時は金なりの真意
➡モモと桜
私たちぐらいの年齢になると、
もう、量より質をとります。
量というのは、
別名生産性と言ってもいいかもしれません。
いわゆるコスパの世界です・・・
しかし、そのコスパももういいです。
なぜなら、人が言うコスパは、人基準だからです。
しかし、私たちの人生は、
生産性やコスパだけのために使われるのではありません。
無駄なものをきちんと無駄に使う・・・
変な言い方ですが、そういう時もあるはずです。
つまり、人にとって、無駄だと思われるものでも
自分にとってはそうでないものがはっきりしてきます。
実は先日来、ある二つの観光地へ足を運びました。
地元の国内最大級の商業リゾート・・・
もう一つは、琵琶湖バレイ・・・

その二つがあまりに対比的でした。
ここからは、
あくまでも私の感覚ですのでご容赦ください。
物を売る、サービスを売る・・・
確かにそうでなければ企業は立ち行きません。
しかし、私たちの日々の生活は、
本当に気を付けていないと
消費だらけとなって
「奪われる」
「使われる」
の方へと流されていきます。
わたしは、ディズニーランドが苦手です。
苦手というのは、控えめに言っていますが、
実をいうと嫌いです(笑)
偉そうに言う割には
以前、会社員の塾人の時に
子どもたちの卒業旅行の引率で1回行っただけですが、
入ってすぐに、
友達がいなかった生徒と何か乗り物に乗っただけで
(覚えていない)
その後は、その生徒も友達ができたため、
ずっとミッキーの映像が流れる
八角形(六角形?)の部屋で寝ていました。
あれほど、大消費だけで、
創造性のないワンダーランドを
私は体験したことがありませんでした。
話を戻します。
時は金なりというのは、
ある施設に入って
やたらと並んだり、
やたらと買い物だけをしたり、
やたらと乗り物に乗ったり、
やたらと食べたり、
そういう時間の使い方ではないと思います。
特に私の年齢は
もうそうではないのです。
高くても、安くても
そこでの時間が、自分の時間であり
心の中での「創造」がなされるとき
本当に「時は金なり」なのです。
安いだけを求めて
「安物買いの銭失い」でも満足しませんし、
高いという他者の価値観を鵜呑みにして、
「高物買いの大銭失い」では、地団駄を踏みます。
そこで過ごす時間
その人と過ごす時間
わたしという存在と360度の環境が融合した一体感
そういったものに
足を運び
お金を遣い
時間を遣うことを
本当に贅沢した・・・
と言えるのではないでしょうか・・・
とにかく、
その時の価値(時とお金)を自分で決められるというのが
「時は金なり」なのではないかと思うのです。
地元の国内最大級の商業リゾート・・・
もう一つは、琵琶湖バレイ・・・
残念なことに、
入場料は無料で、
駐車場も無料だったにもかかわらず
ほぼ「消費」だけを提供していた前者は
わたしにとって「時は金なり」ではありませんでした。
今は、一部のオープンだけでしたので
すべてがオープンしてから
また変わるのかもしれませんが、
少なくとも今はそう感じました。
一方、多少の費用が掛かったにもかかわらず、
後者は、本当に「時は金なり」でした。
前者には「文化」「芸術」がないのです。
広いのに、「余白」「間」がないのです。
広さは、物理的な面積の問題・・・
余白・間は、心の問題です。
取って付けた文化・芸術では、本当に心は動きません。

(少し足を延ばした「旧竹林院」)
消費だけではない「時」・・・
景色を眺める時の自他融合の至福感・・・
若い時はきっと、「高いなー」で終わったであろう
この豊かな時をどう表現すればいいでしょうか・・・
ふと思いました。
若い時は、自分の時間が無限にあると思いがちです。
われわれは、遠く、高く、足を運べる時間がもう数えるほどでしょう・・・
時が無限にあると思うと「(費用が)高い」と感じる・・・
しかし、有限だと気づき始めると
費用の高低にかかわらず、
本当にいいものしか首が縦に触れない・・・
豊かさが、
お金基準ではなく
自分の「有限の時」を基準とする・・・
だから、希少価値があるのかもしれません。
もう私たちの年齢は、「消費」では心が動かなくなるのです。

(ぴよさんを探せ!)
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