秋、処暑のころ⑭・・・玄徳の習得(8)
生而不有、
為而不恃、
長而不宰、
是謂玄徳、
生じて而も有せず、
為して而も恃まず、
長となりて而も宰たらざる、
是れを玄徳と謂う。
(老子 上編 第十章)
いろいろと訳し方はあるでしょうが、
たとえば、
「自然」は何かを所有したり、
期待したり、取り仕切ろうとはしない。
ただ、そのままに在る。
これが「玄徳」が目指す姿であり、
これは「真」の生活です。
「講老箚記 – 東洋思想・哲学・文化の研究」より
またたとえば、
自分が生み出し大切に守り育て、
花咲かせた「おもゐ」を独占せず、
自慢せず、取り仕切ろうとしないことが出来ているか。
これらを実践することで
「神秘なる徳」が醸し出されるのだ。
「まどゐ。 ~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 」より
つまり・・・
自分が何かをなせる(なせた)としても声高にそれを吠えず
仮にそこから何かが生まれたとしても
それを自分のものだと敷居を立てず、
ましてや、その「先生」なんかにはならず、
それを常に心にとめて日々「生きること」に努める・・
そう私は解釈しています。
ですから、仮に「観える」自分がいたとしても
それができますからなどと人(客)を集めず
ましてや料金など受け取らず
同じように見える人(ファシリテーター)を育てるなどと講座など開かず・・・
そういうことを日々の常として
そういう「徳」を自分の人生に生じさせながら「道」とし、
自然の運行に身をゆだねる・・・
そういう運命を全うできるように
人として素朴に生きていく・・・
そういうことをいつも考えています。
文科省などは2018年度から
小学校で「道徳」の授業を教科化しましたが
(2019年度中学校も)
昨今のお役人の、「玄徳」」はもちろん
「徳」のかけらもない言動を見ていると
「道徳」を学ばなければならないのは、
小学生や中学生ではないでしょう。

(障害者雇用 国機関8割で水増し 3460人)
文科省はもちろんですが、特に、
「水増し人数が最も多かったのは国税庁で千二十二人。
国土交通省の六百三人、法務省の五百三十九人が続いた。」
には驚きました・・・。世の中もうめちゃくちゃです。
せめて言わせてください・・・
わたし、まじめに税金を納めてますけど・・・(苦笑)
わたし、まじめに法を順守しようと努めてますけど・・・(苦笑)
(最近はスピード違反もなく過ごせています)
おまけに、小中の夏休みの宿題で
「社会をよくする運動」
「人権作文」
という作文がありますが
これらを宿題にするのも彼らではなく、
永田町の面々でしょう・・・
日本の日常から「徳」「陰徳」「玄徳」の話が
絶滅危惧種のように消えてきそうですが、
めざす「道」としてこれからも
自分に、そして塾の子どもたちに伝えていきたい・・・
そう思っています。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
秋、処暑のころ⑬・・・玄徳の習得(7)
遅い夏の旅・・・
会いに行った長野の友が言った。
その友は、2年前に長野の浅間山の麓に魅せられて移住された。
この神社参りへの心の変化のお話をうかがいながら
ふとある考えがよぎった。
ここからは、僭越な物言いになることをお許し願いたい。
これこそ「自己表現」と「玄徳」の違いを
如実に表していると思う。
昨今、「神社参り」「神参り」を
まるで特別な自分を演出するように・・・
そして、
そういったことをパワースポット巡りと称して募り、
また、神社参りや神参りをツアー化し、
「スピ系もどき商品・体験」にしているセラピストが多々いる。
本当に多々い過ぎて
辟易とするのだが・・・
そういった人々は、
神々が社にいると思っているのだろうか・・・
ひかえめに、だが、力強く言うが
神は社になどいない・・・
さらに、その神々も
何千年という歴史の中で
すり替えられ、
新旧本末が転倒していることがほとんどである。
そして、この神社仏閣は、
その長い歴史の中で
神仏混淆であるし、
怨霊封じの仕掛けでもあるし
武士たちの休息所、物資補給所であり
負傷した者たちの救援所であり
その修験者は、間者の役割も果たしたし・・・
今でいう物産品を扱う商業プラットフォームだったし
庶民にお金を貸す貸金業だったし・・・
また、戦国武将たちが祈願する代わりに
土地や金品をもらったりする政治的な場所であったし・・・
さらに、金を渡すものが上位に立つのは世の常で
寺社が「武士化」していく流れも、時代のなかでは必然だったし・・・
いまでは、憲法改正の署名用紙が置いてある
とてもとても政治的な場所でもあるし・・・
(神社は、「神社庁」管轄ですから)
とにかくいろいろとある。
(歴史をみれば、そうなることも必然と言えば必然)
つまり、本来の気とかエネルギーという
純粋な部分を汚してきたのは
あとからやってきた人間の浅知恵だし
いままた、そういう「スピ系もどき商品・体験」で汚そうとしているのが
現代の人類ということになる。
首をすげかえられ、
しいたげられた氏族(氏神)が
草葉の陰で泣いてるのに、
あたらしくすり替えられた神(氏族)を
まるで自分の所属神の様にふるまい、
連れて行った皆をその前でかしずかせるのが
いまの「スピもどき系 神参り神社巡り」である。
その友人が神社に行かなくなったのは
浅間の麓・・・
見上げる浅間の峰々・・・
湧きいずる雲・・・
風にゆれる林の木々・・・
樹間をそよぐ風・・・
そのすべてが神だと悟ったからだ・・・
だから、わざわざ神社に行かなくとも
ましてや、セッションルームでエネルギーワークもどきを受けなくても
日々神と対面し、包まれているから、もう十分なのだ。
ある人物に先導(誘導)され神社に行き、
「特別なことをしています感」満載の 神社巡りと神巡り・・・
これは互いに 「自己表現」化した
スピもどき系 キラキラわくわくお披露目会・・・
傷のなめ合いというのがあるが
キラキラわくわく自画自賛会も気持ちが悪いものだ。
そういうことは、心ひそかに自分が信じた(感じた)時に、
信じた(感じた)やり方ですればいい・・・
この友人のように、
すべてに神を見出せる自分に出会うこと・・・
そういう魂魄に育つこと・・・
それを「玄徳」という。
魂(精神)と魄と(肉体)が分離していない
日常の在り方・・・
それが「玄徳」である。
言っていることとやっていることの合一と置き換えてもいい。
誰かに見られるため、認められるための神社、神参り・・・
そういうことを、勧めることも、やることも(金品が行き交うのは言わずもがな)
そろそろやめてはどうだろうか・・・
商品化した「スピもどき系自己表現」・・・
さらに、「スピもどき系自己表現」化した(させる)セッションやセラピー・・・
どれも魂魄分離のままで 実に気持ちが悪い。
きっと誰のためにもなっていない。
秋、処暑のころ⑦・・・玄徳の習得(1)
「認められたい」という思いが強く顔を出し、
道を誤ることが多くあります。
さらに、「自己実現」をいう罠が
わたしたちの判断を狂わせ
その魅惑に足を奪われ
本来の「自然体」の道を踏み外します。
マズローは人間の欲求をピラミッドにして、
人々に指し示しました。

(図はこちらからお借りいたしました)
(厳密には、階層図はスポークスマンのゴーブルによるもの)
言葉はいろいろと変化しますが、
だいたいこんな言葉です。
6:自己超越欲求
5:自己実現の欲求
4:尊敬・評価・承認(尊重)の欲求
3:社会的欲求 / 所属と愛の欲求
2:安全の欲求
1:生理的欲求
いわゆる5段階欲求と呼ばれるものです。
最近は6段階に分けることが多くなりました。
「マズローは晩年、6段階目を発表していた・・・」
というわけです。
このピラミッドは、
「いわゆる先進国は、とうの昔に、
1・2段階は満たされているものが多く・・・」
そう表現されることが多いです。
いっぽうで、老子が「道徳経」のなかで
「玄徳」という心構えを説いています。
道を目指す者が自身をチェックするための心得です。
玄徳が顕現されると
以下のようになるらしいのです。
・道が生んだものを自然に発展させる
・発展させた相手に指図しない
・人を発展させて指図しない
・深く遠く返った後、順序が戻る作用がある
玄徳とは、徳のさらに奥にある徳で
「道」とほぼ同じ領域のことを言います。
先生や医者や坊主やセラピストと呼ばれる人々が
どちらに立ち位置を置くのかで
全く現象は変わってくると思います。
今日からは、そういうお話を思いつくまま
数話にわたってお話したいと思います。
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genre : 心と身体