美醜を超える真実
➡鬼谷子-聖なる謀-
2年という歳月をかけて脚本を書いたらしく、
とにかくすごい!
時代は、2000年以上も前の中国戦国時代・・・
七国が群雄割拠する時代、
秦が中国を統一する時代より
さらに100年早い時代だ。
この物語、まばたきをすることさえ忘れて
画面に見入る時が多い。
日本のドラマはもちろん
大河ドラマで描かれる「人生」が
ちっぽけに見えてしまうほど
各人の壮絶な人生が描かれている。

日本のドラマが描けなくなったのは、
このまばたきをも許さない壮絶さだ。
そして、これだけの数の名優をそろえることはもう無理だろう。
とにかく日本のドラマは
全てをきれいにまとめすぎている。
きれい事なのだ。
きれい事とはすなわち
嘘っぱちに見えるということだ。
この鬼谷子に描かれる壮絶さは、
作られたものでありながら、
見る者には現実として重くのしかかってくる。
ちなみに私はグロテスクなドラマや映画が嫌いだ。
なのに、鬼谷子は目が離せない。
相当なグロテスクなシーンが繰り返されるのに
目を離せないのだ。
いや、離してはいけないとさえ思える。
なぜだろうか?
それは、この製作者たち、俳優たちが
この人間の醜悪、暗部から逃げていないからだ。
だから、どこか「美しい」とさえ感じてしまう。
登場人物は、無残なまでに
美から醜へ転落していく。
そこまで描くか・・・と苦しくなる。
しかし、その醜のむごさに関わらず
そこにはそれぞれの圧倒的な「真実」がある。
目の前の嫌というほどの「醜」の奥に
身をえぐられる「真実」が隠れているからだ。
真実は一般化できない。
だから、鬼谷子の中の人物は
良い悪いの次元
好き嫌いの次元
美醜の次元を超えて
わたしをうならせる・・・
皆それぞれが存在証明をかけて堂々と、
必死になってその真実を貫いている。
いや、貫かなければ
いのちが危うい・・・
だから戦国時代なのだ。
醜の中の美・・・
美の中の醜・・・
ホンモノを見つめる目は
この逆説の中にしかない。
わたしは、聖徳太子は渡来人だった説をとるが
彼が言った
「和をもって尊しとなせ」は
生ぬるい「和」ではなく
何百年と続いた壮絶な醜の中で生まれた
「和」だったかもしれない。
日本のドラマよ!
大いに見習ってほしい・・・
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