歌舞いて、笑って、まじめにバカをやる
必ず「動物シリーズ」というものを創作していました(笑)
何かの動物に扮するダンサーが面白おかしく
その動物になり切ってダンスにしていくんです。
たとえば、スケボーに腹ばい、背ばいになって
上手から下手へ、下手から上手へ
自由自在に滑って行けば、
ラッコ(笑)
ペンギンの時には
地球の温暖化と掛け合わせて
地球ペンギン会議に扮して
着ぐるみを着たペンギンたちが
うちわを片手に真剣に話し合う・・・
パンダ
ニワトリ
うさぎ
実に多くの動物をやって来ました(笑)
その時、私が学生たちに助言した言葉に、
「バカを真剣にやる」
でした。
人を笑わせるのは、
芸術のなかでも一番難しい・・・
それは、人間はバカを真剣にやれないからです。
自分がバカになれないし、
バカなことは恥ずかしいし、
バカと思われるのが嫌だというプライドがあるからです。
ただ、
この馬鹿を真剣にやって
観客の方が本気で笑ってくださったとき、
このバカは舞台上で昇華します。
学生たちは、
この動物シリーズに毎年出たがりました。
舞台上に、何十人のうさぎがいることを創造しただけで
楽しい気持ちになります。
なぜ学生たちは動物シリーズに出たかったのか・・・
それは、人を笑わすことの歓びを
肌で体感できるからです。
こんなバカバカしいことで、
こんなに嬉しいこと楽しいことは
日常でそうそうあるものではないからです。
バカは偉大なんです。
バカは遊びだからです。
遊びを真剣にやる・・・
この真剣ということさえ意識しない存在がいます。
それが、子どもです。
実に天才的な遊びの名人です。
遊びをせんとや生れけむ、
戯れせんとや生れけん、
遊ぶ子供の声きけば、
我が身さえこそ動がるれ。
『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)
考えて見れば、
この世の中、
上から言われることはすべてばかばかしい・・・
せめて、歌舞いて、笑って、
人生、大いに遊びましょうか・・・
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theme : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
genre : 心と身体
tag : 遊び
秋、処暑のころ⑫・・・玄徳の習得(6)
そう今はそうたどり着いています。
そして、その自己実現をかなえるための
前段階としての「自己表現」に
私は疑問を持っています。
ましてや、「自己表現」を
「愛」
「人類の癒し」
「地球の高波動」
などと因果、相関関係があるというのは
実に短絡的なのでは・・・というお話をしましょう。
人間が自由に「自己表現」をしつくせば
自然を破壊することも
人間の健康を害することも
人のマイナスの感情が行き場を失いさまようことも
人類は、もう何千年も経験済みです。
光あるところに影があります。
光と影は表裏一体です。
一方だけが、存在することはありません。
そのことを熟慮せずに
「自己表現で地球を癒す」と
短絡的に行動を起こすことは
まさに「木を見て森を見ず・・・」
「葉をみて木を見ず」ということです。
誤解を恐れずに言えば
私たちの自己表現とは
「絵を描く」
「踊る」
「歌う」
・・・
そういった大げさな芸術活動ではありません。
そういうことは・・・そうですね・・・
「遊び」といえばいいでしょうか・・・
子供たちの遊びをじっと見てください・・・
もちろん楽しそうに遊ぶ時も多いでしょうが
時に人のおもちゃを奪ったり
殴ったりして、泣いたり喧嘩したりしていませんか・・・
あれが「自己表現」なんです。
「自己」というのを自由に出そうとすると
どうしてもそういういわゆる「負」の部分が
出てしまうのが人間なんです。
大人の自己表現の場合、
表に出てきませんが、
内部にうごめいているだけです。
見る見られるの対極の中で
「奪う」
「叩く(砕く)」
「抑える」
「威圧する」
そういう部分が出てくるのです。
例えば、一流の人が、一流の人に嫉妬する・・・
これは「嫉妬」という形で、
己の「自信」を奪っているのです。
➡さだまさし 中島みゆきに嫉妬「到底戦えない 別の宇宙を見る思い」
私もまがりなりにも「踊り」を25年ほどやってきましたから
感覚としてわかるのですが・・・
表現とは一種、
自分を守るためにやる部分があります。
「囲い込む」と言ってもいいと思います。
神社の玉垣(タマガキ)に似ています。
結界をはるんです。
でないとオリジナルになりませんから・・・
そこに不法侵入してくる感情や輩を
シャットダウンする時期があるんです。
だからさだまさしも
「僕はどっちかというからすねているから、
カラオケで歌われてたまるかみたいな歌ばかり作るから。
正式には流行歌じゃないんだけどね」というんです。
そうやって自分のアイデンティティーを守って守って
やっとそこを超えたところで見えてくるものがある・・・
それが、「空」の感覚というのでしょうか・・・
もう、奪う奪われるの世界にいない何か・・・
だれにも奪われず、だれにも侵されず
そういう穏やかな境地に至るのです。
奪われても、いくら持って行ってもらっても
また泉のように生まれる何かを持ち、存在する・・・
「高い」からそうなるのではなく
「低く低く広がるから」そうなるのです。
まるで「水」のようになるからです。
「表現」が自分の所属でなくなり
自他、出入・・・融合の境地になる・・・
そこまでいければ
俗的に言う「著作権」とか「侵害」とか
そういう言葉から離れられるのかもしれません。
そういう深い過程を経た「自己表現」は
もう「自己表現」とは言わないのです。
前述のさだまさしさんの嫉妬などは
もちろんこれは受け手側の問題でもありますが
「見せびらかす」という言葉があるように
人間には「表現者側の幼い感情」もあることを忘れてはいけません。
そういう意味で、
「自己表現」→「愛」というのは
幻に過ぎないのです。
「営魄(えいはく)を載(の)せて
一(いち)を抱(いだ)く」
(魂魄が分かれることの危うさ)
そろそろ「玄徳」について触れていきます。
つづく・・・
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
夏、夏至のころ⑤・・・三の風
その朝、わたしは髪を切りに
ある駐車場を歩いていた。
いつものハンチング帽をかぶっていた。
めったにハンチング帽が風で飛ばされることはない。
それに、多少の風はあったが、
特別、風が強い日でもなかった。
何を考えて歩いていたか
まったくおぼえていないから
たぶんぼーっと歩いていたと思う。
ふいに突風が吹き
ハンチングのつばをかすめた。
手で押さえる暇はなかった。
一瞬・・・
あっという間に5メートルほどとばされた。
「めずらしいこともあるもんだな」
その時は何気にそう思っただけだった。
が、夕方、父が亡くなったと知らせが来た。
あとからだが
亡くなった時間を知って驚いた。
ちょうど、あのハンチング帽がとばされた時
父がこん睡状態に入り
魂が肉体を離れようとしていたころだった。
父が来ていたんだ。
日頃、人さまのサインは気が付くのに
自分のことになるとすこし鈍くなる。
なかなかうまくいかないものだ(苦笑)
父は腕のいい背広の職人だったが
本当によく趣味に遊んだ人だった。
鳥
花
歴史
バイク
野球
チャップリン
噺(はなし)
・・・
みんな父に教えてもらった。
父がなくなって後、
背広の襟首につけるタグをもらってきた。

古びたその箱の中には
茶色になった新聞の切り抜きが入っていた。

その色から相当昔、父が切り抜いたものだと察しが付く。
父は洋ランのための温室を自分で作っていた。
おそらくその時のものだろう・・・
父 愛用の鳥の図鑑も譲り受けた・・・
鳥にしても歴史にしても
父はよく調べていた。
知識があったほうが遊びも数倍楽しい。
父のまめさが現れる図鑑だ。

子どもは親を選んで生まれてくるというが
もし選んだとしたら
父から人生を遊ぶことを教えてもらいに来たんだと思う。
仕事も大事だが
遊ぶこと、工夫して遊ぶこと、
そして、まじめに遊ぶこと・・・
そういうことを教えてもらったと思う。
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