いのちをよく見る、信じる
本当に十人十色だ。
楽しさと難しさと書いたのは、
学校の指導、評価基準が今のままで、
社会のシステムに添おうとするならば、難しいと感じるし、
それがなければ、もしくは、代替・軽減されれば
彼らは本当に優しくて、個性豊かで
逆にこちらが癒され、助けられる、と言う意味で楽しい・・・
そういうことだ。
みんなちがって、みんないい・・・
教科書の金子みすずは言うけれど、
いのち基準の仕組みでない現代社会では、
いわゆる、学校に適合して
いわゆる普通に通えている子に比べると、
よく見てあげる項目も、
加減の仕方も、
叱る種類も濃度も、
本当に、手探りなのだ。
たとえば、何かができないとする・・・
そのできなかった理由が、
本当に能力的にできないのか(知覚の問題も含む)
優先順位がおかしいだけなのか
やれるけど軽い嘘をついているのか
嘘をついていることに自覚があるのか
こちらからの問いかけに言葉が紡げないだけなのか
漢字の偏(つくり)だけしか見えていないのか
活字の縦棒(横棒)しか見えていないのか
文字が揺れたり、チカチカしていないか
マス目が見えていないのか
時間感覚がないのか、
空間感覚がないのか、
数の論理が苦手なのか
もともとその言葉が彼らの中にないのか、
反応でついつい乱暴となって(逆にこもって)しまっているのか、
叱られると言う恐怖から逃れるだけの
行動になってるため混乱しているのか、
・・・・・
できない理由や原因が
幾重にも細かな層に別れている感じだ。
その細かな層を自覚してもらい、
それをうまくするにはどうすればいいのかを、
本人に一つ一つ確認しながら、
了承を得た上で、次の事(目標)を決める・・・
しかも、頻繁で神経質はよくない・・・
できれば笑いが出るぐらいがちょうどいい・・・
その目標は、今の現代社会を基準に考えれば、
実にささやかで小さい。
そんなことはできて当たり前だ!
そんなことができたぐらいで何になるのか?
そう言う親御さんも多い。
でもちょっと待ってほしい・・・
それができなければ、
その上に彼らが何かを積み上げることは難しいのだ。
積み上げられないばかりか
二次凸凹になることもある・・・
たとえば、朝、時間通りに起きて
学校に行く・・・
そんなことさえ、本当に困難な子供もいるのだ。
怠け!?
甘え!?
そう言うのは簡単だろう・・・
確かにそういう日もあるだろう・・・
でもそれを言ってもなんの解決にもならない、
一歩も前には進まないのが、
この発達凸凹、グレーゾーンの子供たちなのだ。
なぜ起きれないのか?
なぜ気力がわかないのか?
身体的、肉体的な視野も大切だ。
食生活は大丈夫か?
体内時計の喪失?
精神的な、もうずっと前の奥の奥の引っ掛かりが
大きくなっている場合もある。
わたしが、あらゆる専門的分野を学んだ上で
彼らに接していては間に合わないのだ。
独学、観察、実践、独学、観察、実践・・・
この繰り返ししかない・・・
そして一番大切な心構え・・・
それは、簡単に諦めない・・・
これである・・・
でもこれは、発達凸凹、グレーゾーンに限らず
どの子にも言えることではないだろうか・・・
精神科に任せる?
自衛隊に入隊させる?
ちょっと待ってほしい・・・
そういった、乱暴な外注に「育ち」を丸投げしたしたツケは、
本当に計り知れないと思う・・・
彼らの時計、
彼らの感覚をよく観察する・・・
いのちをよく見る
・・・そしていのちを信じる。
これが一番大切なことだと思う。
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tag : 発達凸凹
樹下石上 ⑳・・・凸凹を認め合う時代
所定のレポートを提出して20日ほどたちました。
不思議ですが、そういうアンテナを張っていると
そういう生徒さんや親御さん、大人のご相談が増えました。
そして昨日、おかげさまで認定証をいただくことができました。

前も触れましたが、
11年前、学習支援塾Onenessと名付けたのは
決して「発達障害」のことを意識したわけではありませんでした。
➡平成の後ろ影⑧・・・看板と検定
ただ、わたしは支援者にすぎないと・・・そういう気持ちでした。
こういう形で、名と実が重なっていくとは思いませんでした。
発達障害の方々に接するときの基本原則・・・
それは、
「ほめる」
「認める」
「大事にする」
の3つです。
日常でこれに気を付けるだけで
かなりいろいろなことがうまく行き始めます。
その人が、世界をどう見ていて
何が気になり、何が嫌なのか・・・
いわゆる私たち凸凹が少ないものにとって
そこが理解に苦しむことなのです。
決して、腫れ物に触るようにすることではありません。
ただ、年齢を重ねて、
その人の受けてきた心の傷が深い場合は
かなりじっくりこの3原則を実施しなければいけません。
そして、考えてみれば、この3原則は
決して凸凹の人だけに限ったことではありません。
どんなにすまして座っている子でも
誉めるポイントをきちんと探して
一日一回必ず褒めるようにすると
何か空気が変わります。
人には知らず知らず
自分で決めたルールがあります。
先日私が作ったsoraの7RULES・・・
私はそんなにこだわりが強いほうではありませんので
この7つができなくても癇癪は起こさないと思いますが、
凸凹さんは、このルールを変えられると
いのちにかかわるぐらいの挫折感を覚えるときがあるのです。
その気持ちを理解すること・・・
そのルールで私もそばいてあげること・・・
そして、ほめほめ大作戦をすること・・・
もしあなたの周りにこだわりが強いと感じる人がいたら
その凸凹さんをよく観察してあげてください。
かならずルールがあります。
そして、先の3原則を実行してみてください。
今までより少しだけ意思疎通ができるようになると思います。
令和の時代は、互いの凸凹を認め合う
多様性の時代です。
まちがいなくそういう時代になります。
わたしも、名だけでなく
地に足をつけて、「実」を充実させていこうと思います。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
平成の後ろ影⑦・・・発達凸凹(発達障害)
「発達障害」といわれる子供たちと大人がどう向き合うか・・・があります。
「発達障害」の「障害」という言葉から
認識や許容がゆがんだ形で伝わっている場合もあって
この言葉は改めるべきだと思いますが
とりあえず今はこの言葉を使わせていただきます・・・
➡迷走する教育
ここでも書きましたが、147年もの間
社会や大企業の要請に応えるのを「教育」としてきた歴史がある中で
教育をもっと「個別のもの、一人一人のもの」として
頑張っていらっしゃる偉大な指導者もいらっしゃいます。
以前みなさんに応援していただいた「小さな挑戦」がありました。
➡小さな挑戦
それはまさにこの「発達障害」に関することでした。
正確に言えば「グレーゾーン」と診断を受けた生徒に関することです。
お陰様で、現時点では
結果的に、明るい方へ向かっているので
本当に良かったと思っていますが、
根本的に解決されたわけではないので
まだまだ挑戦は続くと思います。
彼本人や保護者の方のご了承をいただいて
この件について詳細を記載する許可をいただいていますが、
今日は概略を書かせていただきます。
彼は、当時 県立高校へ通う2年生でした。
日頃の様子から、
診断を勧めたのは学校の担任・・・
彼は書き写す力と作業と時間の管理が苦手という
グレーゾーンの結果がでました。
診断結果が出て、私はある意味安堵しました。
中一から彼を見ていた私は、診断はなかったものの、
そういう特徴があることは認識していましたので
高校へ行ってちゃんとできるだろうかと気になっていましたので・・・
「これで学校側が何らかの配慮をしてくださる・・・」
そう思ったからです。
かなり簡略化して言いますと、
結果は真逆でした・・・
その診断を担任や学校側は認識しているにもかかわらず
あまりにも、本当にあまりにも理不尽な宿題がでました。
保護者の方が学校側に軽減、もしくは内容変更を打診をしました。
宿題をやらないといっているわけではありません。
彼の得意な範囲での宿題にしてもらえないか・・・
せめて期間を延ばしてもらえないか・・・
そういうことです。
しかし、診断を勧めたにもかかわらず、
学校側は全くの無配慮・・・いえ
無配慮どころか、かえって厳しい言葉を浴びせる始末・・・
今回私は、塾人生始まって以来初めてことでしたが、
「教育委員会への相談」(訴え)を試みました。
もちろん保護者の方と一緒にです。
ここ数十年、理不尽な学校の対応は幾度か見ていますが、
ここまで試みたことは一度もありませんでした。
今回は・・・
・診断というか客観的な指標があるにもかかわらず
あまりにも無配慮で、威圧が度が過ぎていたこと・・・
・学校側の無理解と不勉強が目に余ったこと・・・
・今後中学生がこの高校を受験するといった場合、
決して勧められないと思ったこと・・・
わたしを駆り立てた理由は他もありますが、
とにかく単純に、生徒・保護者・学校・・・
どちらを見渡しても、今のままではいけない・・・
そう強く思ったからです。
現在、法律批准に伴って、文科省より
発達障害に関する支援拡大の要請が
各都道府県になされています。
➡文部科学省所管事業分野における障害を理由とする差別の解消の推進に関する対応指針の策定について
その中に「合理的配慮」というものあります。
「合理的配慮」とは、障害者が他の者との平等を基礎として
全ての人権及び基本的自由を享有し、
又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、
特定の場合において必要とされるものであり、
かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。
障害者の権利に関する条約 第二条 定義より
要は、学校側とよく話し合って
その生徒の状況に合わせた指導をしてくださいというものです。
これは、すでに確認していることですが
障害手帳の有無にかかわらず、
発達障害およびグレーゾーンの生徒すべてに当てはまるのです。
考えてみれば当たり前で
健常者であっても発達障害であっても
➡工夫と格闘は当たり前のことで、
ましてや今の障害の定義は
障害の「あるなし」ではなく
「強いか弱いか」という認識なのですから
すべての生徒に当てはまります。
必要な適当な変更及び調整は、
できるかぎり、当然のことをやっていくという感覚が大切です。
AIによって、人間とは何かを問われる時代ですが、
それと同じことが「発達障害」でも言えます。
「人間が育つとはどういうことなのか?」
「いのちとはなにか?」
そういう哲学を突き付けられているのが現代です。
イギリスではすでに「イン クルーシブ教育」といって
かなり進んでいるといわれていますが
日本はどうも内容も違い、後れを取っているようです。
当県、特に高等学校は特に遅れていると感じています。
これは、「もう義務教育ではないから・・・」という変な誤解があります。
繰り返しますが、
これは全くの認識不足で
義務教育だろうがなかろうが・・・
全日制だろうがなかろうが・・・
手帳の有無にかかわらず・・・
すべてにおいて合理的配慮がなされるというものです。

そういう意味で、前述の動画の
「すべての子供たちが同じ教室で学ぶ」大空小学校は
インクルーシブということになるのでしょう。
どちらが絶対的にいいのかは
正直私にはわかりません。
ただ言えるのは、県立高校へ通う2年生の彼に関することは
「おかしい」「理不尽」であったということです。
保護者の方にも学んでいただき
そして、ご理解をいただき
私も改めて法律等を学び、
各機関にも問い合わせるなどして
自分にできることをさせていただいた次第です。
「彼も もちろん頑張りますが、
学校も 勉強して教育の質を進展させてください」
そういう思いです。
発達障害やグレーゾーンの子どもにとって
その症状を無視され、威圧的に対処されることは
それはもう「絶望」でしかないのです。
かれも「学校を辞めたい」
「あの人たちと一緒の場所で呼吸したくない」
そう何度も私に吐露していました。
「弱いからだ」・・・
「社会に適応するのにそんなことではだめだ」・・・
そういう大人がまだいます。
全くのナンセンスです。
こういう問題の場合、当該の症状より
「二次障害」によって精神を病むことの方が問題となります。
生きることそのものへの放棄につながるからです。
現に問題は起きています。
➡自殺生徒は「学習障害」「能力異常に低い」教職員が発言
➡苦しみをわかってもらえない・・・ 発達障害
わたしたちは、生身の人間です。
「生きること」が受け入れられなかった人たちの絶望を
もっと想像するべきです。
教育現場が「市場原理」ではなく
「いのちの原理」で営まれなければいけない理由はそこにあります。
いのちあるものがいのちあるように・・・
そう願ってやみません。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体