プログラマーである私たち
あなたの神経システムがハードウエアで、
体の中で起こるすべての化学変化が
ソフトウエアだと想像してみてください。
そのソフトウエアまたは、プログラムは
あなたの考えや感情や解釈や願望に応じて変化します。
しかしそこにはプログラマーが存在します。
そのプログラマーは誰でしょう?
プログラマーは内なる自己、静かな目撃者で、
すべてを目撃している。
絶えず存在する意識です。
そしてあなたがその静かな目撃者とつながるとき、
プログラムを書き換える能力が与えられるのです。
ディーパック・チョプラ
飛び込んだ文章がこれだ。
私が昔の本を開ける時、
心の中で問いを出し、
その答えを示すように願う・・・
「いま、私に必要なものは何か?」
そう問いながら本を開けた・・・
いま私たちは自分とこの地上のプログラムを
書き換えるときのようです。
私たちが、です。
もしチョプラが言うことが本当ならば、
(おそらく本当なのでしょう)
わたしたちが日ごろ何を聞き何を見ているかで
プログラムが変わってしまいます。
私は今、個人的にも
人類の一員としても
ものすごく大事な時期に来ているような感覚にあります。
だから、世間で
コオロギがとか
偽の卵が創られ始めたとか
コメが遺伝子組み換えされ始めたとか、というのが
ものすごく雑音に聞こえるのです。
苦くて
そこに焦点が当てられないのです。
苦しいのではなく「苦く」感じるのです。
「苦々しい」
そういうことは確かに大事でしょうが、
少なくとも今の私には、道理ではないのです。
何か、ワクチンの時と同じような流れを感じます。
私たちが意識すればするほど
強固な不安と恐怖ができていく感じです。
この流れを誰かに作られている感じです。
優劣や善悪の問題ではありません。
高速道路で下降する道路と
そのまま緩やかにまっすぐ伸びる道路が交差する場のようです。
目的地が違うだけです。
そして、私にはその二つの接点が見つからない。
ニュースで報道された段階では現実化が強固でないのに
人びとがそれを意識すればするほど
強固になっていく感じです・・・
耳を通り過ぎさせればいいものを
わざわざ意識化するように持っていっている・・・
そのルートと目的地に入りたい人が入っていく感じです。
偶然開いた15年前のこのチョプラの言葉が
いまの私にはとても重要で
つながりたい目撃者です。
私が今何を創造したいのかは
私の静かなる自己が一番よく知っているのでしょう。
あなたもそうです。
あなたの世界は、あなたの主観でできていますし、
私の世界は、私の主観でできています。
私はそれが顕れるのを待てばいいのだと思います。
その互いの世界が出会う奇跡・・・
もし、私とあなたが出会ったならば、
その静かな目撃者に共通部分があるのか、
それとも同じ目撃者とつながったのかもしれません。
それがこの世の妙であり、
平たく言えば、「ご縁」ということでしょう。
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genre : 心と身体
令和buzz280・・・自分の感覚を信じる
TVニュースがこう話していた。
「学校現場で消毒疲れが出てきている。
最新の科学的根拠でそれを軽減できるような政策を
10月の中旬をめどに進めていきたい・・・」
呆れてものが言えない・・・
いまごろ?・・・
でもやらないより
やった方がいい・・・
ずっとこれまで強いられている
科学的根拠のない新しい様式・・・
その中でも真っ先にやめた方がいいことが消毒・・・
➡マスク規制緩和願&消毒有害論
この記事では、遠慮がちにマスクのことを書いているが、
すでにマスクも、害の方が大きいことがわかってきている。
右の検索窓に「マスク」と入れていただいたら
記事が出てきますので
良かったらチェックしてみてください。
話しを戻しましょう。
冒頭のニュース・・・
まさに今頃!!!
私たちが自分たちの感覚、知性で
吟味することを忘れてしまった末路が今・・・
消毒しなさいと言われてはして、
消毒はもういいと言われてやめて・・・
マスクをしなさいと言われてはして
マスクももういいと言われてはやめて・・・
自粛と言ってSTAY HOMEし、
GO TOと言われて出かける・・・
やるにしろ、やめるにしろ、
自分たちの身体の感覚のことを
政府にとやかく言われて黙ってしたがう・・・
私たちは本当に大切な何かを
嬉々として、渋々として、
どちらにしても、手放していいものだろうか?
自分の感覚を後回しにさせる政策、命令、同調圧力と教育・・・
私はこれを偽物と思っています。
私は私にしかなれない・・・
あなたもあなたにしかなれない・・・
学校では個性を大切にと言われつつ
なぜみな同じ生活様式をしなければいけないのでしょうか・・・
様々な見方が大切と言いつつ、
正解が一つのテストを強いる・・・
AIの時代が来るから
自分で考えることが大切といいつつ
思考停止の新しい生活様式を強いる・・・
学校、社会はいつも真逆なことを
同時にやれというんです。
もう滑稽でしかない・・・
昨日も、男子生徒のツーブロックという髪型がいけないと
生徒指導を受けた級友の話が話題に上った・・・
なぜツーブロックがいけないのか?
校則だから・・・?
決まりだから・・・?
事件に巻き込まれるから・・・?(笑)
学校は全く論を欠いている。
もうギャグでしかない。
究極、私たちは私たちの内なる声以外の声は
聞かなくていい・・・
魂からの納得、喜び・・・
これこそが現実を作ってしまうのだ。
権威者は、これが怖いのだ・・・
そうとしか思えない、
まるで逆のような世界に私たちは生きている。
個性など求めなくていい・・・
あなたの存在そのものが個性だから・・・
すでにあるものを、
外にあるから頑張れという言う人々から遠ざかろう。
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genre : 心と身体
令和buzz160・・・just do right(その通りにすればいいだけさ)
本日長文につき、お許しください。
黒人の公民権を勝ち取るために、
活動した人物として、
キング牧師が有名ですが、
もう一人有名な方がいます。
マヤ・アンジェロウさんです。
活動家、詩人、歌手、女優である彼女の動画を
ひっそりと発見しました。
「魂が喜ぶ生き方」と題されています。
魂とは、もちろん自分の魂ですが、
久しぶりこういうフレーズを聞いて、
ああ、やっぱりそうか・・・
と思ったのです。
魂は嘘をつけません。
人は、人には嘘をつけても
自分自身には、一ミリも嘘をつけません。
それなのに、嘘をついた言動を選択してしまいます。
ですから、
いくつもの偽善や虚勢を潜り抜けて
自分の魂の声と言動が一致した時、
自分の魂が喜ぶと言うことになります。
魂が喜ぶと、
神様が喜びます。
あ、決して、怪しい宗教ではありません(笑)
よくわからない人は
スルーしてください。
でも、なんとか
分かりやすいように説明します。
自分の魂は、
自分の精神と肉体、そして
それを行き来する心をも包み込む
さらに大きな魂と源流は同じです。
例えば、
人間の身体が大いなる魂だとすると
末端の指先の一本が自己の魂・・・
他の指先は、他者の魂・・・
その指先は時に
額に手を当てたり
首を掻いたりしますが、
指をあてられた身体は、
互いに体温を感じます。
その体温を温かいなー、冷たいなーと感じるものが
「心」という感じです。
五本の指全部が温かいと感じるとき
この5本の指同士の価値観が同じというわけです。
身体のてっぺんの脳が精神・・・
でも、脳(精神)は、
身体ほど魂に正直じゃないので
根性で我慢したり、働きすぎたり・・・を
こなしてしまいます。
「ねば」「べき」の領域です。
脳(精神)は、自分の人生で、
意味がないものを意味あるものと錯覚させたり
意味あるものを意味ないものとして捨てさせてしまうときもあります。
「お国のため」の戦中がそうですし、
今のコロナの同調圧力も同じ性質です。
脳(精神)の誤作動です。
脳(精神)は、
心や自己の魂をだましたりすることもできます。
脳(精神)は、心を作り出しますが、
それが、身体(魂)と一致しないとき
病気になったりします。
ちなみに、精神は「幸福」までは感じられ
自己の魂は「歓喜」までを感じます・・・
大いなる魂は、何か感じる、感じられる自他はなく
「ただ、ありのまま」という状態があるだけです。
それほど、
精神と自己の魂、そして、大いなる魂の大きさが違います。
源流の魂、それを神と呼ぶ人もいれば、
宇宙と呼ぶ人もいますが、
私は別にどちらでもいいと思っています。
だから、それはあなたの名前であってもいいのです(笑)
大いなる魂も、自己の魂も、
本人が真にありのままの時は力を貸せますが、
偽善や無理をしているときは、
「その者がしている“ありのまま”がありのまま」というルールですので
力を貸しずらくなります。
こういう構造さえわかれば、
なぜ、人に優しくした方がいいのかとか・・・
なせ、人が喜ぶことをした方がいいのかとか・・・
なぜ、人に親切にする方がいいのかとか・・・
なぜ、他人をありのままにさせておくのがいいのかとか・・・
なぜ、心で話すと伝わりやすいのか・・・
そういうシンプルなことがわかります。
自分はあなただし、
あなたは自分だからです。
Oneness(ワンネス)とは
いま言った仕組みや構造を指すわけです。
神様とは、単なる象徴で、
実は、自分自身のことですから、
自分が喜ぶと言うこと
神様が喜ぶということだし、
神様が喜ぶと言うのは、
自分が喜ぶと言うことです。
繰り返しますが、
怪しい宗教ではありません(笑)
表裏一体、
自他同一、
前の人の尻尾は、自分の尻尾・・・
だから、
魂が喜ぶ生き方をすると、
その魂と紐づけされている
他の魂も喜びますから、
自然と人が集まり、
金運も上がることになります(笑)
とどのつまり、金運は人がつれてくるからです。
ただ、気つけないといけないのは
金運は、お金だけを意味しません。
そこの定義を誤ると
エライことになります(笑)
お金と同等、
もしくは、お金と等価以上の価値あるものが、
物々交換で集まったり、
信用と言う価値に囲まれ、
互いにいたわりあう人間関係を営み、
豊かな生活を送ることも
お金と同等、いえ、それ以上の価値です。
健康で暮らせると言うのも紛れもなく、
お金以上の価値です。
金運とは、人生の価値そのものです。
お金と人生の価値、それをひっくり返してはいけません・・・
また、お金とは、「託される」ということです。
何をか?
価値あるものから、もう一度
価値あるものを生み出してほしいという願いを、です。
そういう意味で、
お金というのも単なる象徴としての一例にすぎません。
魂が喜ぶ生き方をしている人に
わたしは、なりたいしこれからもそれを目指します。
「託される」に値する人間になるよう
一ミリずつでも、just do right(その通りにすればいいだけさ)!します。
しかし、これは、人間界では
少し厄介なことです。
なぜなら、それは時に自分勝手に映るからです。
正社員を望む親がいるのに
自分がつぶれそうだからとやめてしまったり、
孫の顔を首を長くして待つ親がいるのに
結婚をしないという選択することだからです。
良識や常識の下に自分を置き、
自分という存在に我慢を強(し)いている人や、
みんなそうやって生きるのが普通だと信じる人や、
また、それが周りや世の中のためになることだと信じ、
美徳だと思い込む人からすれば
魂が喜ぶことをしている人は、
本当に自分勝手に映ることでしょう・・・
でも、
just do right(その通りにすればいいだけさ)!
その通りとは、魂の喜ぶ通り・・・
そういうことです。
会社時代に、ある最上司に言われました。
「あなたはどうしてそんなに頑固なんだ!(素直でないんだ)」
私は即答しました。
「私は頑固とは思っていません。
わたしは、自分の心の声にしたがっているだけです。」
(自分の心に一番正直であると思っている)
本物の、魂が喜ぶ生き方は、
勝手に振る舞っているようで、
なぜだか人に好かれるのです。
そういう意味では、
当時の私は、その最上司を不快にさせてしまったので、
まだまだ未熟だったと言うことです(笑)
「勝手に振る舞っているようで、
なぜだか人に好かれる」
孔子は、この達観した境地を
言い得て妙に表現しています。
「七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」
(70歳になったら自分の心のままに行動しても
人道を踏み外す事が無くなった。)
英語でいえば、
just do right(その通りにすればいいだけさ)!
わたしも、着々とその域を目指したいと思います(笑)
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夏、小満のころ⑧・・・イサドラ・ダンカン
いまはもう取り壊されて
「三重県総合文化センター」(一身田)に集約されていますが、
その当時は、津市警察署のそばにあった文化会館(?)でした。
舞台は、当時でも珍しく
文字通りヒノキでできていて
「檜舞台」という言葉にふさわしいレトロなステージでした。
わたしが出会ったダンスは
基本裸足で舞台に立ちます。
足の裏から感じる床の感触、舞台の温度は
いまのスピリチュアルで言う
「グラウディング」に当たるものでしょう・・・
ダンスの先生が、私たちに舞踊を教える際、
根底にある人物がいました。
イサドラ・ダンカンです。
近代に入り、古典的クラッシックバレエから派生した
様々な身体表現が生まれますが、
その中でも一番衝撃的だったのが
イサドラ・ダンカン(1877-1927)でしょう・・・

トゥシューズを脱ぎ、コルセットを外し
素足で踊るその姿は、中世・近世の
あらゆる社会的束縛を破壊するエネルギーがありました。
「自由」・・・ことに時代的には「女性の自由」を体現し、
「踊るヴィーナス」「素足のイサドラ」と言われました。
クラシック・バレエが、床を嫌い
いかに床から遠く離れるか(ジャンプ)に
「美」を見出しているのに対して、
イサドラ・ダンカンの世界(モダンダンス)は、床に触れ
床を発見する舞踊です。
足の五本の指で床をつかみ、
身体の中心にある、原初的なエネルギーを呼び起こします。
ときに体のありとあらゆる表面積で床に沈み込みます。
「精神表現の源が太陽神珪叢(みぞおち)に所在する」
「舞踊は生涯教育であり、舞踊を娯楽でなく、
森羅万象に向かう意識的な手法」
先生は、
まるでこのイサドラ・ダンカンに会ってきたかのように
わたしたちに舞踊を教えてくれました。
いまでは、踊りから離れ10年ほどたち
あんなにも夢中だった踊りのあらゆるシーンが
少しずつあいまいになってきていますが、
魂の発露としての舞踊を言語化した
こういったことばたちに出会うと
身体のどこか奥に刻まれたなにかが反応し
いまでも細胞が振動するのがわかります。
わたしたちの記憶装置が、脳ではなく、
細胞にあるからでしょう。
また、イサドラ・ダンカンは、行動を制約するような
社会規範の殆どに挑戦したと言われています。
彼女の社会への強烈な提言と革命は、のちに
ロダン、カリエール、ブールデル等同時代の画家・彫刻家や
演出家スタニスラフスキー、詩人コクトー、
進化論者ヘッケルなどに影響を及ぼしています。
彼女は、舞踊を人間の魂の非言語的表出といっていますが、
わたしが、師事したダンスが、
あの稚拙な「波~」ではなく
こういったいのちの発露であったことは
本当に幸運だったと思います。
いま改めて、イサドラ・ダンカンを調べてみて
わたしがのちに、スピリチュアル世界の扉を開いたのは
必然だったようです。
あの時代、先生から体ごと伝えられた
イサドラ・ダンカンの「革新性」は
潜在的に私の体内にインプットされ
卒業後、29歳なった時に、
「三重にも自分たちが気軽に踊れる舞台を・・・」と
同志たちとともに、
自主公演を立ち上げるエネルギーとなるのです。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体