自分軸が育つように語りかけること

志望校を選ぶときに、
とにかく上を目指せとか
諦めるなとか
どうせ勉強しないのだから
塾で鍛えてもらえとか・・・
そういうことを無責任に言う大人が多いです。
この世は自動詞でしか動きません。
結局は自分が納得しなければ「気」は動かないのです。
減点法ではなく、
加点法・・・
いえ、
まずは、ありのまま法でいいのです。
なぜか?
ありのまま法で行っても
結局彼らは成長するからです。
子どもたちを見ていると
勉強から100%逃げる子はいません。
なんだかんだと言って
しぶしぶでもやろうとします。
やらなくていいよと言ってみても
やっている・・・
そういうところがあります。
100%逃げてはまずい、
それは自分ではないと思っているのでしょう・・・
そういう彼らの様子を見ていると、
逃げてはいけないときには逃げてはいけないと
本能で思っているようです。
できなさを隠したり、
嘘をついてまで
勉強をごまかす子は、
それまで理不尽に叱られ続けたことが骨身にしみているのです。
これは、勉強以前の問題で
大人の接し方が問題だったのです。
勉強が安全地帯と思えないからです。
だから、私たち大人の役割は
まずは認めること、
そして、気付きをもたらす会話をし続けること・・・
命令でなく
指示ではなく
一緒に考えるつもりで
語りかけること・・・
この変化の激しい世の中で
なにが正解かは大人もわからないのです。
自分はこれでいいという
自分軸を育てる・・・
人生の幸福度を高く感じられるようになる子は、
この自分軸がしっかりしているのです。
なぜ人生をつまらないと感じるのか?
なぜそれほどまでに年をとることが恐ろしいと感じられるのか?
なぜそんなにも退屈しているのか?
それは、本当に自分として生きていないからに、
ほかならないのではないでしょうか?
マドモアゼル・愛
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ささやかだが重要なこと
自分が握ること・・・
これはつまり、自分がどう生きたいのかということだ。
子どもは、幼少期から無数の好き嫌いを経験し
自分に気が付き、自分になっていく。
私はよく親御さんに忌憚のない意見を述べさせていただくが、
それはいつも子供の味方をしているというわけではない。
子どもが明らかに何かをごまかしているとき
時には火が付いたように、
時には、穏やかに諭すように、
遠慮なく叱らせていただく。
そのごまかしの内容とは何か?
それは、そんなことをしたら、
あなたがあなたでなくなってしまうと判断した時だ。
一例はこうだ。
叱られたくないがためについてしまう嘘を重ねる子供には、
つまり、困難を避けて逃げる子供には、
「叱られるときはちゃんと叱られなさい」
と伝えている。
叱られると覚悟を決めて大人の前に立つ子供は
さぞかしドキドキするだろう。
でも、勇気をもってその心構えが身につく子は、
ちょっとした壁にぶち当たっても
必ず向き合ってそれを乗り越える勇気が育っている。
落ち込んだ時も、必ず立ち上がる。
また、遅刻をしたり、寝坊をしたときに
「遅れました」と事実だけ言う子供にはこう伝える。
「それは事実だけを言っているだけ。
遅れてすみません、と自分の感情をきちんと伝えるといいよ」
感情を伝えれば、相手に伝わり、理解を得られる。
相手に伝えよう、理解を得ようとする力が身につく子は、
人からの協力を得られやすくなる。
また、
「ありがとうごさいます。」
「昨日は、ありがとうございました。」
「先日はありがとうございました。」
「いつもありがとうございます。」
わたしたちには、「あなたのことを大切に思っていますよ」
というメッセージを送る言葉がたくさんあります。
大切に思うというのは、
時間軸の節目節目に思い出す心配りのことだ。
何気ない、彼らとのやり取りで
そんな力を身に付けてほしいなと思って
彼らとの塾生活を楽しんでいる。
そういったささやかだが重要な力が身につく先に、
自分の好き嫌いの主導権を
自分が握れる世界
が待っているのだ。
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令和誕生②・・・令和育て、自分育て

とても矛盾したことを書きますが、
軸が建てられない人は、
人と自分を比べていない人だと思います。
徹底的に比べて比べて、
それをあきらめた人に
初めて自分軸というものが浮き上がります。
軸は、建てるものではなく
浮き上がるものです。
それを個性という人もいますが、
わたしにとっては少しニュアンスが違います。
人と比べて、自分にはないもの・・・消去
人と比べて、ほぼ同じようにあるもの・・・消去
人と比べて、一部自分にもあるもの・・・消去
人と比べて、ほぼほぼ自分だけにしかないもの・・・残す
人と比べて、自分にしかないと思えるもの・・・残す
そうやってそうやって消去しつくして
残りカスのように残ったものが個性です(笑)
特別なもの=個性
ではなく、残りかす=個性なのです。
「心の欲する所に従えども矩(のり)を踰えず」
自分の思うがままに行なっても、正道から外れない。
これが令和の時代です。
白の中の白が光る・・・
黒の中の黒が光る・・・
そういうイメージです。
一見みんなと同じ色なのに
その残りかすが光っている・・・
そんな感じです。
だからひょっとすると
消したくて消したくて、
それでも消せない苦しいものが個性だったりします。
(その場合その苦しいものを新しく上書き保存しなおさないといけませんが。)
また、自慢できるようで、自慢できないものが個性です。
それがわかるための平成30年間だったのです。
平成は、ある意味わざわざ目立たないと目立てない時代でした。
だからネットやSNSが進歩したのです。
だから著作権も声高に言われました。
令和は変わっていきます。
表現してないのに表現されている・・・
目立っていないのに目立っている・・・
著作権なんてわざわざ言わなくてもいい時代・・・
そういう時代です。
個性は残りカス・・・
そういう謙虚さと中庸さの時代です。
「私は、○○の生まれ変わり」
「私は、○○の血筋」
「私は、○○とつながれる存在」
「私は、○○とご縁がある」
しかも、それっぽい場所に行って
付加価値までつけて見せびらかす・・・
そういう、エセスピ系はいらなくなります。
自分を美化し、見せびらかす時代は終わり
それに付いて(憑いて)いく時代も終わりです。
昨日の「辞書に使われる」・・・これをやめるのと同じで
「目に見えない存在に使われている」ことに気が付き、
本当の自分軸時代を見つける人が増えてきます。
わたしたちの個性は残りかす・・・
それを好きになれると上書き保存できますし、
好きになれなければ下書き保存されて、劣等感になります。
平成は、この上書き保存で優越感の罠にはまってしまう人が多かったです。
そういう人は、さりげなく(けどバレバレの)自慢・見せびらかしの世界をつくっています。
しかし、残りカスとわかっている人は
とても中庸な穏やかな境地になるのです。
英語で言えば、「proud」 でも 「boast」 でも 「brag」でもなく
「being」に近い性質になります。
足りないわけでもなく、余っているわけでもなく
ちょうどいい感じ=調和になるのです。
「何かに似ている」と言うのも
「何かと違う」と拒むことも
「何かとつながっている」とほくそ笑むことも
すべて、劣等感から来ています。
実は、皮肉なことに、それが
強烈に人と比べている証拠になってしまっている・・・
だから、必死に埋めようとして見せびらかしになる・・・
もう苦しいでしょう・・・
令和に時代は、もうそれは必要ないし
通用しなくなってきます。
人と比べないというのは
ある自分軸を持つことで初めてできることですが
自分軸がない人が「比べない」と言われてもピンとこないのです。
どうしても比べてしまうのです。
でも、それでいいのです。
比べて比べてそして、もう比べることに飽きない限り
この「比べる」というのをしてしまうのが人間です。
比べた結果
あの人にはあるけど、自分にはない
あの人はできるけど、私はできない
・・・じゃあ、自分って何だ!?
というところにたどり着くのです。
比べて落ち込んでいるときは
その足りないところを必死で自分で埋めようとしたり
人に頼って埋めてもらおうとします。
そのどちらも無理だとわかった時に
はじめて・・・自分ってなんだ!?と考え始めます。
「心の欲する所に従えども矩を踰えず」
自分の思うがままに行なっても、正道から外れない。
一気にはきませんが、
そういう時代の始まりです。
令和は、万葉集から取ったといいます。
その万葉集には「詠み人知らず」の歌が多いのです。
令和はそういう時代です。
「詠み人」になろうと力まない時代・・・
「詠み人」が誰であろうが、心動かされる時代・・・
発信という場を奪い合わない時代・・・
そういうことです。
我れのみや かく恋すらむ
かきつはた 丹つらふ妹は いかにかあるらむ
詠み人知らず
こんな風に恋をしているのは私だけなのでしょうか。
かきつばたのようなきれいなあの娘はどうなのでしょうか。
「詠み人知らず」・・・なんとすがすがしい立ち位置でしょうか・・・
そういう自分軸にそだてるのが「令和」という時代です。

カキツバタの花言葉「幸運は必ず来る」
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体