自然体という強さ
あちらこちらで言われるほど、
軽い意味で使われるのが少し気になります。
ふわふわと「自由な時代だぁ」と
誰かがどこかで助けてくれる的なものではなく、
自分を主語にして動く!
この厳しさと楽しさが「風の時代」かと思います。
風の時代は、いまYouTubeであげている
コントロールドラマを演じる人には、
本当に辛い時代になると思います。
どんな形でもいいので自分を表現するのが風の時代ですが、
その自分が、エネルギーバンパイアのまま風の時代に突入しても、
恐らく空振り三振となってしまうでしょう。
自分自身が、どこかで見たような、聞いたような感覚を
踏襲していてもこちらも空振り三振です。
ある本には、wiki化できない感覚、体験が大切と書かれていました。
wiki化できないとは、
一般的な誰もが調べればわかるような・・・ということでしょうから、
その枠から外れるということでしょう。
これは何も自分勝手ということではありません。
自然体に自由に、自らの自家発電で・・・
どんなに拙くとも、
このスタンスが一番いのちが輝くということでしょう。
今期の受験を通して、推測が確信に変わったことがあります。
それは、「自然体が一番強い」ということです。
強いとは、何も打ち負かすということではなく、
多くの人から応援がいただけて、
仮にうまくいかなくても手がさしのべられて、
仮に落ち込んでも、復活も早い・・・
捨てる神あれば、拾う神あり
そういうことです。
自然体=いのち
この事を地でいけば、おそらくその後いろいろとあっても、
必ずいのちに戻る・・・
私の塾の方針は、ずっとこうだった気がしますが、
これからは、確信をもって親御さんに
お伝えできそうな気が致します。
自然体・・・
最高の武器です。
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tag : 自然体
樹下石上 91・・・自然体で休もう
➡旅館に広がる“休業日” なぜ? 「大忙し」で変化
cocoroさんの旦那さんも登場します!
「旅館でも休業日・・・」
そういう時代になったというTV特集でした。
旅館は無休という時代はもう
時代遅れでしょう・・・
人出不足の今、従業員の生活を考えれば
こうなるのは必然です・・・
うちは、今では休みが多すぎますが(笑)
それでも「定休日」➡「不定休」➡「木曜のみ営業」という流れの中で
休みに対する罪悪感がなかったわけではありません。
特に不定休にした時の罪悪感は、
誰に対してというより
なにか得体のしれないものへの罪悪感という感じでした。
社会通念
常識
一般論
そういったものだったと思います。
しかし、それも少しずつ減っていきました。
たぶん、それが自然体だったからでしょう・・・
自然体は通る・・・
私の中には、このセオリーが宿っていきました。
これは、お店のことだけでなく
物心つき始めてから・・・
多感な思春期から・・・
青年期・・・
教員時代・・・
家庭教師時代・・・
今に至る塾人生・・・
選択を迫られた時、
どうしたらいいか悩んだ時、
あらゆるところで、
自然体の小さな小石を積み上げるように
生き方そのものを一つ一つ確かめてきたのような気がします。
自分の中にある不自然を一つずつ消していく・・・
私の人生、その作業が大半だったような気がします。
考えてみれば、自分のお店を
自分の身体と心のペースでさせていただきたいという思いだけですから
重い罪悪感を抱く必要はないと思います。
これからは、そういった営業スタイルが
カフェや旅館などのサービス業で当たり前になっていくのでしょう・・・
いえ、人生スタイルがそうなっていくことでしょう。
つまり、働くことが、生きることが
「苦役」(いのちとひきかえの苦しみ)から
「楽役」(楽しく誰かのお役に立つ)に進化を遂げなければ
人類はきっと体と心の病で退化してしまうのではと思うのです。
そのためにも、
自分の自然体をいつも問いかけること・・・
「お金」のしくみを知ること・・・
為政者に主導権を握られないように・・・
またベーシックインカムなどの政策も求める
考える市民になっておくことが大切です。
自然体と休み・・・
令和の時代は、ますますクローズアップされることでしょう・・・
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冬、立冬のころ⑧・・・いのちの源
現在の場合とで、
ますますしなくなった、できなくなったことがあります。
それは、日々のアドバイスや受験指導で
「不安や恐怖をつかう」ことです。
そういうことを、ほぼしなくなりました。
「ほぼ」と書いたのは、
自分では、100%していないつもりでも
聞いた相手によっては、「不安」ととらえられることもあるだろうし、
本当に悪いことをした時は叱っていますので、
こればかりは、私一人で断定できるものではないからです。
ただ、断言できるのは、受験に関しては
ほんとうに「不安・恐怖」というものは0に近い状態で
保護者の方にも生徒にを接するようにしています。
もちろんデータがありますので、
あまりに無謀な場合はきちんとその旨を伝えます。
ただ、受験というのは、ある程度の不安が残る場合がほとんどです。
そんなときでも、「大丈夫」といつも声をかけています。
会社員のときも、他社の塾人ほど
「不安・恐怖」でむやみに生徒の尻を叩くということは
していなかったと思います。
これは、たまたま他塾の説明会や模試を受けた生徒と保護者が
その塾人からかけられた言葉を教えてくれましたので、間違いないと思います。
しかし、経験者として語りますが、
会社員として子供に接している限り、大なり小なり
どうしてもノルマやその塾人(校舎)の成績に影響しますので
本当の意味で「操作」や「不安・恐怖(脅し)」のような手法から
塾人自らが完璧に解放されることはないのだと思います。
そういった意味で、今ここで塾人として
子供たちと接する機会を与えていただいたことは
わたしにとっては実にありがたいことなのです。
文字通り、わたしのいのちも救われています。
「いのちあるものがいのちあるように」
人生の拠点がこちらに移ってから
私の最大のテーマはこちらになりました。
日々の勉強・進路・経済・医療・・・
子供が将来関わるであろう全てにおいて・・・
助言もアドバイスもすべてこのフィルターにかけるようになりました。
昨日、銚子川の映像を挙げましたが、
その映像を見ていて思ったことがあります・・・
それは、いのちが育まれる源流のようなものがあるとすれば
それは、「安心」と「多様性」なのではないかと思うのです。
これはきっと受験という人間のなりわいにも言えることではないかと・・・
(本来、受験そのものも不要ですが・・・)
たしかに、ウナギが産卵を終えたアユを食べたり、
アサヒアナハゼがビリンゴを丸呑みするシーンがありましたが、
それは「弱肉強食」という言葉ではないと思うのです。
まるで、あぶなっかしく壊れやすい生卵を持つ5本の指・・・
そうやってこの自然界、宇宙はできているのではと思うのです。
親指は短いが力がある・・・
小指は力がないが、なければ
微妙な力加減、バランスが取れない・・・
ましてや、小指がなければ、
手のひらですくうときの
独特の丸みを帯びることはない・・・

「多様性」・・・そういう言葉の方がわたしにはしっくりくるのです。
この町ではすぐに、T高、N高を目指せという大人がいますが、
それは、いのちの源流の「多様性」ということを無視しています。
それが証拠に、これだけ塾産業が活発な三重県なのに
なぜ、T高、N高などの上位進学校に行く子が
増えて増えて仕方がないという状況にならないのでしょうか・・・
それどころか、中3人口の半分にもなっていません。
子どもたちのいのちが元来
「多様性」という性質を帯びていて
自ずとそちらへ向かうからではないでしょうか・・・
自然界は、エサの藻が発生するという「安心」な場があれば
上流を目指す川アユもいれば、
下流にとどまるシオアユもいるような「多様性」を見せるのです。
また、「せめてそのぐらいの高校に行かなければ・・・」という方は、
その子が万一、その「せめて」の高校に行けなかったときの
大きな挫折感と劣等感を想像したことがあるでしょうか・・・
いのちの源流である「安心」を犠牲にしてまで、
無理な鋳型をはめる必要があるのでしょうか・・・
もう一度考えてほしいのです。
自分が選んだ道を行ってもいい・・・
親はそんな自分を認めてくれている・・・
そういった「安心」と「多様性」を許された子供は、
やがて、必然と「好奇心」というアンテナを伸ばします。
「挑戦」という言葉に置き換えてもいいです。
長良川の河口堰にせき止められたアユと
銚子川の汽水域から勇気を出して遡るアユ・・・
どちらが「いのち」なのかは
もう言わずもがなです。
子どもたちも同じです。
この「安心」と「多様性」を認められてはじめて
「好奇心」と「挑戦」という力強い旅に出かけられるのです。
「いのちあるものがいのちあるように」
わたしの塾では、日々のまなざし、助言のすべてを
そういう「自然体」の進路(受験)につなげていこうと思っています。
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冬、立冬のころ⑤・・・自然体という強み
その方は、sora-piyoにとっては、お店の常連様でもあり
何かあればすぐにお力を貸してくださる本当にありがたい方で
東京からみえたお姉さまに合わせてお誘いいただき
ご一緒させていただいた夕食会でした。
そこで上がった話題・・・
昼間、車で聞いてきたYoutube・・・
年代別で、カウントダウン形式の歌番組をみてきたわたしたちは
ふと思ったのです。
昭和からアーティストを続けられて平成も30年経ち・・・
今も現役で歌い続けていらっしゃるアーティストというのは
どこか無理をしていない・・・
自然体であることが多い・・・
無理をして、ウケを狙うように歌っていないので
流行りすたりもなく、名曲を残している・・・
また、ヒットを飛ばそうがとばさまいが、
あせる気配もない・・・
それは、声の出し方、ステージでの立ち方・・・
いろいろなところに現れていて
今聞いても、ああ、名曲だなーと思える・・・
そんな話をしていました。
おそらく周りのスタッフさんたちも
楽しくされているのでは・・・そう思うのです。
私たちの人生も同じ・・・
「自然体」であることがほかのどんなことよりも大切で
しかも美しく、強い・・・
毎日の生活で完璧とはいかなくとも
いつもそれに近い状態を心がけ、呼吸をし
できるだけ穏やかに生きていれば自ずと健康で穏やかになる・・・
シルバーバーチの言葉にこんなものがあります。
世間で言う、<成功者>になるかならないかは、
どうでもいいことです。
いわゆる「この世」的な成功によって手にいれたものは、
そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。
大切なのは、自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、
自分でこれこそ真実であると信じるものに目をつぶることなく
本当の自分自身に忠実であること、
良心の命令に素直に従えることです。
これさえできれば、世間がどう見ようと、
自分は自分としての最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。
そしていよいよ地上の生活に別れを告げる時が来たとき、
死後待ち受ける生活への備えが十分できているという自信をもって、
平然として死を迎えることができます。
(下線はわたしが引きました)
わたしも日々の雑事の中で
どこまでこれができるのか・・・
どれだけたどり着けるのか・・・
それが、人生後半の目標です。
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