ささやかな事件
人生の最大の問題は、
どこの高校に行っていた(る)のか?とか
どこの大学に行っていた(る)のか?とか
どこに就職していた(る)のか?とか
というよりは、
「自分が自分でない」
ということだ。
先日ある一回の決済をクレジットカード扱いにしたら、
勝手にサブスクに課金されていて、
(ネットでかなり話題になっている)
これは危険ということで、
解約と共に、
カード番号ごと変えた、ちょっとした事件が起きた。
新しいカードが無事に届いたはいいが、
なんと名字の「ン」のローマ字が「M」になっていた。
以前のカードは「N」・・・
問い合わせると、
国際的に認められているローマ字の
ヘボン式に変更したらしく、
「ン」の後ろの文字が、
BとかPなどの破裂音、M になると、
Mになるらしい・・・
よく教科書に出てくるてんぷらは、「tempura」と書くが、
まさかそんなルールだったとは・・・
生業上、お恥ずかしい限りです・・・💧
ローマ字の種類
小学校で習うローマ字は「訓令式くんれいしき」と呼ばれるもので、
あまり使われていません。
実際に日常で看板などに見ることができるローマ字は
中学校英語科で学習する「ヘボン式」です。
両者の違いは母音を伸ばすとき
「^(またはĀのように上に横棒)」がつくか否かといった違いや
一部のスペルの違い
(例:「ち」は訓令式だと「ti」だがヘボン式だと「chi」、
ヘボン式で「ti」は「てぃ」)などです。
しかし、その大部分は共通しているので、
訓令式を学び、中学校でヘボン式と
区別をつけることが必要です。
ウキペディア
➡小学校国語/ローマ字
国際的、理論的には確かにそうであっても
長年Nを使ってきたため、
Mだとどうもストレスになり
自分でないみたいで座り心地が悪い。
「自分が自分でない」
こんなささやかな
たった一文字が慣れ親しんだ「自分」でないだけで
人は大騒ぎとなる。
さっそくNに変更したもので
再発行してもらうことにした。
自分でないものはどんなに理屈をこねられても
気持ちが悪いもの・・・
それをどれだけ遠ざけるのかが
より楽な生き方ということ・・・
ささやかな事件だったか
そういったことを改めて感じた事件だった。
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自分が自分らしくあるために誰にも遠慮は入らない
何度もお話しして恐縮だが、
うちのカフェは、はじめ定休日が、火曜日だけだった。
朝5時半に起きて、仕込みをはじめ、夕方まで店をしてから、
そのあとで塾の時間・・・
そんな流れが3年間ほど続いたある日、
私はプツンと切れた・・・
朝、まだ薄暗い夜明け前のブラインドを明けながら、
今日は休もう・・・
ふと思い立って、瀧原宮へむかったのが、
私の最初のさぼり臨時休業だった。
瀧原宮で、止めどなく涙が溢れた。

休みたいときに休めばいい・・・
心の声とも、
そこにいらっしゃった龍神さんの声ともつかぬ声が聞こえた。
あきらめる
休む
頑張らない
まるで先日の土橋重隆さんの本の内容だ。
その後、不定休という形にした。
それでも、その不定休を開き直るまでに、
さらに数年かかった。
・・・・・
そこまで、私たち日本人は、
「休む」ということを自他ともに許そうとしない民族だ。
不定休時代の時、よく言われる言葉があった。
「先日来たんですけどお休みだったんでぇ⤴️ (語尾が上がる)・・・」
ご本人は、社交辞令のようにさりげなく言っているつもりだろうが、
わたしには、「せっかく来たのに休みだったよ!」と
責められているように聞こえた。
意外にそれが、突然お越しになったご相談の方に多かったりした。
現に、あからさまに責めている人もいた。
その都度、罪悪感で胸がチクチクしていたが、
それも、
いったい誰のための罪悪感なんだ!?(笑)
といつの間にか、心臓に毛が生えはじめ、
「ごめんあそばせ」の気持ちになった。
一方、別のお客さんもいた。
来たときに休みということは、
「今はそういうご縁だったのだと、
自分で解決しなさいというサインだったんですね・・・」
と、天使のように優しい言葉を投げ掛けてくださる人もいた。
余談だが、
そういう方の悩みは悩みでなくなる場合が多い。
私に天使に言葉をかけてくださったから
えこひいきするわけではない。
それが節理なのだ。
その発言から、
時間の不思議
出会いの不思議
出会えない不思議
意味のある偶然・・・シンクロニシティ
そういった
宇宙の経糸と緯糸の関係・・・
その法則をすでに分かっていらっしゃるからだ。
悩みを流す術をすでに身に付けていらっしゃるのだ。
無理を言わない
無理をしない
無理を通さない
先ほどの
あきらめる
休む
頑張らない
とどこか似ている。
これが問題解決の最大のヒントということを
肌感覚で分かっているのだ。
こんな昔話をしたのは、
自分基準で生きることの難しさと
それでもやってみる価値があることを言いたかったのだ。
自分基準で生きると
必ず何らかの軋轢が生まれる。
それは、周りとだったり
自分の心とだったり・・・
でもそれを通り過ぎると
嘘のように自然になり
それが通っていく・・・
そしてこれからは、それが一番大切ということ・・・
私たちはいったい誰に申し訳ないと感じてしまうのか、
相手なのか
自分なのか
常識なのか
そんなことを考えていると、
やっぱり誰にも申し訳なくなる必要などないと思えるのだ。
自分が自分らしくあるのに
いったい誰に了承を得る必要があるというのだ・・・
それを身勝手という人がいた場合、
きっとその人は自分で自分を生きていない場合が多い。
妬みや嫉みが入って、
相手を祝福できないのだ・・・
自分基準で生きる
周りのせいにもしないで、
過去の自分にも伺いを立てずに
自分基準で生きる
今日はそんなお話でした。
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