞いてくれる人がいたり
日記を書く習慣があったりすることで
気持ちが楽になるのは、
話したり書いたりしているうちに
関係を整理でき、自分の感情の位置がわかり、
心の水脈が整い、生命力が生まれ、日々のやる気が整うからだ。
だから、近くにそう言う人がいたら
聞いてあげるだけで
すでにそれは菩薩行となる。
人は誰でも
自分のことが一番わかっていないものなのだ。
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genre : 心と身体
tag : 心の水脈
夏、夏至のころ⑥・・・永遠の素人
そう、わたしは思う。
わたしは、いまひょんな流れでカフェの店主をやっていたり、
塾の塾長(一人経営)をやっているが
プロと思ったことは一度もない。
プロという定義を
「お金をもらうから」とか・・・
「何度やっても同じ結果を残せるから」とか・・・
「その人にしかできないレアさがある」とか・・・
他にもこんなにたくさん考えた方がいらっしゃる。
➡プロフェッショナルとは
しかしどうだろう・・・
このどれかが、もしくはすべてが正解だとして
いったい私たち労働者の何パーセントの人が
「プロ」に当てはまるんだろう。
少なくとも私は当てはまらない。
ある大手民間会社出身の校長の有名な授業がある。
さすがに大手企業出だけあっていわれることが論理的だ。
その人の職の希少性を高めるには
この百万分の一の人材になるといいらしい・・・
ひとつの分野でそれをするのは
いわゆる羽生結弦などのメダリストになることだから
おそらく無理で・・・
わたしたち普通の人?は、
百分の一の価値あるものを3回(3分野)掛けて、
百万分の一になればいい・・・
という論理である。
(百万分の一はオリンピックのメダリスト級の確率らしい。)
はー・・・
ここまで書くだけでも何やら疲れるが
しかもそれは誰にでもできるらしい。
???
わたしは、その方の動画を見ていると「疲れる」し
書いていても「疲れる」のだから、
たぶん誰にでもできない(すでに私が例外だから)と思うが・・・
また、だれにでもできるのなら百分の一でもないと思う。
いわゆるどこかの歌のオンリーワンということだと思うが
人間、オンリーワンもナンバーワンもなるのはとてもとても難しい。
やってみたことがある人はわかっていただけるし
なれないことは本人の努力不足が原因だけではないだろう。
その方は公私ともに「今の教育を変える」というメンバーの
主要な位置にいらっしゃるらしい。
ここからは私の勝手な考えで
久しぶりにこのカードを出して進めたい。
-意見には個人差があります-
この方が厄介なのは
論理的に正しいことを言われているからだ。
「論理的に正しい」でこられると
とても生きにくい世の中になる。
人間とは弱い生き物である。
その弱いはいろいろある。
さぼる
こうげきする
いいわけをする
つづかない
楽をしたい
・・・
この部分が全開な人々は(笑)
果たしてこの論理に納得するだろうか・・・
わたしも見ても聞いても「疲れる」のだから
間違いなく弱い人間である。
また、人間が持つこの弱い部分は
論理で片付く問題だろうか・・・
そして、もうひとつ・・・
「最初に旗を立てたやつが勝ち」らしい。
資本主義では、これも論理的にはあっている。
その証拠の例も挙げられる。
「例えば協会をつくって、それで何か教科書をつくって、
検定つくっちゃって、会費とって、家元制にする。
これでお金がものすごい流れ込んだんですよね。」
だから
スピ系、占い系、自己啓発系の分野で家元制が多いのか・・・
と納得(論理的合点)したりするが
自分はやりたいとは思わない。
たしかにこれは、
資本主義の合法的、合理的仕組みである。
しかし、わたしはこの仕組みが嫌いである。
嫌いというのは、まったく論理的ではない。
でも、この論理的でない私の感情が、
「論理」より優先してしまうのである。
もし・・・
この「論理」でないと生きていけない・・・
「レア」にならないと生きていけない・・・
という無言の社会的圧力があったら
わたしはまちがいなく病気になる(笑)
また、嫌いな理由は明らか・・・(ここは論理的)
子どもたちにそういった胴元制の世の中を残したくないからだ。
巻き上げる側にも
巻き上げられる側にもならずに
フラットで 自由に 気楽に
生きていく世の中を残したいから
そういったことに加担はしたくない・・・
昨日父のことを書いたが
父が背広職人(テーラー)になるのに
もちろん修業した親方がいる。
しかし、
その親方から独立した後、
一切の家元制はない。
中間マージンも定期的に親方に納める上納金もない。
正真正銘の暖簾分けだし、独立である。
だから父は
誰気兼ねなく、自由に仕事をし
自由に遊んだ。
なぜ今はそうならないのか・・・
いつまでも子分、弟子を抱え込もうとするのか・・・
わたしには不思議でならない。
背広の型紙に著作権などない。
親方から学び、技術を身に付け、一人前になれば
親方と同じ土俵で職を全うする。
そこにもう上下はない。
著作権やら家元制やらで
始めるときも、そしてそれをやり続けるときも
なんらかの上納金(会費)を出し続けないといけない世の中は
ほんとうに「普通のこと」なのだろうか・・・
論理的であることは確かに大切な要素だが
論理的に正しければ、
みんなが気持ちよく生きられ、
問題が解決するというのは少し違う。
弱いから強くなれとか
弱いからほおっておかれてもしかたがない、
自己責任だというのは
人間が、考えることを放棄し、
智慧と共感を出し渋る、
かえって怠惰な状況だということになりはしないだろうか・・・
そして、論理は往々にして損得と絡まる。
だからやっかいなのだ。
どうやら「論理」というのは
いのちをこねくり回すのが好きなようだ。
そろそろ梅雨が明けそうだ。
論理の外で人間が気楽にやさしく生きられるように・・・
夢想家と言われようが、
わたしはいつもそんなことを考えながら
塾のソファーでまったりと子どもたちを待っている。
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tag : プロ「意見には個人差があります」
夏、夏至のころ⑤・・・三の風
その朝、わたしは髪を切りに
ある駐車場を歩いていた。
いつものハンチング帽をかぶっていた。
めったにハンチング帽が風で飛ばされることはない。
それに、多少の風はあったが、
特別、風が強い日でもなかった。
何を考えて歩いていたか
まったくおぼえていないから
たぶんぼーっと歩いていたと思う。
ふいに突風が吹き
ハンチングのつばをかすめた。
手で押さえる暇はなかった。
一瞬・・・
あっという間に5メートルほどとばされた。
「めずらしいこともあるもんだな」
その時は何気にそう思っただけだった。
が、夕方、父が亡くなったと知らせが来た。
あとからだが
亡くなった時間を知って驚いた。
ちょうど、あのハンチング帽がとばされた時
父がこん睡状態に入り
魂が肉体を離れようとしていたころだった。
父が来ていたんだ。
日頃、人さまのサインは気が付くのに
自分のことになるとすこし鈍くなる。
なかなかうまくいかないものだ(苦笑)
父は腕のいい背広の職人だったが
本当によく趣味に遊んだ人だった。
鳥
花
歴史
バイク
野球
チャップリン
噺(はなし)
・・・
みんな父に教えてもらった。
父がなくなって後、
背広の襟首につけるタグをもらってきた。

古びたその箱の中には
茶色になった新聞の切り抜きが入っていた。

その色から相当昔、父が切り抜いたものだと察しが付く。
父は洋ランのための温室を自分で作っていた。
おそらくその時のものだろう・・・
父 愛用の鳥の図鑑も譲り受けた・・・
鳥にしても歴史にしても
父はよく調べていた。
知識があったほうが遊びも数倍楽しい。
父のまめさが現れる図鑑だ。

子どもは親を選んで生まれてくるというが
もし選んだとしたら
父から人生を遊ぶことを教えてもらいに来たんだと思う。
仕事も大事だが
遊ぶこと、工夫して遊ぶこと、
そして、まじめに遊ぶこと・・・
そういうことを教えてもらったと思う。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
夏、夏至のころ④・・・ニの風
夕方、窓を開け放っていた塾の日・・・
ある生徒と二人だった。
「先生、わたしのランドセル、水色だけど
それにも意味があるの?」
(うーん)
いつものように空に視線が向く・・・
すると・・・
水、火、祭事、縄文、東北・・・
矢継ぎ早に言葉・・・
そしてその情景が出てきた・・・
夜のとばりが下りている・・・
7.8歳の子供たちが
短く刈られた草の上で円になっている。
中央には大きなたいまつ・・・
何かの祭事だ・・・
その周りを背中にたいまつを背負った子供たちが
ゆっくりとまわっている・・・
ふとその生徒の姿も見える・・・
次の瞬間、その子供の背中に火が燃え移る・・・
祭事のすぐ横、
子どもの背の丈もある草むらの横には
小川が流れている・・・
火を消そうととびこむ子供・・・
今も昔も 子供は宝・・・
そんな中で起きたあってはならぬ事故・・・
責任のすべては祭事を取り仕切る私にあった・・・
かえらぬいのち・・・
後悔と自責の念・・・
わたしは自然と涙があふれてきた・・・
「あの時は本当にごめんなさい」
気が付くと生徒に謝っていた・・・
「いいよ~」とあかるく生徒・・・
その時だ。
網戸を外すかと思うほど強い南風が吹いた・・・
まちがいない・・・
同時に顔を合わせるわたしたち・・・
ほほえんでいた・・・
無言の中、今世 互いが出会った意味が分かる・・・
出会えてよかった…
たがいに再会を祝福する安らぐ顔に変わっていった。
輪廻転生の中
人が出会う意味はひとつしかない。
いのちを祝福しあうため・・・
それ以外にはないことを知れば
今の自分が・・・
そして周りにいる人たちと何をすべきかが
おのずとわかる。
そしてわかったあとは
もう知らなかったときの自分に戻ることはなく
それ以外したくなくなる・・・
これが、二の風である。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
夏、夏至のころ③・・・いちの風
そういう意味で印象に残る風が三つある。
ある常連さんとお父さんのお話をすると
よく風でお返事をくださることがある。
先日も「居酒屋百名山」という本に出てきた
横浜、野毛の「武蔵屋」という居酒屋に話が及んだときのこと・・・。
ふと常連さんを見ると
どこか懐かしがる瞳の色をされていたので
どうされましたかとお尋ねした。
すると、父はそこにいっていたかもしれない・・・
舟に乗っていたので・・・
と続けられる。
その瞬間である・・・
ブラインドの下から抜けるように
風が訪ねてきた・・・
ああ、行っておられたようですよとわたし・・・
ずいぶん前に「宙言」でも
その方が、お父さんを亡くされたときの風が
今も思い出されるとお話しされていた。
そのときもふっと一陣の風が吹いた。
曲線で力強く
そして、ご生前の自由奔放さをあらわす風であった。
あすは、二の風・・・
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
tag : 風
夏、夏至のころ②・・・水を得た魚
実にうれしい出来事が起きた。
卒業生が遊びに来てくれたのだ。
しかもとびっきりの笑顔で・・・
高校が楽しいと・・・
なんと嬉しい言葉だろうか…
もちろん高校を選んだのは彼女だし、
そこに向けて頑張ったのも彼女・・・
そして、いまもそこで頑張っているのも彼女・・・
すべて本人が頑張っていることだが
当時志望校選びに悩みに悩みそれでも
わたしはあえて「・・・にしたら」とは言わなかった。
よく大手の塾では○○高校△名合格というチラシを打つが、
伝統的なその手法にわたしはいつも疑問があった(ある)。
たいていその○○高校は屈指の進学校のことが多い。
もちろん私もそういう会社に
12年以上身を置いていたので偉そうには言えない。
それでも、
「進学校以外の高校も載せてください」と社長に直談判した。
がんばったのはみんな同じ・・・
そういう思いがあった。
結局通らなかった。
理由は簡単だ。
載せたい理由が違うからだ。
わたしは、頑張った全生徒たちの誇りとして・・・
社長は、こういう屈指の進学校に入っている塾ですよと
宣伝効果を最大にしたいため・・・
広告宣伝とはよく言ったもので
何を宣伝するのかがチラシには現れる。
無理やり百歩譲っても
進学校の○○高校に入るために頑張ったのは
わたしたちではなく、生徒たち・・・
わたしたちは単なる裏方。
裏方のすごさを自慢する舞台はない。
しかも、卒業生たちが
そのチラシを目にしたとき・・・
けっして進学校ではないが、
胸を張って入っていった彼ら彼女たちの人生に
いらぬ劣等感を与えるのではと本当にいやだった・・・
勉強ができることは一つの個性にすぎない。
がんばりと誇りに偏差値は関係ない。
しかし、わたしの意見が通るはずがない。
わたしの今の塾は広告も打てない大変な零細塾だが(笑)
それでも、あえて「広告」というなら
この卒業生の笑顔!と胸を張って言える。
昨日も同じ中学の後輩に
「学校楽しいよ!うちにおいでよ」と言っていた彼女を見て
本当に本当にうれしかった。
笑顔のおすそ分けをいただいた。
「水を得た魚」
その人に合った場で生き生きとすることをそういう。
それぞれの人間にはそれぞれの水がある。
辛すぎず甘すぎず
それでいて魚が自然体で泳ぐ水・・・
その水を一緒に探すお手伝いをするのが私の仕事である。
人生は、能力ではなく相性。
この年になるとつくづくそう思う。
それは自然を見ていればよくわかる。
どんな高価な苗でも
土が合わねば枯れる。
魚と水の関係もそう・・・
人生最初に
相性最良の水を探し求めるのが高校なら・・・
ふと考えた・・・
それが川なら、
上流に向かうのだろうか・・・
下流に向かうのだろうか・・・
きっと下流なのだろう・・・
大きな大きな大海原への川・・・
上に上がるのが人生ではない・・・
でも、しばらくして鮭のように
上流の故郷に還っていくのもよい。
還るための「上流」があってもいい。
どちらにしても
水族館の水槽でないことは確かである。
昨日は彼女の笑顔で一日の疲れが吹き飛んだ。
そんないい一日であった・・・
theme : いのちあるものが いのちあるように
genre : 心と身体
tag : 水を得た魚
夏、夏至のころ①・・・笑ってこー
新中一生の中には、
小学校生活との違いとテストからくる緊張で
だんだんと笑顔が少なくなる子もいる。
自分の「素直」「直霊」が迷子になり、
小さいころから、こころを偽る癖ができている子は
いよいよ中学で本当にしんどくなる・・・
大人にも子供にも(自分にも)
自然体になることの大切さをお話するが
笑いが消え、ゆるまなければ、
不自然な言動を繰り返し
勉強も友人関係もいずれ息詰まるし、
どんどん生きにくくなる・・・
ダメなものはだめでいい・・・
なんとかなる・・・
夢や大志なんか、そうそう見つかるものではないし
なくてもいい・・・
ないならないなりに、笑って生きていけばいい・・・
実は、大人の中にも笑いが不自然な方もいらっしゃる。
心から笑うこと、ゆるむことは、
自然体への一番大切なツボ・・・
笑う門には福来る・・・
今日は笑いの話・・・
産着は、無力でまだ自立していないいのちが
その存在をゆるされた証として、
周りから贈られた「やさしさ」である。
ゆったりとくるまれた産着の中で
赤ちゃんは無垢の笑顔をわたしたちに贈ってくれる。
これからいのちがなすであろう笑顔、
それが周りをきっと幸せにするだろうという希望が
この無力ないのちの存在を「ゆるす」源になっている。
それは、幼稚園・保育園、
小中学校でも高校、大学生でも
そして大人になっても同じことである。
いくつになっても私たちは自分のことを
すべて一人で出来るようにはならない。
本当に無力な存在だ。
たしか森首相の時だったか・・・
「教育改革国民会議報告-教育を変える17の提案-」
というのがあった。
内容は、戦前の軍隊を思わせる
甘えさせないなどのしつけ3原則や奉仕活動の強制など
ちょっと引いてしまう提言が見識者からだされたが、
いったいあなたのオシメやパンツは誰が洗ってきたんですか?
と言いたいぐらいの時代錯誤の上から目線レポートだった。

(宙言で2015年8月に取り上げたが、
SNSであまりにも酷評されたためか、今は削除されている)
わたしたちすべてが、家族や友人など
周りの慈悲深い行動と配慮によって
生かされて生きてきたのである。
そのご恩に応えるため、神様がわたしたちに
笑うことを授けてくださったのではないかと思う
決してお返しなどできない多大なご恩によって
生かされたわたしたちは、不機嫌をまき散らさず、
可能な限りごきげんで、笑顔でいるといいよ・・・
そして、その笑顔を人と分かち合えるような
生き方をしていこうよ・・・そういわれている気がする。
それぞれいろいろあるけれど
「なんか笑えてくる・・・」
そういいながらみんなで涙目になるのは
何よりも美しい風景の気がする・・・
暦の上では今日は夏至。
まだまだ梅雨空が続くでしょうが、
今日も笑っていきましょう!

theme : いのちあるものが いのちあるように
genre : 心と身体
tag : 笑い
夏、芒種のころ⑮・・・月相とバイオリズム
今日で芒種は終わり・・・
明日はもう夏至となる・・・
さて、今日は月のお話。
わたしが生まれた日。
月のかたちは新月に向かう数日前の三日月形です。
新月や満月がわたしたちのいのちに影響を及ぼすことは
みなさんもご存知かと思います。
自然界もそう。
新月の伐採した樹木は腐りにくく、
満月に収穫した果物や野菜はおいしいと言います。
ということは、自分が生まれた日の月のかたちと
いまの自分のいのちはどんな影響があるのかな・・・
としばらく観察したことがありました。
わたしの仕事は長年夜の仕事ですので
無理をすると免疫力が落ちて
体調を崩しやすくなりがちですが
この生まれた日の月のかたち①と関係が深いことがわかりました。

まず、①の日・・・
自分が生まれた日の月のかたちの日は好調の時が多かったです。
からだも軽いし、アイデアも浮かびやすかったです。
月が自分を後押ししてくれている感じでした。
そして、その生まれた日の月のかたちが影になる日③・・・

この日は、体調を崩しやすくなりました。
どうやらこの日はおとなしくしていたほうがいいようです。
そして面白かったのが、ちょうど左右対称が明るい日②は
ペースを乱されたり、逆にいい影響を与える人が現れたりと
なにかと自分の強さ弱さが映し出される(鏡のように)出来事に遭遇することが多かったのです。
最近は、こまめに調査はしていませんが
以前の会社にいた時に一年ほど確かめた時には
そんな傾向になりました。
ただ、意識をしていたからそうだったのか
本当にそういう傾向なのか境目はわかりません。
みなさんもよかったら
ご自身のバロメーターを確認してみてはいかがでしょうか・・・
こちらのサイト(左の月齢カレンダーリンク)で
自分の生まれた日の月のかたちがわかります。
➡こよみのページ
そして、こちらのサイトは、
自分のうまれた月にすてきな名前がついています。
(半月の前後の方は、MIXということかな・・・)
➡月のかたち
わたしは、古代月~神香月へ向かう日。
きっと今世の魂の目的がこれなんでしょうね。
こりゃ、物金はたまりそうにありません(笑)
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
夏、芒種のころ⑭・・・お坊さん
小学校の近くにあった定力寺というお寺のお坊さんだろう。
その次に興味を持ったのが
漫画の一休さん・・・
「すきすきすきすきすきっすき」の
あの一休さんだ。

小学校の6年生で放映前の予告編から
始まるのを楽しみにしていたのを今でも覚えている。
そして次が空海・・・
高校生のときと思っていたが
映画の封切が1984年だから19か20歳ごろ・・・
「空海」という映画を独りで見に行った。

「この風を治めようと思うな!
おのれが風になれ!」
と嵐の遣唐使船上で吠える(笑)北大路欣也さん。
若いなりにその意味を考えていた。
一体となれということだろうか!?
分かれているからつらい!?
そんなことを考えながら帰路についた。
その時は、あとから文庫本も買って読んだ・・・
それ以来、空海の教えに触れたくていろいろと読んだりした。
最近、衝撃的なお坊さんに出会った。
維摩居士(ゆいまこじ)

(法華寺、維摩居士坐像)
モデルはいるらしいが
実在か実在でないかがわからない。
居士とは、在家で仏道を極める人のことを言う。
彼は、古代インドの大商人で、
めっぽうお金持ちだった。
それでいてため込まず、だれかれ構わず
喜捨(進んで金品を寄付すること)をしたそうだ。
しかも、釈迦の弟子たちをことごとく
問答でうちまかすスーパー坊主なのだ。
とくに有名なのが文殊菩薩との問答らしい・・・

(法隆寺五重塔の東面にある維摩居士と文殊菩薩との問答の場面)
少し長いが、維摩居士の魅力が表れているので引用させていただく。
文殊菩薩「菩薩にとって仏道とは何か?」
維摩居士「道ならざる道に赴く(おもむく)事こそ仏道なり」
文殊菩薩「道ならざる道とは何か?」
維摩居士「極悪人と交わって悩まず、
奈落(=地獄・苦しみの境涯)にあって穢れず、
畜生の群れの中でも驕らず、餓鬼に堕ちるとも徳を失わず、
闇の世界にあっても高ぶらず、
欲界にあって欲に溺れず、怒りに身を任せても心は静かで、
愚行をなしても智恵を忘れず、
吝嗇(りんしょく=物を惜しむ事)であっても身を惜しまず、
戒めを破っても心は浄く、憤る事はあっても慈しみの心を持ち、
怠るようでいて内では励み、無知のように見えて教えを守り、
高慢に見えても陰では優しく、煩悩の中で解脱し、
魔道に入って仏道を目指す。
教えを聞き同時に教えを説く。
孤高を守って、衆生と共にある。
貧窮の中で宝を保持し、欠陥をもって万全である。
下賎の中で高貴であり、
醜い姿の中に神の如し美しさをもつ。
老いて病むとも死を恐れず、
財産家であっても無常を観じ、
妻妾に囲まれて欲望を断っている。
寡黙にして雄弁、異端にして正統、
外道に踏み込んで仏道を極める。
涅槃にありながら衆生と共に輪廻転生し、
見かけの上ではひたすら非道を歩む。
これぞ真の仏道なり」
この変てこなオヤジが主人公の「維摩経」は
ごく最近まで原本が紛失中だったが、
1999年7月日本の学術調査団が写本を発見した。
よくぞ発見してくださったと感謝したい。
翻訳にとりくんだ植木雅俊さんは
「仏教史学上20世紀最大の快挙」と言われたらしい。
人生の後半、
規範となる人物に出会たことは実に幸運である。
維摩居士は「仏教をする仕事人」・・・
さて、問答の最後、
維摩は文殊に「黙」をみせる。
この「黙」がすごい。
「維摩の一黙、響き雷の如し」
その「黙」は、
単に「話す」の対極としての「黙」ではなく、
「動」の「黙」なのである。
「維摩」が黙しているのではなく
「黙」の中に維摩がいるのである。
凡夫もかくありたい・・・
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夏、芒種のころ⑬・・・足腰とコミュニケーション
➡十年、をちこち・・・㊽
晩年の母を見ていると
人生最後に大切なものは一体何なのか
ということを教えられる。
母は毎日近くの大型ショッピングモールへ出かける。
しかも、午前と午後の二回行くらしい。
そこで何をするのか・・・
知り合いの人と話すのである。
待ち合わせはしない。
偶然出会った人の安否、健康状態・・・
以前体を壊した人なら無事に出会えたことを互いに喜ぶ・・・
そういうことをしているらしい・・・
父が生きていたころは、
定時にご飯をつくりに帰らないといけなかったが
いまは自由の身だからと時間にも縛られない。
ときには日に二回、ステージで有名無名の
歌のステージがあるのでそれも楽しむ。
毎日この日課をこなす努力をしているらしい。
80歳を過ぎて、足腰が弱れば、
それは寝たきりの有無や命にかかわるからだ。
人間、晩年大切なものは、
足腰とコミュニケーション。
歩けることと話せること・・・
話せる知人がいること・・・
あなたも元気でよかったと
喜びあえる知人がいること・・・
そういうことがいのちの源になる。
そして、その知人のもとへ
自分の足で向かえること・・・。
晩年、この二つさえあれば
虚しさに負けず、人間は生きていける・・・
そこに歌があればなお最高だ・・・
ちょっとしたことでも車を使う私は
晩年は母のように歩けるだろうか・・・
WHO (世界保健機関) では、
45歳以上を初老期、
65歳以上を老年期 (または高齢期) としている。
定義では、すでに初老の後期にさしかかるが、
人生の先輩である母から学ぶことはまだまだありそうだ・・・
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tag : 母足腰とコミュニケーション
夏、芒種のころ⑫・・・働き方を選ぶ
梅雨の合間の野良仕事だ。
GWに植えたキュウリから
ひとつ、またひとつと実をいただく。
毎日必要なだけ、いい塩梅でいただける。
野菜のほうが
人間の生きるペースに合わせてくれる・・・
こうやって畑仕事をするようになってつくづく思うのは
ああ、自営業っていいなということだ。
たしかに自営はいろいろと大変だが、
自分も自営で育って、この年になって思うのは
父母の背中はどんな教科書にも勝る・・・ということだ。
ところで、最近・・・
政府が「働き方改革」などと言って旗を振っている。
厚生労働省のHPをみてみる・・・
「働き方改革」の目指すもの
● 我が国は、「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」などの状況に直面しています。
● こうした中、投資やイノベーションによる生産性向上とともに、就業機会の拡大や意欲・能力を存分に発揮できる環境を作ることが重要な課題になっています。
まず言葉がおかしい。
「働き方改革」っていうことは
働く方になにか権限があるような言葉だが
現実的にそんなことはまずないのではと思う。
相変わらず単身赴任や出向やら、
会社の都合であっちこっちさせられる仕組みがある限り
まずは、会社の「働かせ方改善」が先の気がする。
「働かせ方倫理」といってもいい。
ときに、会社は権力を振り回すからだ。
以前学校で、週休二日になったとき
学習の内容が減らないのにどうやってこなしていくんだ?
という問題が起きた。
会社も同じで、やることは一向に減らない(むしろ増えている)のに
定時に帰るとか、子育てとの両立とか・・・
結局絵に描いた餅になるような気がする。
自営業は確かに大変だけれども
小さなお子様がいらっしゃるご家庭で
お父さんやお母さんがいつもそばにいるというのは
長い目で見た時にほんとうに「豊か」なことになる。
いっそ、希望者には、自営をできる環境(税制面、資金面)を整えて
ちいさなお子さんがいるお母さんには外で働かなくてもいいように
ベーシックインカムで無条件に給付して・・・
なんて考えるのはいけないだろうか・・・
プレミアムフライデーとかするよりはよほど
「働き方改革」になりそうな気がするが・・・
国の金融・産業機関の利益には、
ほぼ外資系の会社(闇権力)が控えており、
種子法が廃案(2017)にされ、
米、麦、大豆の種子を国が守れなくなったり・・・
投資、カジノで日本の円が吸い取られたり・・・
労働時間を減らすということは
当然収入も減るからぜひ投資をしなさいというのも
不自然に聞こえるのはこのためである。
いったい誰のための投資だろうか・・・
おまけに、投資にインターネットは必須だが
インターネットがまだまだ使いづらい
お年寄りや目の不自由な方を置き去りにして
投資も何もないだろう・・・
厚労省の「働き方改革」の目は、われわれに向けられていない。
だれを向いているのかは一目瞭然である。
そして、何より・・・
この日本が、人が、豊かな山、川、海、土に抱かれていることを忘れ
それに生かされて働くという文面はどこにもない・・・
まるで切り花の花だけを愛でている文面だ。
花は、根があり、土、水があって
はじめてきれいな花を咲かせる。
つまり、政府が考える文面には「土」がないのだ。
金融、医療や保険、教育、農業、工業・・・
今までもそうだったように、今後なにもかもが、
外資系企業(闇権力)の利益になるように決められていくであろう・・・
「知ろう」とすることは、戦いである。
「気づく」ことは、すでに勝利である。
船瀬俊介さんの言葉だ。
私は、気づくことは何よりも大切にしたいが、
戦いも勝利もしたくない。
ただ、穏やかに、心豊かに、美しく生きたいだけだ。
だから、そういう生き方をするために
いけるところまで選び続けたいと思う。
そのために今日も草を刈り、苗を植えたのだ。
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genre : 心と身体
夏、芒種のころ⑪・・・「答え」のある時代
わたしたちの時代、高校の先生はどの教科も
問題集の答えを配っていなかった。
テスト前に配って、それまでは己で答えを導き出せと・・・
たしかに昭和のあの頃・・・
テキストのほとんどは白黒で
調べると言えば、紙ベースしかなく、
長い英文の訳をひたすら、一語一語、
英和辞典の薄い紙を一枚一枚めくりながら
意味を調べ、その一つ一つを組み合わせて必死に全文を約した。
読み方は、発音記号を参考に読み進めた・・・
英和辞典
和英辞典
古語辞典
漢和辞典
・・・
すべての教科の辞書をまじめに持っていこうとすれば
毎日が疎開の子どもの荷物並みで
筋トレになった日々だった。
が、今は時代もがらりと変わっている。
たとえば英語・・・
電子辞書ができて久しいが、
いまは、ググればいいからだ。
翻訳機能は、出始めのころは変てこな翻訳も多かったが、
いまは、ビックデータの蓄積?おかげで
驚くほど翻訳機能が精巧だ。
しかも今では、昔の教科書ガイド的サイトも多く存在する。
➡今風・教科書ガイド
(今日現在で460万人もアクセス中)
You Tubeでは、塾の先生などが解説動画など配信されている。
独学で勉強するのに実に楽になった時代だ。
しかしこの「楽」をどうとらえるかはそれぞれ異なる。
「楽」=「堕落」「怠惰」ととらえる風潮が今も根強い。
特に学校の先生方は、紙の辞書を持ってこさせ
ググるな!と指導されるそうだ。
テスト期間以外は、教科書、ワークの答えも配らない。
ひどい場合は、テスト前日に答えを配るらしい。
?がいっぱいだ。
先にお伝えするが、わたしはそういった文明の利器を
どんどん利用すればいいと思っている。
そもそも語学は、ペリー来航以来
「コミュニケーション」「相互理解」のために必要なのであって
英語のために英語を学ぶわけではないからだ。
「理解」が成就すれば、
「枝葉末節は不要」というのは当たり前である。
(2人の小学生が英語とスペイン語の自動翻訳を使って会話をするプレビュー)
➡「自動翻訳機が進化したら英語学習は不要になる!」について思うこと。
紙には紙の良さがある・・・
ネットにはネットの良さがある・・・
それぞれの利点を活用して
考えさせる授業にできると思うのだが、いかがだろうか・・・
自動翻訳機がどれほど進んでも
英語が好きな人は、やはり英語を学び続けると思う。
(国語に、国語学者がいるのと同じである)
テスト前ギリギリ(ひどい時には前日)に
答えを配ることは実に非合理的だ。
大量の問題集の答え合わせで終わってしまう。
考えることも、ましてや暗記することも時間的にOUTだ。
教師の役割は、答えを独り占めすることで、
無理やり考えさせるのではなく、
答えを早々と手渡し、解放したうえで何を考えさせたいのか・・・
ではないだろうか・・・。
たしかに、答えを丸写ししてそれで考えない生徒もいるだろう。
でも考えてほしい・・・
そういう生徒は、答えがなくても考えたくないのだ。
いや、答えがないことで
かえって余計にやる気さえ失せているのだ。
自分がアラビア語やマサイ語など、
まったくご縁のない第三、第四の言語を
B5サイズ大の文量で訳すとき、
答えを取り上げられた状態でやる気が起きるだろうか・・・
わたしなら翻訳機をつかい
書かれてある内容を早く知りたいと思う。
それでなくとも圧倒的に課題が多い学生たち・・・
過度にその子の力量以上の課題をこなさせる意味を私は見いだせない。
ならば、はじめから答えを渡し、
丸写しする中でも「考えさせる」すべを講じたほうが
よほどその子の役に立つ・・・
と私は考える。
ちなみにうちの塾はすべてワークの答えを配布している。
独立して10年たつが、ここでは宿題もない。
部活もあり、学校でも散々出ているのに、
それ以上こなす(答えも見ずにしっかりと考えてくる)ことができる生徒は
少数だからだ。
参考までに書き添える。
うちは進学校のみを目指させるモーレツ塾ではないが
それでもこのマイペースなやり方で県内有数の進学校に行く子もいる。
そして、自分に合った高校(第一志望校)にそれぞれちゃんと進学していく。
まあ、いわゆる塾の常識ではないかもしれないが
この35年間、子どものいのちと寄り添っていると
そういう結論になってくる。
労働がAIにとって代わる時代・・・
「働く」意味も変わるように
「学ぶ」意味も変わってくる。
もうすでに「答え」がある時代・・・
わたしたち古い人間のアップデートが必要だ。
自分たちが苦労したのだから
次の世代も苦労すべきだなどと
カタいことを考えるのはよしましょう。
たかが教科を教える人間の固定概念が
子どもたちのいのちを削っては本末転倒である。
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夏、芒種のころ⑩・・・「人間みんな病気です」
いつものようにCafeで菩薩行(相談行)でのお話・・・
とある方(50代後半から60代前半?)が、
最近ついていないし、体調不良で
どうしたらいいのか・・・
という内容でご相談だった・・・
お話を伺うとどうやら配偶者との関係が良好でないらしい・・・
同伴された子供さん(40代?)にも気を遣われている様子・・・
配偶者とは、会話もなく、あまり好きではないようだ。
好きでもはない方と一緒にいる人は
大抵、自分の行動を守るための理由をいくつか用意されている。
「この年で一人では食べていけない」
「子供の(といっても40代)ために・・・」
「体調がよくないので、働けない」
などなど・・・
鬱々と話される・・・。
余談だが、
こういうことは事実でもあるし、言い訳でもある。
それがどちらなのかは重要ではない。
本質と違う議論になるからである。
しかし、その日私が会った時は
顔色もわるくなく、それほど体調も悪くなさそうだった。
「それでも今日はお顔の色もいいですし
お元気そうですが・・・」
とわたし・・・
すると意外な答えが返ってきた。
「ああ、今日は病院に行ってまして・・・
そうしたら先生が、あなたは○○だから、
鬱ですねっていわれて、ほっとしたんですぅ~」
は?ほっと?安心???(私の心の声)
鬱だと言われてこの人は喜んでる・・・なぜ?
そうか・・・
なるほど・・・
人は所属をしたがる性質がある。
それはグループ、団体はもちろん、
自分の今の状態を「(病名を)名付けられ」「帰属させられた」ときにも
「安心」が発生する生き物なんだ・・・
「家での役割を見つけられず」
「体調不良の原因(病名=帰属)がわからず」
それまでどこにも帰属しなかった自分が
不安でしかたがなかったんだ・・・
だからこの人は、「鬱」と診断され(病名をつけられ)喜んでいるんだ・・・
そういう経験のない私には理解しがたかったが
何となくそういうことなんだとわかった・・・
「病名っていう「帰属」がわかって
あなたは安心されたんですね・・・」
相手はきょとんとされていたが
ご自身が何かに帰属しないと安心できない・・・
そういうこころの状態であることを客観視するには
少し時間がかかりそうだった。
「家族」
「学校」
「会社」
「仲良しグループ」
「病気」
「健康」
「職業」
「親」
「子」
「自分が作った自分」
人は何かに帰属、所属しないと
「不安」が沸き起こる生き物なのかもしれない。
「帰属」「所属」をすることで一時こころの安定が図れ
それをきっかけに自分を見つめなおすことができれば
それはそれで素晴らしいことだろう。
だから、「帰属」や「所属」は決して悪いことではない。
しかし、それがないと、もしくはそれでないと
自分でいられないというのは少しバランスが悪い・・・
何が「自分」で
何が「自分」たらしめているのか・・・
しかも、
自分が作った「自分」からも自由でいられる・・・
そういう自然体の生き方ができるにはどうすればいいのか・・・
少し楽になる言葉がある。
「人間、みんな病気です」 古澤平作(こざわ へいさく)
※古澤 平作(こざわ へいさく、1897年7月16日 - 1968年10月5日)は、日本の医学者、精神科医。東北帝国大学助教授。日本に精神分析の技法を導入し日本独自の精神分析学を開拓し、力動的な臨床精神医学の基礎をつくることに貢献した。
「病気?わたしはちがう!」
と力まれた方も
「わたしは前述の女性のようには生きていない!」
と拒絶された方も、ご安心ください(笑)
ある意味 病気なのです。
つまり、前述の女性のように病名をつけられて安心するのも、
「健康だ!あの人とはちがう!」と力むのも、
あまり変わらないということだ。
わたしは
「神辺」という職業で
「神辺」という存在になりたいと思っている・・・
これもまた病気なのだ(笑)
人間、みんな病気・・・
おかげさまで生かされてます・・・
人間、こうやってまあるく生きるのが
なにより自然なのだろう。

theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
夏、芒種のころ⑨・・・結婚観
高校の倫理の問題で面白い問題を見つけた。

まず・・・
21年も前の資料・・・
・・・平成9年の資料だ。
つまり、自分(高校生)の親世代が
結婚したぐらいの資料ということになる。
この古い資料で
今の高校生に何を考えさせ
いったいどんな力を身に付けてもらおうとしているのか・・・
問題を解く意味という点で???
これでは、「倫理」ではなく
組み合わせと消去法を使う
まるでクイズ問題だ・・・
が、まあそれは置いておいて…
男女の結婚観に大きな違いがあって面白かったので
わたしもやってみた。
問題を解くと
内側(破線)が男性、外側(実線)が女性・・・とわかる。
まず気が付くのは、
どの項目も女性のほうが%が大きい。
「結婚相手に求める条件」をどの項目も
こまかく真剣に考えているのは女性ということなんだろうか・・・
それとも欲張りなのだろうか(笑)
一方、男性が考慮に入れる条件の他が
それほど%が高くないのは、
許容範囲が広いということだろうか(笑)
それとも単に考えていないのだろうか・・・
共通点もある。
男性、女性ともに、「人柄」を一番考えている。
まさに王道ですな・・・
他、
女性の方が多く重視している条件に「経済力」「職業」・・・
まあ、これは仕方ないかなと思うが
男性はなかなかつらいですね・・・
そして、ともに7割以上あるのが「共通の趣味」・・・
心のつながり
ともに楽しみたいを大切にしているということか・・・
他にも・・・
いろいろと分析、推測をするとなかなか面白い・・・
みなさんも
何か気が付かれたら、コメント欄へどうぞ・・・
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genre : 心と身体
夏、芒種のころ⑧・・・古本に残るアナログ
わが店のうめ仕事担当のpiyoさんが
そろそろ梅干しづくりを始めるころだ。

わたしは毎朝、一杯のびわ茶から始める・・・
この生活を続けてかれこれ3年ほどになる。
ブログ右の「人気ページランキング」でも
びわや姫川薬石の記事はずっと上位にいる。
基礎体温を上げることが体の免疫力を上げることにつながる。
わたしの平熱は低いほうだったが
びわ茶を飲み始めて、基礎体温が36度台になった。
みなさんにもある程度の健康法がおありかと思うが、
このびわ茶はそういう意味でお勧めです。

昨日届いた古本・・・
わたしはよく アマゾンで古本を買う。
古本を買うときに、本の状態が書かれているので
できるだけ良い状態のものを買うが
それでも中には、以前詠んだ人の痕跡が
のこっている本に出会う。
少し折り目が付いていたり
線が引かれていたり
メモや丸が打ってある・・・
結構、それはそれで楽しいものである。
その人が誰なのか もちろん知らないが
その人がどんなことに興味をもって
その本を読んだのかがわかるからだ。
昨日の本では目次に〇が書かれてあった。

「居酒屋百名山」だから
この人はこんなに制覇されたんだぁ~
となる・・・
ラジオの投書を聞いて
共感したり、発見があったり・・・
そういう感じに似ている。
そういった見知らぬ人との交流も古本の良さだ。
デジタル本が生まれた時
紙の本がなくなると予言があったけど
苦戦しつつもこういった紙ベースの本がなくなってはいない。
わたしは文明の進化を否定はしないし、歓迎もしているが
紙の手ざわり、めくった時の印字の香り・・・
そういった手感覚、肌感覚は人間から消えることはないと思う。
着物が洋服に変わった時も・・・
レコードがCDになったときも・・・
まるで運動会の一周遅れの選手が、
すでに切られたゴールテープの横を通り抜け
あたらしい風と共に、再び戻ってくるように復活する・・・
アナログにはそういうたくましさがある。
SNSやIOT、AIがどんなに進化しても
こういったアナログのこぼれたつながりは
どこかしこで残ってくんだろうなと思う。
どれかが残るかではなく
どれもそれも残る・・・
そういう時代だ。
「人間とは何か?」
そういう問いを投げかけながら
少数派のアナログたちが帰ってくるのをこれからも楽しみたい。
夏、芒種のころ⑦・・・蒼い求道者
珍しいセンス(感覚)を持った人だったと思います。
コスミックセンス(Cosmic Sense)=宇宙的感覚
そういえばいいでしょうか・・・
童話作家、詩人であることは、
皆さんがよく知るところかと思いますが、
ほかにも、
仏教
キリスト教
民話
短歌
哲学
農業
肥料研究
化学
気象
天文
地質学者
鉱物採集
植物採集
人造宝石製造・販売
昆虫採集
水産物調査
登山
砕石技師
浮世絵収集
楽団
教員
菜食主義者
花壇の設計士
など・・・
ありとあらゆる地球の現象に興味を持った人でした。
石牟礼道子が「巫女文学」なら
賢治のそれは、「霊性文学」と言われています。
自然現象の「いのち」を
文学に結晶化させた人と言えるでしょうか・・・
11歳の時
「お父さんの後をついで、立派な質屋になります」
と書いていた賢治ですが
自然、いのちに目覚めた15-16歳のころから
家業の質屋への嫌悪感が芽生えます。
貧しい農民が頭を下げ、金を借りに来る・・・
病と飢饉が交互にやってくる東北地方で
懸命に生きようとするその農民に、
金を貸し、取り立てる祖父や父・・・
「いのち」に注がれていた賢治の眸にとって
資本主義の中で生まれる否が応の上下関係は、
「嫌悪」でしかなかったと思われます。
しかし、その嫌悪の父と家業に
経済的に頼らざるを得なかった賢治の負い目が
「なめとこ山の熊」として結晶化されていきます。
お金を得るための「労働」と
天命、使命を意識する「仕事」の違いを
考えさせられるこの童話は、
「農民芸術概論綱要」の
「いまわれらにはただ 労働が生存が あるばかりである
宗教は疲れて 近代科学に置換され 然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ 然もわびしく堕落した」
と ひと続きかと思います。
賢治にとっての「堕落」は
「銀河を包む透明な意志」が濁ることであり
「巨きな力と熱」が冷めていくことなのでしょう・・・。
わたしはこの賢治の透明さと熱にあこがれるのです。
「土と鉱物」とに根差し
「宇宙の蒼(あお)」へと昇華しようとする賢治の求道・・・
「ほんとうのさいわい」
頻繁に 「誰でもよかった」と人を殺める事件がおきる昨今・・・
常に、わたしたちの心にあるこの問い。
賢治は、15歳(今の中3)ごろに
哲学者エマーソンの本に没頭します。
例えばこんな言葉があります。
「完全を求めることは、
人間の心を悩ませる
この世で最悪の病である。」 エマーソン
寛容であれ・・・
完全でなくともよい・・・
されど、求道をとめるな・・・
わたしは、賢治の生い立ち、作品に触れるたびに
そう励まされているような気がします。
そして、そんな未熟で未完な私にも
賢治は力強く言葉を残しています。
「永久の未完成 これ完成である」
少しだけほっとします。
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夏、芒種のころ⑥・・・教師たるもの、謙虚に生きる
既存の学問の切り売り業にすぎない。
ある人さまが、それこそ寝食を忘れ、
一生をかけ研究された知識、智慧を
これからの世代のためという大義名分をいただき
「授業」とか「セミナー」とかいう形で広めているにすぎない。
いじわるな言い方をすれば
人さまの知恵を
「かすめとり」
まるで自分が研究したかのように
「なりすまし」
そういったいわば、ケチななりわいにすぎないということを
肝に銘じて謙虚に生きるべきだと思う。
だからこそ大切なことがある。
ひとつは、
最先端の知識や
学界からは干されてしまった有益な知識を
掘り起こし、学ぶこと、学び続けること・・・
もう一つは
感性をさび付かせず、
それらを自分のからだや経験で実証する癖を持つこと・・・
この二つを日々心がけて生きないと
単なる権力型いんちき教師となってしまう。
「今ある知識はこうだ!
で、いま、あなたはいったい何をしている?」
この問いを厳しく持っていないといけない。
そして、いま教科書に載っている知識はすべて
あくまでも仮説であるという事実を常に背後に持ちつつ
ああいう説もある、こういう説もあると
子供たちに、未知で、未完の知恵の種を植えておかねばならない。
それが、ケチな私ができる
せめてもの貢献というものだろう。
本当にやめてほしいと願う。
(せめて軽減してほしい)
人からかすめとった知恵、知識をつかい
人を評価する(通知表とか)ことで上に立とうとすることを・・・
(これは、上級学校に行くためにだけのシステムにすぎない)
また、
既存の学問の知恵や知識の切り売り・又貸しにすぎないのに
それに対して、高額なセミナーや授業料を設定することを・・・
スピリチュアリストは、
人やテキストから学ぶのではなく、
土や鉱物から学ぶべきだし・・・
教師は、
汗を流して野菜を育てることから
子どもを知るべきなのだ。
この二つを一生かけて実に楽しそうに実践した人物が
宮沢賢治ではないかと思う。

(影絵:藤城清治 「銀河鉄道の夜」)
宙言やこのブログでも少し紹介していますが、
次回は、私が感じる宮沢賢治に触れてみたいと思う。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
夏、芒種のころ⑤・・・不便益
➡不便益
便利になることの「益」ではなく
不便の中を楽しむ、
不便だからこそよかったことに気が付くと
いろいろと見えてくるよ・・・
そういう学問(?遊び)だ。
あるラジオを聞いていて思いがけず出会った思想だ。
以前、日常が自動になりすぎてかえって不便になっている話を書いた。
自動炊飯器や自動ドアぐらいまでは
人間が人間であり続ける意味が失われなかったかもしれない・・・
最近では車の「自動運転」の研究が盛んらしい。
だが、こまったことに
その実験中に事故も起きている。
先日も一人の女性がはねられ亡くなった。
➡自動運転で死亡事故 ウーバー車両、米で歩行者はねる
そもそも自動運転には、0-5段階ある。
レベル0 自動化なし
レベル1 車両の自動化システムが、
人間の運転者をときどき支援し、
いくつかの運転タスクを実施することができる。
レベル2 車両の自動化システムが、
いくつかの運転タスクを事実上実施することができる一方、
人間の運転者は,運転環境を監視し、
また,残りの部分の運転タスクを実施し続けることになる。
レベル3 自動化システムは
いくつかの運転タスクを事実上実施するとともに、
運転環境をある場合に監視する一方、
人間の運転者は,自動化システムが要請した場合に,
制御を取り戻す準備をしておかなければならない。
レベル4 自動化システムは、運転タスクを実施し、
運転環境を監視することができる。
人間は,制御を取り戻す必要はないが、
自動化システムは、ある環境・条件下のみで運航することができる。
レベル5 自動化システムは、
人間の運転者が運転できる全ての条件下において、
全ての運転タスクを実施することができる。
➡自動運転
いまはまだ1か2の実験段階らしい。
そしてそれぞれの段階で10年~30年かかるらしい。
これを見て不思議に思った。
馬車よりも早く
馬車よりも便利、自由に
移動手段を願った人類が
自動車という便利、自由を手に入れて今に至る・・・
レベル3以上は
果たして人間の自由に
進化をもたらすものにあるのだろうか・・・
機械と人間、主従がひっくりかえっている。
このひっくり返りが進化と呼べるのかはちょっと疑問である。
そもそも、そういうことを「便利」というのだろうか?
若いころ、人の助手席に乗るのであれば
原チャリでもいいから自分で運転してみたかった・・・
はじめて乗った50ccのカブの感触・・・
自転車の風とは違う、
地球の風を切るようなあのバイクの感触はいまでも忘れない。
将来、いや来世、自動運転が当たり前になっていて
そのために免許が必要な世の中になっていたら
わたしは、乗馬クラブに通おうと思う(笑)
機械が自動で動くのを運転席で見守る(監視する)ぐらいなら
アスファルトの道を馬のフ〇を拾い、
後ろのちいさな荷台に積みながら
悠々と闊歩したいと思う。
そして、帰ったら畑の肥やしにしよう・・・
「速くできる、手が抜ける、思い通りにできる。……
ありがたいことですが、困ったことに、
これはいずれも生きものには合いません。」
中村桂子
theme : いのちあるものが いのちあるように
genre : 心と身体
夏、芒種のころ④・・・遠漂浪(とおざれき)こころ
彼女の本を読んでいると
いかに洞察力が深かったのかがわかる・・・
「かお」は「顔」ではなく、「貌」
「ひとみ」は「瞳」ではなく「眸」
とあらわしている。
いったい今の日本人で
どれだけこの漢字を知っているだろうか・・・
言葉は、
それを使う人が,、何に価値を置いているかがすぐにわかる。
顔は「頭部の前面。目・鼻・口などがある部分」
貌は「物の姿や形」
瞳は「眼球を突き抜ける穴」「目玉の黒い部分」
眸は「見開いた目玉」「むさぼる」「もとめる」
患者が病棟の土壁をかきむしる「ひとみ」は
「瞳」ではなく 「眸」であろう・・・
チッソ会社の人たちの「顔」を 「貌」と表す。
水俣病の惨事を自分のこととして感じる瞳を 「眸」と書く。
似て非なるもの・・・
そういう言葉を使い分けるのが石牟礼道子だ。
水俣病患者とその家族と寄り添った
石牟礼さんがたどり着く言葉は
映像や音声がなくとも
患者の血の哀しみがそこにあり・・・
不知火の海の香りがそこにあり・・・
患者の肉体としてのしぐさやまなざしがそこにあり・・・
・・・憑依した現実がまさにそこにある。

「巫女文学」
彼女の作品をそう冠したのは
鶴見和子(社会学者)であろうか・・・
なにかがすーっと入って幽界と現世の媒介役を果たす石牟礼さんには
あの世から遣わされた「言葉」が多く登場する。
たとえば、「遠漂浪(とおざれき)」・・・
高漂浪(たかざれき)ともいうらしい。
魂が肉体から離れやすい人のことを言うらしい。
自身も魂が浮遊しやすいのか
当たり前のように蝶だか鳥のように
魂が離脱する描写を時々出される。
先日書いたか・かた・かたち・・・
石牟礼さんの言葉はまさに
この世とあの世をつなぐ「かた」であろう・・・
いまの私たちはあまりにも
慌ただしい硬い現世に縛られ過ぎていて
「了解いたしました」を「り」などと書いたりする。
言葉を省略することは
人と人との関係を省略することと同じだ。
言葉を磨くことは
魂を磨くこと・・・
生きること、
言葉をきちんと使うことをさぼらずに
石牟礼さんにあやかりたい。
tag : 遠漂浪(とおざれき)巫女文学
夏、芒種(ぼうしゅ)のころ③・・・お手本
何のお手本かというと「随筆」のお手本だ。
お手本と言えば、思い浮かべるのは
習字のお手本。
むかし、習字教室に通っていたときいただいたあのお手本だ。
たいていは、右利きなら机の左側において よく見て書く。
下に敷いてトレースすることをなぞり書きというが、
学校ではよく
「なぞり書きしてはいけませんよ」
と言われ、たしなめられた。
しかし、実はそのなぞり書きも
習字のひとつの修練方法らしい。
手本を数枚用意し・・・
手本を上からそのままなぞる「なぞり書き」→
お手本の上に半紙を敷き なぞる「敷き写し」→
そして、手本を左において模写する「清書」
一点・一画を丁寧になぞり、
形や筆づかいを手本から からだ感覚でなぞる・・・
手本の息づかいをなぞるこの方法は
昔からある書の練習方法のひとつで
れっきとした書の上達方法らしい。
わたしはこういった書き手の息づかいが手に取るようにわかる
「随筆」のお手本を探しているのだ。
どういった言葉を選んでいるのか?
どういった文体を?リズムを?
改行は?
随筆の真髄は おそらく
そんな how toではないのであろう。
そんな中出会ったのが石牟礼道子さん・・・
実は、出会ったというよりは、再会である。
いわずとしれた
「苦海浄土」(くがいじょうど)の作者である。
「くかい」ではなく、「くがい」とあえて濁点で表記している。
水俣の何たるかを 薄っぺらい私に突きつける本だ。
正確には、「本であろう」である。
まだ読めずにいるからだ。
「苦海」とは仏教用語。
大海のはてしないように、
はてしない苦につきまとわれ、
さいなまれている世界のことで
輪廻転生を繰返す 六道の世界を海にたとえていうらしい・・・
「苦海浄土」・・・
高校生の時、なにかの授業で紹介された。
しかし当時・・・
読んでみたい気持ちに少しはなったが
いまよりももっと薄っぺらかったあのころの自分には
決して開けることのできない重い扉のような本だった。
いまはやっと・・・
石牟礼道子という存在の・・・
重い異界の端に・・・
ようやく触れることができるようになった。
この本は石牟礼さんの遺作である。
偉大過ぎる人は、
亡くなったことでやっと近づける世界を持つ。
書道に例えるなら、
やっと「なぞりがき」ができるようになったにすぎない。
石牟礼さんの文に流れる普遍は「いのち」である。
晩年、自身もパーキンソン病を患った彼女・・・
高度経済成長の気楽なしっぽに生まれたわたし・・・
苦海の中、彼女が突きつけるいのちを
おぼつかない手でなぞれる年齢に来たのかもしれない。

夏、芒種(ぼうしゅ)のころ②・・・再び、天から響くもの
わたしはとある会社にいました。
その経緯は「十年、をちこち」に書きました。
詳しくは左のカテゴリーからお入りください。
その時、ある業務をしていました。
「生徒やる気育成業務」
昨日PCの古いフォルダーを整理していて見つけました。
掘り出し物です(笑)
今から思うと・・・
ネーミングがちょっと・・・(汗)と思いますが、
でも、その時は真剣です。
生徒のやる気を引き出すにはどうすればいいのか?
それを考える仕事です。
そのときも「言の葉」というタイトルで
職員向けに手紙を書いていました。
初号はこんな感じです。
生徒のやる気を引き出すためには、
まず我々が元気でないといけません。
我々が元気になるとはどういうことでしょうか。
日々子どもたちの前に立って思うこと・・・・・・・
それは、言葉には力があるということです。
もしそうでなければ、
我々が子どもたちに生の声で接する意味はなくなります。
辞書に並ぶ言葉はそれだけでは何の変哲もないものですが、
言葉を語る我々の生活が実感にあふれ、
そして本当に感じた言葉を使うならば、
言葉に熱が加わり、他者を勇気づけるものになります。
言葉に何を込めるのか、
言葉をどういったときに発するのか、
どんな立ち居振舞いで言葉を出すのか、
声の大きさは、 トーンは・・・・
我々は言葉を道具にしているプロです。
こういったことを考えて子供たちの前に立たなければ、
簡単に子どもたちに見透かされてしまいます。
「この人は、本当に思っていないと・・・。」
毎月一回、我々自身の心を耕す「言の葉」を伝えていきます。
どのように使って頂いても結構です。
「熱い授業」といいますが、
「熱い」という色には、いろいろあってもいいと思います。
赤・青・白・・・・・
具体的なトーク例の言葉が、外枠だけになり、
宙に浮かないように・・・・・・切に願います。
生徒やる気育成業務担当:神辺
言葉は消耗品です。
あまり同じ言葉を使い過ぎると
すり切れ、手あかがついて
届けたい相手を辟易とさせます。
今日は毎週木曜部開催の「宙の言の葉」。
あの頃の言葉が、
わたしの襟を正します。
人はどうして言葉を書くのか?
それは、長い時を経て
すべてを自分に返すため・・・
あの頃の私の言葉がほんとうであれば
いま届いてもなんの後ろめたさもないこと・・・
そういうことを確認するため。
あの時、確かに自分から発した言葉なのに
戻ってくるときは、わたしの手を離れ天から響く・・・
「いまの己は大丈夫か?」
創作はすべて天へお返ししするもの。
そして、再び天から授かるもの・・・
そういうことなんですね・・・
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
夏、芒種(ぼうしゅ)のころ①・・・健康寿命
どんな季節か・・・
芒(のぎ)のある穀物や
稲や麦など穂の出る穀物の種をまく季節ということから、
芒種と言われています。
芒(のぎ)とは、
米や麦などイネ科の植物で、
花の外側についている針のような突起のこと。
禾とも書きます。
梅の実が青から黄色に変わり、百舌が鳴き始めます。
かまきりや蛍が現れ始める頃でもあります。
次第に梅雨めいて、五月雨(さみだれ)の季節に入ります。
今日は雨・・・
もう梅雨入りなのでしょうか・・・
さて、昨日の花結び(音読会)・・・
今は、こんな本を読み合わせている・・・
(他にも数冊同時進行)
例えば、こちら・・・
こちらは古い本だが、母のこともあり、勉強してる。
著者の加藤清さんは、
医学会から葬り去られている「千島学説」をもとに
多くのがん患者を治していたにもかかわらず
1988年1月13日に逮捕され、失意の中なくなったらしい。
当時もいまも、賛否両論あるが、
がんが治ったという多くの人がいる以上
学ぶことも多い本である。
ところで、母の胸のしこりが最近小さくなった。
今まではリンゴぐらいあり、
皮膚に張り付いて動かない感じだったが
最近は、トマトぐらいの大きさになっている。
皮膚としこりの間も緩み始め
張り付いて動かなかったしこりが左右に揺れ始めた・・・
わたしは医者ではないが、
自分が学んだことを母に伝え
母もある本を読んでいて
互いに意見が一致したこともあって
民間療法を実施している。
80を超えた母の願い・・・
それは、病院と薬に縛られた晩年ではなく
日常生活のなか、一病息災で天命を全うしたいということ・・・
おそらく、人間ならだれでも思うことではないだろうか・・・
最近はそういういのちのことを
健康寿命というらしい。
たまたま母と私が読んでいたのが
偶然同じ医者の本だったこともあり
ビワの葉温灸、ビワエキス、
ビワの種の粉の飲用を毎日(7.8か月ぐらい)、
姫川薬石を小脇に抱えての睡眠・・・
進んで試してくれている。
硬いビワの種を粉末にしたものは飲みやすく、
特に良いようで、からだも軽くなったと喜んでいる・・・
以前にもビワエキス、姫川薬石のことを書いたが、わたしも愛用している。
自分で試し、裏付ける理論を学ぶ・・・
自分の健康を医者に丸投げせず
自ら生き方を選ぶ母をわたしは尊敬している。
※「花結び」という音読会・・・
毎週火曜日13:30~15:30 inAddCafe
ご参加費:1000円(ピヨさんのママおやつ&ドリンク付)
夏、小満のころ⑯・・・詩歌のちから
明日から、「芒種(ぼうしゅ) 」です。
「小満」のなごりに、今日は「か・かた・かたち」のお話・・・
常々、私が思うことがあります。
最終的に事実や心情を伝えられるのは、詩歌しかない・・・
そういうことです。
写実的なドキュメンタリーだけでは、
肝心なことが伝わらない場合がある、ということです。
詩歌には、エネルギーの行き来が生まれる場があります。
最小限に削がれた言葉の中だからこそ生まれる磁場があり、
そこで、詠み手(作り手)と読み手(作品に触れる側)の
いのちが行き交うのです。
若いころ、ある私立高校の教員を
一年だけさせていただきました。
その高校は、いわゆる偏差値的にはあまり高い高校ではなく
生徒の中には、劣等感や家庭の事情から
荒れる子が少なからずおりました。
いつもどこか投げやりなその子たちが
自分を肯定的に認められるようになるには
どうしたらいいか思案しました。
たどり着いたのは、毎日生徒たちが帰った後、
ある詩人の詩を 後ろの黒板に書き写すことでした。
その方は、須永博士さん。
(ソフトボールの上野選手もこの詩集に励まされたと
動画で見たことがあります)
詩を選ぶとき、その日その日に、
落ち込んでいる生徒の顔を思い浮かべながら
その子に向けての手紙のように書きました。
ある朝、教室に行くと
「先生、この詩わたしに向けて書いたでしょ。」
そういってきた生徒がいました。
ドンピシャ正解でした。
わかるんですね・・・
詩歌にはそういう力があります。
そこで、冒頭の「か・かた・かたち」のお話・・・
この「か・かた・かたち」は、
人間の「認識プロセス」(とらえる)と「実践プロセス」(やってみる)を表す言葉です。
建築家の菊竹清訓氏が1969年に提唱した理論です。
認識のプロセスは〈かたち〉→〈かた〉→〈か〉の順に
実践のプロセスは〈か〉→〈かた〉→〈かたち〉という順に・・・
そうやって段階を経るという理論です。
そして、この二つの流れは
らせんを描くように立体的に循環する・・・
そういう考え方です。

なんのこっちゃと思われるでしょうが
私なりに簡単にいってしまえば、
〈かたち〉・・・目に見えるもの
〈かた〉・・・目に見えるものと見えないものをつなぐ「空間」「依り代(よりしろ)」
〈か〉・・・目に見えないもの
弓道、茶道などの芸道に〈かた〉があるのは
目に見えない何かとつながりたいという人間の心が
「道」になったからではないかと思います。
またこれは、芋虫が蝶になる過程ともよく似ています。
さなぎの中で、芋虫のからだはほとんどすべてが溶けて、
さらに全くはじめから再構築(蝶)し、空へ旅立ちます。

今回お話した生徒たちは
〈かたち〉・・・須永博士さんの詩を見る
〈かた〉・・・須永さんが描いた世界を自分の感覚でとらえる
〈か〉・・・須永さんと自分の感情との共通点を見出す
🔄
〈か〉・・・共通点は「いのち」だと気が付く、自分の根っこに気が付く
〈かた〉・・・自分の感情や存在を肯定的にみようとする気が起こる
〈かたち〉・・・自分の行動をあらためてみたい、やってみようと前向きになる
校則がどんなに厳しくても
子供たちを変えることがないのは
そういった「立体的な間と流れ」がないからです。
たった一つの詩が
生徒たちを変え、人間に勇気を与えるのは、
〈かた〉という「詠み手(作り手)と読み手(作品に触れる側)のいのちが行き交う場」が存在し、
そのらせんの頂点で、そのいのちが次の〈かたち〉へと昇華するからです。
理屈では語れない詩歌・・・
学校の国語の詩歌で正解が一つなのは
とても残念でなりません。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
夏、小満のころ⑮・・・大衆酒場の粋とオキテ
酒場詩人こと、吉田類さんの本だ。
わたしもお酒をたしなむ?が、
最近やっと「大衆酒場」で飲んでいても許される
年齢(資格?)を得られるようになったかも・・・と思う。
かつての職場近くに、ずっと気になる大衆酒場があったが
酒場での粋がわからぬ、子供の自分には、分不相応と躊躇していた。
TakeOutのたこ焼きを買うとき、ちらっとみえる大人の雰囲気・・・
まだそこにデビューするには、わたしの経験も智慧も薄かった。
大人には二つの定義があると思う。
ひとつは、少しだけ贅沢ができるという「大人」・・・
度が過ぎれば、偉そうぶる大人もこれに入るかもしれない。
もう一つは、
酸いも甘いもかみ分け、それでいて分別をわきまえている。
けっして偉そぶらず、それでいてじんわり人生の味が出ている・・・
そういう大人・・・
大衆酒場には、そういう大人たちが
まるで胎内にもどったかのような
ほんわか脱力した空気が流れる。
飲み過ぎず、酔い過ぎず・・・
それでいて垣根のない陽気さがある・・・
そういう粋な酔い方ができるまでは、
大衆酒場で杯を傾ける資格?はない。
大衆酒場には決まって古女将がいる。
客が飲んで他の客にくだをまかぬようピシッとたしなめる。
店によっては、3杯まで!と決められてる店もある・・・。
みなが気持ちよく飲むために
店にはいつのころからか生まれたオキテがあったり
女将そのものがルールになっていたりするのだ。
この本にもいくつか名言があるが
そのひとつ・・・
「オキテの意味するところは、
他者への思いやりから派生する部分が
根底にあることを強調したかった」
残念なことに、今日もこんなニュースが流れていた。
「市教委、校長に隠蔽指示 」
昨今、こういった古い大人が見せる「オキテ」は
自らや自らの組織の醜い保身のためが多いが
「大衆酒場」のオキテは、
人、歴史、風土が互いに心地よく交わるための
心地よいやさしさなのであろう。
最近では、20~40代の若い人に
この「大衆酒場」が人気なのだそうだ。
たぶん、こういった古い大人からの決別が始まっているのだろう。
わたしも「老害」にならぬよう、
少しずつ大衆酒場の「粋」と「オキテ」を学ぼうと思う。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
夏、小満のころ⑭・・・夜逃げの文化
これで、今夏 苗がどれだけ大きくなっても大丈夫・・・
準備万端である。
キュウリの不思議・・・
それは、支柱を大きくすると伸びるスピードが上がるのだ。
長めの支柱、ネットをかけると
「もう大きくなってもいいんだ」
と言わんばかりにスピードが上がる。
大きめの支柱やネットをかける前は
地味な伸び方しかしない。
畑の苗は、育てる主の足音を聞いて育つという。
支柱にさす「ザクッ」という音にも反応しているのかもしれない。
今日も小一時間、作業しているそばから
蔓が支柱にまき始める・・・
本当に不思議だ・・・
そんなキュウリとの対話を楽しみながら
わたしは昨日の貴重な経験を思い出していた。
久しぶりに足を運んだ居酒屋のカウンター・・・
一期一会・・・ある高校の先生二人と隣り合わせになった。
塾の教員と現役の先生が酒を交えて語り合う・・・
そんなことは人生そうそうあることではない。
初対面にもかかわらず、
思いがけず息が合い、2時間ほどあつく談笑・・・(笑)
わたしのすぐ隣の方が、もとアメフト部ということで
今をにぎわすあの話題になった。
たしかにあの反則行為はあり得ないらしい・・・
そして私見だがおそらく生徒の判断ではなく
コーチ、監督の指示、もしくはそういう気質が部内にあったのだろう・・・
そんなお話になった・・・
そして、次の話題も息があった・・・
「人のうわさも七十五日」
そうなりにくい窮屈な世の中・・・
あいかわらず昼のくだらない番組では
いまもぐだぐだと部外者が評価をし続けているらしい。
どんな事件も、当事者のように考え
自分の教訓にしていく・・・
そこまではとても大切な作業だ・・・
そして、自分の中の落としどころが見つかったら
当事者でない我々はあえて身を引くこと・・・
つまり、忘れないけど、忘れるふりをすること・・・
あの大学の関係者はごまんといる・・・
そういう「当事者でない関係者」ともいうべき方々への配慮を忘れないことだ。
最近はとにかくしつこい・・・
どうも原因があって「怒る」というより
「怒りたい」という感情が先にあって
それを消化するためにニュース、できごとを利用している・・・
そんな気がする。
まるで自分たちが
世の中の声を全部代弁しているかのような振る舞いである。
ちなみに私は頼んでいない(笑)
いうべき時に自分で言う。
本当に怒るべきときと
原因と結果をさかさまにした「怒る」は
ちゃんと区別しないといけない。
あの問題でも、
それが起きないために・・・
そんな世の中にしないために・・・
何ができるかを自分で考え、
伝える相手がいるならば
メッセージを発すればいい。
怒りは知性で処理すべきである。
昨今のTVを「怒りの娯楽化」と表現した人がいた。
言い得て妙である。
まるで自分が被害にあったかのように
周りへの強制的同調をうながし、怒りつづける・・・
要は、「知性」がないのである。
わたしたちが育った昭和・・・
バブルがはじける前は
身近なところで時々「夜逃げ」が起きた。
居酒屋ではそんな話にもなった。
わたしの近所でもそういう一家があったし
小学校でもある日突然いなくなった友達一家もいた。
あれは、かつての日本人が考えた究極の「セーフティネット」だと思う。
今はマイナンバーがあって、やりたくてもできないのではないかと思う。
「忘れてあげるやさしさ」
「なかったことにしてあげるやさしさ」
「自分たちの知らないところで やり直させてあげるやさしさ」
これも知性の一つであろう。
たしかバブルがはじけた直後に夜逃げのドラマもあった。

夜逃げの善悪は私にはわからない。
しかし、当時そういうことが許される風潮があったということだ。
昭和から平成への過渡期・・・
まだ世の中には「寛容」という言葉が生きていた・・・
忘れるふりをする寛容・・・
そんなことを、ほろ酔いの中
一期一会で楽しんだ夜だった。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
夏、小満のころ⑬・・・人間の尊厳
5月に定植したキュウリやトマトの苗が
先日来の雨ですっかり大きくなって
ひと回り大きな支柱がいるのだ。
すでに実も付けている・・・
苗が育つということは雑草も育つということで
このころの畑は、生命の息吹を否が応でも感じる(笑)
少し体を動かしてからのこのブログ・・・
何もしないときよりも気持ちよく筆が進むのは
からだと言葉が連動している証拠。
名随筆家や文豪と呼ばれる人で
散歩好きな人が多かったが
少しわかる気がする。
さて、3人目の恩師は、
中学の時の体育の先生、T先生だ。
そのころは確か30歳ぐらいだったと記憶している。
中1のある日、授業の合間、休み時間だった。
一つ上の中二クラス、
教室横の廊下を歩いているときだった。
教卓の椅子に座って、
顔を臥せっているT先生がふと目に入った。
周りには囲むように数人の女子生徒・・・
黒板の軌跡を見れば
おそらく女性のからだの構造が書かれていたので
保健の授業、性教育の授業だと想像できた。
当時は、体育、技術家庭は男女別々・・・
周りは女子しかいない。
先生はどうやら泣いているようだった。
しかもかなりの号泣だったとみえて
わたしが通った時にはそのしゃくりあげがまだ続いていた。
すこしびっくりした。
「何があったのだろう・・・」
その先生が、いまのような学級崩壊などゆるすわけもなく・・・
おかしいな・・・
そう思っていると、
同じソフト部の先輩(あまり好きな先輩ではなかったが)が
先生の肩に手を添えようとしていた・・・
「先生、元気出して・・・」
わたしからみても意外に軽いノリで告げていた・・・
その瞬間!
「あんたになにがわかるんだよ!」
先輩が手をのせるかのせないか・・・
暇はなかった。
ばっと、その先輩の手を叩いて遠ざけた。
わたしは、もう一度驚いた。
その時の先生は、もう「先生」ではなく
一人の人間、個人だった。
あとからわかったことだが
それは、「人間」であり、「女性」であり、「母」であった。
性教育の授業・・・
女性のからだを教えている最中、
先生はご自身の流産の体験を思い出された(話された)という。
おそらくご自分ではもう心の整理がついていたと思っていた・・・
だからこそ、授業で、生徒の前で話そうとされたのだろう。
だが、意外にもそうではなく、
まだ心の奥に残っていたあの時の感情が
堰を切って流れ出したにちがいない。
いのち、哀しみ・・・
おそらく、先生自身もその展開はあまりにも不意打ちで、
教室という公の場にもかかわらず、思いがけずに
「人間」となり「女性」となり「母」となってしまったのだと思う。
なんて素直な先生なのだろう・・・
安っぽいドラマのように、慰めようとしている生徒(女性)に対して・・・
安易に理解しようとする軽はずみな生徒(女性)に対して・・・
「なにがわかるのか!」と突っぱねる
先生のその態度に、わたしは感動し、釘付けになった。
この感動という言葉が正しいか今もわからないが、
とにかく私の心は、ああ・・そうか!と悟りのように大きく動いたのである。
安易な傷のなめ合いを拒む
「凛」とした一人の女性、人間の尊厳・・・
先生は別にねらったわけでもないが、
人間の「ほんとう」が激しく吐露されたあの場面で
思春期の私が感じたものは大きい。
そういう先生たちが今も私の心にいて
わたしという人間を育て続けてくれている・・・。
実に、感謝しかない・・・。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体