レギオン~脱洗脳を恐れる群集~
こんな文章がある・・・
イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、
「名はレギオン。大勢だから」と言った
おそらく今で言えば、
洗脳された群衆ということだろう。
いつもマスクをしている人には
きつい表現になるが、
悪魔を助ける悪霊がいることを
イエスは指摘しているのだ。
その悪霊は、その人に
取り憑くという形をとるように表現されている。
しかもその悪霊は、
最終的に自ら死なせてくれと懇願している。
全文はこうだ・・・
「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」
1一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 2イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。 3この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。 4これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。 5彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。 6イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、 7大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 8イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。 9そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。 10そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。 11ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。 12汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。 13イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。 14豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。 15彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。 16成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。 17そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。 18イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。 19イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 20その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
洗脳された人々は、
そこから出そうとする人を怖がる。
時には恨むこともある。
実はそれは、悪霊がそこから出ていくことを
嫌がっているというわけだ。
「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。
後生だから、苦しめないでほしい。」
そこで、人々はイエスにその地方から
出て行ってもらいたいと言いだした。
これらのセリフがそのことを表している。
私のような小さな人間でも
「3年間恨んでました」と言われたこともある(笑)
もちろんこれも、抜け出た人(霊)の言葉ではなく
抜け出れないまま
苦し紛れに毒つく被洗脳者(霊)の言葉だ。
なぜ人々(霊)は暗闇や隷従から抜け出ようとしないのか・・・
それは、自分が「自由」を奪われていると自覚がないのだ。
そもそも「自由」とは何なのかを
考えたことがないのかもしれない。
自由には責任が伴うといういわゆる一般的な言葉さえも
あれもDSたちが考えた呪縛の言葉だ・・・
「じゃあ、どんな自由も認めるのか!」と毒つく人がいるが、
自由と責任をトレードオフさせて
一歩も勧めなくさせるのが彼らのやり方なのだ。
責任という重い言葉で
彼らは私たちに足かせをはめているのだ。
「権利と義務」も同じく、だ・・・
相反するものを2つ並べて
チャラにするか、かえってエネルギーを奪うやり方だ。
自由は自由だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
どうしても、2つ並べろと言われれば、
自由には勇気という友がいる・・・
本当はそんな言葉の方がまだましだ。
先の参院選で、神奈川の大西つねきさんが
立候補されているかが気になって調べてみた。
すると、彼はこんな記事を書いていた。
長いが、「自由」ということを考えるにあたって
とても重要だと思うので
掲載させていただく・・・
➡参政党現象について 大西つねき
今の参議院選の参政党現象、色々と今の日本の政治の縮図だと思うので一応書いておく。
まず私の政治家としてのスタンスとして、他の政治家や所属していない政党や政治団体の批判は基本的にしない。思想や政策に関して異を唱えることはあっても、それを選ぶのは有権者であり、同じ政治家の立場としては、ひたすら自らの考えを伝えて判断を有権者に委ねるのみだ。逆に一致点があれば合流するなり共闘した上で有権者に判断を委ねる。数が勝負の今の仕組みでは、似た考えの政党が複数あっても票を割るだけだからだ。だから野党はまとまれと言う人が多いが、ここではっきりさせなければいけないことがある。それは「一致点」とは何か?である。
一般的にはそれは政策だと思われているが、私は今は全くそうは思っていない。3年前の参議院選では、緊縮一色の既存政党ではなく、積極財政の新しい政党が必要だと思ったかられいわ新選組に参加したが、今は一致すべきは未来のビジョンだと思っている。政策はそのための手段に過ぎず、そこで一致できるからと言って、大きな目的が一致できなければもはや一緒にはできない。これは私の時代認識なので、多くの人が同意できるものではないと思うが、私の中のこの3年は、一切の妥協が不要、むしろ邪魔になり、純粋に自分のイメージを突き詰める者たちがそれを実現させる時代に入った3年だった。そしてその大きな目的とは「究極の自由」であり、それは国家の解体すら見越したものだ。なぜなら、今起きている変化は恐らく、この二千年ぐらいの周期で起こる大変化、すなわち、全ての人間関係に潜む支配と依存のピラミッド構造が完全に壊れることであり、国家すら例外ではないと思うからだ。もちろんこれは一般的な認識とは多分ズレており、故にそこで一致できる政党も政治団体もなく、さらに自ら旗揚げするほどの力もないため、今回の参議院選は見送らざるを得なかった。さて、そんな視点から参政党現象を見てみよう。
まず、神谷氏には私も何度か会っているが(動画も一緒に撮っている)、彼の志を疑ったことはないし、彼自身はかなり自由な人だと私は思っている。だから恐らく、各候補者の主張することに対してあまり統制を行なっていないし、党の政策と矛盾するような言動があちこちに散見されるのだと思う。ある意味、保守と言いながら、既存の似非リベラルよりも遥かにリベラルに見える。ただ、今の政治の枠組み(組織に個人が染まらなければならないという集団至上主義)における党のガバナンスとしては、有権者にもわかりにくいし、どうなのかという意見もあるかもしれない。しかし、ちょっと考えてみて欲しい。これだけ短期間にあれだけの候補者を立てる中で、どこまで最高の人材を揃えられるのか、自分がその立場に立った時に、それがいかに困難なことなのか容易に想像できる。そしてそれをしなければ戦えない選挙システムの中で、完璧ではないことを批判してもゼロイチは生まれない。また、政策自体これから決めるというのも、民主主義の本質からすると理にかなっている。むしろそれが理由で選べないという人は、恐らくシェフお任せのメニューは選べないという消費者根性に染まっていないか?有権者は消費者ではない。オーナーだ。オーナーはもちろんメニュー作りから参加する。神谷宗幣が参政党という党名にしたのは、そこから一緒にやろうというメッセージではないのか。
と、ここまではかなり参政党に好意的な論調に思えるかもしれない。だったら一緒にやればいいじゃないかと。しかし、先述した通り、もはや大きな未来のビジョンが一致しないと難しい。恐らく神谷氏と私の決定的な違いは国家観だ。それは憲法改正に対する考えの違いにも表れ、実はそれで一本動画がお蔵入りになったことがある。それは、例によって経済や金融の動画を撮っていた時だが、動画の最後に彼が「だから憲法も改正しなければなりませんよね?」と唐突に口にした(彼の中ではそれはつながっていたのだろうが、私にとっては別問題だった)。私はそこで「そうですね」と言って流す人間ではないので、「いやちょっと待って、俺はそうは思ってないけど」と変な雰囲気になり、収拾がつかなくなってそのまま動画がお蔵入り。後日談として、この件について3年前にも一度話をしたが、その時は「今は改正できない」で一致した。その後彼がどう考えているのか話していないが、恐らく自民党の憲法改正案には彼は反対するだろう。ただ、彼の中では日本という国に対する特別な思いがあり、自主憲法に対する思いは強いと思われる。また、天皇制についても国家の根幹を成す部分と考えているように見える。そしてそこが私は相容れない。
ここからは私の意見だが、私は現行憲法は多少古くなった部分はあれ(例えば勤労の「義務」とか納税の「義務」はもはや時代遅れ)、現行憲法は極めて良く書けていると思う。特に、あの戦争が炙り出した日本人の病理に対する処方箋として。それは、天皇を中心にした国体維持のため、個人の基本的人権よりも集団を優先し、300万人以上の犠牲者を出しながら、最後の最後まで戦おうとした異常な精神性。恐らく、これをどう捉えるかによって憲法観は全く違う。私は、だから現行憲法は、第一章で天皇は象徴であると釘を刺し、第二章で戦争そのものを放棄し、第三章で個人の基本的人権を明記し、そして前文でその存在意義を理想的に語って新生日本に呪文をかけたように思える。それを呪いの呪文と捉えるか、祝福の呪文と捉えるか、それは戦争の捉え方次第だ。確かに戦後の占領政策で、自虐的歴史観を植え付けられ、主体性を失い続けて来たという意味においては神谷氏に同意する部分もある。しかし、それでもなお、今の日本の状況を見るにつけ、個人の基本的人権がほとんど理解されていないと思わざるを得ない。だからこそ、この極めて西欧的な押し付け憲法はまだ我々にとって必要な呪文であり、祝福であり続ける。いつかこの憲法を改正する時が来るとすれば、それは私は天皇制を廃止した時だと思っている。なぜなら、私は全てのピラミッド構造が世界的に壊れるのが時代の必然だと考えているからだ。もちろんその中には天皇制も含む。そして恐らく、この点では神谷氏とは一致できず、しかもお互い一番譲れない部分に違いない(彼の意見は最近聞いていないのでそちらはあくまでも憶測)。
今、参政党を支持している人がこの点についてどう考えているのかはわからないが、逆に支持できないと思っている人の多くはこの国家観によるものかもしれない。または、急に出てきた政治団体が一定の熱を持って支持を伸ばしていることに対する警戒感、それはもしかしたら、日本の政治にありがちな救世主待望病の依存症状に見えるのかもしれない。いずれにしても、そう考える人たちはある程度自由な人たちだ。もし私が考える通り、世界中の支配と依存関係が壊れる時代が来るとするなら、同じように考える人たちが一定数いて、その人たちからすると、特定の政治家や政党に熱狂すること自体、まさに支配と依存の関係に見え、思わず参政党を批判したくなるのかもしれない。しかし私はそれに対してこう言いたい。仮にどう見えたとしても、支持している人たちが本当に何を考えているかは誰にもわからないし、みんな違う。そして、その人たちをもし批判で変えようとしているなら、それも支配と依存だと言わざるを得ない。もしあなたが支配と依存の構造が壊れる自由な時代を望んでいるのなら、自らその思い込みを手放した方が早くその時代に行けると思う。
いずれにしても私は、この世界は確実に自由へと向かっていると考えている。何も心配はない。今起きているあらゆることは、そのためのプロセスであり、全てが必然だ。あらゆる政党も政治家も、その未来を作る要素であり、あなたもその一部だ。その中であなたがどうするか、その役割は多分あなたしか知らない。それが特定の政治家や政党を支持したり応援することかもしれないが、多分それだけではないはずだ。国政選挙なんて数年に一回しかない。そのために全ての人が生きているというよりも、それ以外のためにほとんどの人が生きていると考えた方が妥当だ。そして、その人たちが自分がなすべきことをした時に、初めてそれぞれの役割のピースはハマる。そしてその後に、この国の「支配者」を決めるという前時代的な仕組みを壊すための結果が、この前時代的な選挙で出るのではないかと思っている。だからそれまでは、私は自らの役割に淡々と向き合い続ける人たちと繋がって、少しでも世の中を変えて行けたらと思う。それが今、私が考える新しい時代の政治である。
変な言い方だが、先のイエスの例・・・
被洗脳者も霊も
未来のビジョンが一致しているのだ。
それは「恐怖」・・・
「恐怖」を持つ深層心理・・・
それは、「依存と期待」・・・
だからこそ、一体化して互いに温め合おうとするし
離れ離れになること(洗脳が解けること)を
二重に怖がっているのだ。
「恐怖」も「期待」も他動詞・・・
先のビジョンが「自由」と置き換えれば
きっとすべてが「自動詞」に変わる・・・
「政治」が日ごろから真剣に考える対象であるならば、
それは今の仕組み上、だれかに任せようとする
期待と依存の世界になっていることと同義である。
その状態は、すぐさま
その国や個人が不安や恐怖に苛まれる隙間を与える・・・
国民が
明日だれと会おうか♪・・・とか
今日は何を食べようか♪・・・とか
大好きなあの人と何して遊ぼうか♪・・・とか
そんな暢気な自動詞を考えられている方が
政治がうまくいっていることの証になるのではないか・・・
そうだ・・・!
それを毎日しているのがあの猫のような気がする・・・(笑)
だから猫は自由なのだ。
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theme : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
genre : 心と身体
狂気の時代
お母さんのご訪問を受けました。
うちは小さな塾ですので
応接室などはなく
授業中のフロアーにある
ソファに座っていただいての見学と説明になります。
一通りお話させていただいた後、
最近、最後に控えめに言わせていただく言葉があります。
うちは、
「私はマスクをしていませんし、
消毒液もありません。
いわゆる一般的な感染対策はしていません。
それでもよろしければお入りください」 ・・・と。
もちろんこれまで学んだこと、わかったこと、科学的なお話を
手短ですが、きちんとさせていただきます。
一般的な世の中の動きからすれば
気が狂った塾でしょうね。
でも本当は、どちらが気が狂っているのでしょうか?
炎天下の運動会でもマスク、
害でしかない消毒液、
それが周りに気化し、周囲にも害が生まれる・・・
1300人以上の人が亡くなっている治験中のワクチンを
がむしゃらに勧める政府・・・
それに疑問を抱かず、
死者・重傷者ほぼ0の子どもたちにまで
ワクチンを打たせようとするマス・サイコーシス(集団精神病)・・・
製薬会社から大量のお金をもらったマスコミや医者たちが
連日、単なる陽性者を虚偽的に感染者と発表し、
遮二無二 ワクチンキャンペーンを展開する世の中・・・
お金の仕組みを見ようとしない。
健康の原理原則を学ぼうとしない。
私たちを「死んだように生かしておく」
彼らの策略に気が付き始めているのに従おうとする・・・
この2年近くの集団催眠は本当にひどいものです。
世の中の大半がどんな流れになっても
個人的におかしいと思うことを
おかしいと言え、
それに従って行動できる・・・
それが「自由」かと思います。
個人の自由・尊厳・・・
憲法などを引き合いに出さなくとも
私たちのいのちの原点はこの個人の自由・尊厳ではないでしょうか・・・
集団催眠中の多くの大人たちの無言服従が止まりません。
狂気の時代・・・
私の思いはいたってシンプルです。
明らかに自分と子どもの健康・精神に悪い
新しい生活様式やワクチンに決して従えないし
勧めることもできないのです。
私は大仰な革命家でもなんでもありません。
ただただ普通の生活がしたい一庶民なのです。
冒頭の生徒さんとお母さん・・・
お陰様で入塾していただきました。
うちは特別ではありません。
普通だと思うのです。
その普通が失われているので
今は戦時中であり、狂気の時代なのです。
おかしいと思う人から
少しずつでも行動に移すしかないのです。
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