今日は土曜配信!「老害」
秋、立秋のころ⑥・・・老人力と老害
話すと何となく周りがなごむ・・・
経験が豊かなので
ちょっとのことでは腹を立てない・・・
いつもニコニコしている・・・
私もそんな老人になりたい。
それが「老人力」・・・
老人力(ろうじんりょく)は、
赤瀬川原平が1997年に提唱した概念だ。
老人力は決して張り合わない。
頑張らない。
ボケはボケ、
もうろくはもうろく・・・
それでいい。
現役なんてこだわらない。
そうやって自分のもろさを笑い飛ばす・・・
しかし、この方は、あくまでも現役にこだわるらしい・・・
かつて、支持率が消費税(5%)といわれた元首相の森喜朗。

いま、この老人が
個人のチャレンジで国民を混乱に陥れようとしている。
「82歳までなんとしても頑張って、
もしオリンピックが開けるまで努力して
組織委員会やっておれるなら、
これは私にとって誠にありがたいことであり、
それが一つの可能性に対する挑戦」
この人の挑戦は、「挑戦」とは言わなくって
単なる「執着」だとだれか教えてあげてほしい・・・
実はこの方、東京五輪組織委員会の会長を
自分が「やる」と密かに官邸に働きかけたらしい。
週刊新潮(2015.8.13-20号)
そして、どうやらオリンピックにこじつけて
サマータイムなるものを導入しようと躍起になっている。
サマータイムとは、1年のうち日照時間が長くなる
夏の期間だけ標準時より時計を1時間~2時間早く進めて、
太陽の出ている時間帯を有効活用しようとする制度だ。
それを国民全体で取り入れたいようだ。
そういう個人のチェレンジに
国民全体が付き合わされるのはいかがなものか・・・
サマータイムは、問題が多い。
「導入すれば、午前7時スタート予定のマラソンが、
もっとも涼しい午前5時スタートとなり、
日が高くなる前にレースを終えることができる」と産経ニュースは書いているが、
それならサマータイムなど導入しなくてもマラソン競技を
午前5時にスタートすればいいのではないだろうか?
ちなみに「夕方に開始予定の競技はより暑い時間帯から始まるなど、
新たな課題は出ることになる」という(朝日新聞デジタル 7月27日)
サマータイム制度の導入で
「生体リズムへの影響」、「眠りの質への影響」、
「眠りの量への影響」が起こると懸念されています。
特に日本では欧米に比べて、
夜型・短時間睡眠の人が多いため、
睡眠障害が起こる可能性は高いと推測されています。
(日本睡眠学会)
日本のITシステムは基本的に
サマータイムを前提として設計しておらず、
システムの大規模な改修が必要となる。
「改修が間に合わない」
「システム障害が頻発する可能性がある」
「恒久的に行うなら検討の価値はあるが、
わずか2年間のためならコストがかかりすぎる」
(ITmedia NEWS 8月6日)
要は、森元首相は
マラソンを酷暑の中でするのは大変なので
国民全体も2時間繰り上げるサマータイムにしましょう・・・
ということだが、
この二つにいったい何の関係があるのか
わたしはさっぱりだ。
マラソン競技を午前5時にスタートにして、
(まあそれでも選手は大変だか・・・)
国民は、見たい人は早起きで見ればいいし・・・
録画もいいし、とにかくわたしたちまで
サマータイムにする意味がよくわからない。
ついつい、いつもの癖で
サマータイム導入でどこにお金が動くのかを探りたくなる(笑)
おそらくその日本のコストが利益になる、外資系IT・通信企業であろう。
老人が、自分の息(鶴の一声)がかかることで
状況に大きな影響を与えることを生きがいを感じる・・・
そしてあれは「オレが口添えしてやったからうまくいったんだ」と
冥途の土産にする・・・
「オレはまだまだやれるぞ・・・」
「若い者には負けん・・・」
若者がちょっと意見すると
「生意気だ」と恫喝する・・・
これは老人力とは言わない。
赤瀬川原平もこういうのは誤用だと言っている(笑)
➡老人力
それが、組織で硬直を生み
まわりがその老人に振り回される・・・
若者は、それに委縮するか、
もうほっておこうとあきらめる。
それを「老害」という・・・
はてさて・・・
そういう私も初老の入り口・・・
他人ごとではない。
反面教師で、気を付けたいと思う。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
夏、小満のころ⑫・・・権力と老害
わたしが惹かれた先生たちというのは
「先生」という職業でありながら
その前に「人間」であるということを
決して忘れていない人たちでした。
「人間くさい・・・」
一言で言えばそういうことだと思います。
先生という職業はどこかふんぞり返るところがあります。
いったい何に対してなのかよくわかりませんが
ひとつは、「権力」という言葉に行きつきます。
人に教えてもいいという権力・・・
人を評価してもいいという権力・・・
「先生」と長年言われてきた権力・・・
しかし、そのどれもが妄想にすぎません。
「先生」かどうかを決めるのは
あくまでも自分ではなく、生徒なのです。
周りなのです。
わたしのこれまでの学生生活を思い起こしても
「先生」のなかには、形は「先生」であっても
人格的にけっして「先生」と認めなかった人もいます。
そう思う「生徒のわたし」がいました。
そのときの「先生」という呼称は
あくまでも職業の問題であって、
けっして尊敬の念を伴なったものではありませんでした。
今では私も、それ相応の年になり
あの頃の先生たちを思い返すと
自分は大丈夫かな・・・と心の点検をすることがあります。
そして、本当にいい先生に出会えたな~と
ありがたい気持ちになります。
この年になっても、いまだにあの先生たちは「恩師」であり
目指すべき「何か」があります。
あの頃のわたしとあの頃の先生との問答が、
この年になってもいまも私を支えています。
過去の先生でありながら
今も私を成長させてくれているのです・・・
この年になるとだれも露骨に叱ってはくれません。
自分を成長させられるのは自分しかいなくなります。
そういう意味で、多感で吸収力の高かったあの頃に
出会ったあの先生たちは、本当にありがたい存在です。
往々にして、「権力」は年を取ると「老害」になります。
残念ながら、そういう先生に出会った経験も少なからずあります。
わたしもふんぞり返っていたら
どうか叱ってやってください。
よろしくお願いいたします。
「人間らしくやりたいナ
トリスを飲んで人間らしくやりたいナ
人間なんだからナ」 開高健
(こちらは開高健ではありませんが、仲畑貴志のトリスのキャッチコピー)
そうそう・・・2人目の恩師の先生が抜けていました。
明日はそのことについて・・・
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