令和buzz159・・・場(ba)
家庭、学校、ちょっとしたコミュニティ・・・
そして人間は、その場に対して
非常に横柄な考え方を抱きます。
それは、
「私が作った」
「私が選んだ」
・・・・・・・・・
実は、
われわれが過ごす様々な場は、
すべて、私たちに何かを気づかせるために
与えられています。
でも、人間は自分で選んだのだからとか
お金を出して買い取ったんだからと
自分のもの(所有物)として振舞います。
実は、この意識だけで日々過ごすと
必ず「頭を垂れよ」と戒めがやってきます・・・
どんなふうに・・・?
それは、
自分の頭をどこかにぶつけるのです(笑)
え、そんなこと?
と思われる方も見えますが、
まじめにそうお伝えいたします。
わたしなど、わりと
自己肯定感が高い方だと自惚れていますので(笑)
心に傲慢さが
少し現れたころを見計らって
かならず、「ゴン!」・・・
車のドアを開けて
運転席にはいろうとした瞬間
入り口の上部ヘリに 頭をぶつけさせられます。
こうなった時、わたしは、
「ああ、謙虚にならないとな~」
そう、心で唱えることにしています。
自分の頭だけでなく、
車の頭(事故にお気をつけください)
自転車の頭・・・
自分が操作している「頭」も
同じ役割を果たすようです・・・
いつも感謝をし、お辞儀をすること、
日の出や夕日に頭を垂れること・・・
今日の一日の無難に頭を垂れること・・・
そういことで、
頭の強制強打は軽減されるのも事実です(笑)
私が通っていた中学は、
校門に入る時と出るときにお辞儀をするというルールでした。
当時は、軍隊みたいでどうだろうと思っていましたが
まんざら当てが外れていることではないと
あとから気が付くのです・・・
「謙虚」と一言で言ってしまうと
言葉では簡単ですが、
宇宙には、
そういう深遠な法則が働いていることを
日常で感じ取りながら生きると
結構楽に生きられるようになります・・・
[スポンサーリンク]
夏、芒種のころ⑥・・・教師たるもの、謙虚に生きる
既存の学問の切り売り業にすぎない。
ある人さまが、それこそ寝食を忘れ、
一生をかけ研究された知識、智慧を
これからの世代のためという大義名分をいただき
「授業」とか「セミナー」とかいう形で広めているにすぎない。
いじわるな言い方をすれば
人さまの知恵を
「かすめとり」
まるで自分が研究したかのように
「なりすまし」
そういったいわば、ケチななりわいにすぎないということを
肝に銘じて謙虚に生きるべきだと思う。
だからこそ大切なことがある。
ひとつは、
最先端の知識や
学界からは干されてしまった有益な知識を
掘り起こし、学ぶこと、学び続けること・・・
もう一つは
感性をさび付かせず、
それらを自分のからだや経験で実証する癖を持つこと・・・
この二つを日々心がけて生きないと
単なる権力型いんちき教師となってしまう。
「今ある知識はこうだ!
で、いま、あなたはいったい何をしている?」
この問いを厳しく持っていないといけない。
そして、いま教科書に載っている知識はすべて
あくまでも仮説であるという事実を常に背後に持ちつつ
ああいう説もある、こういう説もあると
子供たちに、未知で、未完の知恵の種を植えておかねばならない。
それが、ケチな私ができる
せめてもの貢献というものだろう。
本当にやめてほしいと願う。
(せめて軽減してほしい)
人からかすめとった知恵、知識をつかい
人を評価する(通知表とか)ことで上に立とうとすることを・・・
(これは、上級学校に行くためにだけのシステムにすぎない)
また、
既存の学問の知恵や知識の切り売り・又貸しにすぎないのに
それに対して、高額なセミナーや授業料を設定することを・・・
スピリチュアリストは、
人やテキストから学ぶのではなく、
土や鉱物から学ぶべきだし・・・
教師は、
汗を流して野菜を育てることから
子どもを知るべきなのだ。
この二つを一生かけて実に楽しそうに実践した人物が
宮沢賢治ではないかと思う。

(影絵:藤城清治 「銀河鉄道の夜」)
宙言やこのブログでも少し紹介していますが、
次回は、私が感じる宮沢賢治に触れてみたいと思う。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体