鎌倉➡江の島➡浜松へ⑬
あくまでも私の感想です。
豊川稲荷に行って最初に感じたのは「違和感」・・・
稲荷と言うからには神社・・・
壁越しに境内を感じたのですが、
あれ!?神社ではない・・・
そう感じました。
山門があります。
だからここの原型はお寺です。
もちろん日本はかつて神仏習合ですから
神社とお寺が合わさっていても何ら不自然ではありません。
私が感じた違和感はそういうところではありません。
神様がだれで、どこにいるかわからないのです。
つまり、大元が不明かごまかされている感じです.

繰り返しますが
玄関口は、寺の象徴の山門です。
寺なのに稲荷・・・
いつの時代からか、
本当の仏がお隠れになった模様です。
境内には、大きな鳥居があります。

鳥居とは封印の証・・・
一種の呪詛です。
調べると豊川稲荷は、曹洞宗の寺院で正式には「妙厳寺」・・・
約580年前の室町時代(1441年)に創建されて以来、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公などの武将や、渡辺崋山など文人たちからの信仰を集めてきました。その鎮守『豊川吒枳尼真天(だきにしんてん)』(通称豊川稲荷)は江戸時代には庶民の間で商売繁盛や家内安全、福徳開運の善神として全国に信仰が広がり、現在も年間およそ五百万人もの参拝客が訪れます。
神社仏閣としては比較的新しいお寺です。
ご本尊は、ちゃんといらっしゃいます。
千手観音です。
ではなぜこちらのご本尊を正面に据えないのか?
神の眷属である狐がこんなに大きな存在となったのか?
詳しく書かれている方が見えました。
➡日本三大稲荷 豊川稲荷(愛知) ご本尊はどこ? 豊川稲荷の由来
由緒ですが、あくまでも逸話です。
創建者、東海義易禅師が6代目というのも遠いですし、
どちらにしても全体としてなんだかしっくりきません。
神々のすり替え・・・
私の違和感は、この方の素晴らしい記事でも解決しませんでした。
ウィキぺデアにあるように
「江戸幕府の朱印状には、すべて、
三河国宝飯郡豊川村妙厳寺寺領」となってるので
どう見てもここは元は寺でしょう・・・
千手観音が隠されたわけが、
神仏分離令で、仏の方が弾圧されたからか・・・
しかし、であるならば、
ウィキぺデアの記載の
それまで境内の参道に立ち並んでいた鳥居は撤去され、「豊川稲荷」「豊川大明神」の呼称も使われなくなった。以降は「豊川吒枳尼真天」と号するようになる(ただし、間もなく通称として「豊川稲荷」と呼ぶことは復活する)。 なお、現在地に鳥居が立ったのは戦後であるが、この鳥居は1930年(昭和5年)に敷地内に移転・保管されていた江戸時代末期の東海道にあった鳥居である。
で、なぜ神社の象徴の鳥居が当時撤去させられたのか・・・
つまり、なぜ稲荷が放たれたのか・・・

謎と違和感がある豊川稲荷です。
神仏は、民に祈られて初めて光を放つもの・・・
神仏人は一体だからです。
豊川稲荷を訪れる人のほとんどは
この千手観音の存在を知らないでしょう。
なぜこんな二階の目に見えないところに鎮座なさっているのか・・・
本尊千手観音は秘仏としてでもいいから
もっと前面に出すべきだと思うのですが
みなさんはどう思われますか?

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鎌倉➡江の島➡浜松へ⑫
はままつフラワーパークに行く予定でしたが、
朝一でなかったため、
駐車場に長蛇の車・・・(やっぱり)
こういう時私たちは
余程行きたいところ以外は
すぐに予定変更します(笑)
われわれのような年齢になると(笑)
わざわざ並んでまで行きたいところなのか
それともそうでないかで次の行動が変わります。
で、近くの弁天島へ・・・
やっぱりここも長蛇の車・・・
すぐさま、反対方向へハンドルを切ります(笑)
少しだけ戻って、
遠州灘沿いの国道一号線に出てみました・・・
このチョイスが大正解!
素晴らしい遠州灘の風景と出会いました。



結構な人が浜辺で遊んだり、釣り、サーフをしていましたが、
広すぎて全然込み合っている様子ではありません。
ちょうどお昼ごろでしたので旅の最後のお昼ごはん・・・
これも偶然出会ったのですが
潮見坂のしらす・・・

偶然-美味しい
偶然-絶景
旅の醍醐味はこういうところにあります。
よくGWは混んでるから
どこにも出かけないという方もみえますが、
それはちょっともったいないと思います。
私のこれまで経験では、
それをハンドルの切り方で回避することが
また旅の楽しみだったりしますし、
渋滞にハマったらハマったで
車内での楽しみをいくつか持って行くといいと思います。

生まれてはじめて海を見ながら
しらす丼をいただきましたが、それはもう格別でした。
日本はいろいろな意味で
本当に豊かな国なんだなと実感します。
実は今回、お土産でしらすを買ったり、
後から取り寄せたりして比べて食べてみたのですが、
今回の旅では、個人的に
ここ潮見坂のしらすが一番おいしかったです。
いつもは同じように見えるしらすですが、
季節やしらすの大きさと塩加減で全く違う味になるんですね。
そういうことを知ったのも新鮮でした。
これまであまりこだわらなかったしらすですが、
ちょっとこだわりができました(笑)
遠州灘を離れ、おまけです。
フラワーパークに行かなかった分時間が余りましたので
これまた一度は行きたかった
豊川稲荷へ向かいます。
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鎌倉➡江の島➡浜松へ⑪
いよいよ最終日・・・
浜松を楽しみます。
永禄11年(1568)、三河から東進し、今川領の制圧を開始した徳川家康。家康は、駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に着目しました。天下を盗るためには、まず信玄を倒さなければならないと判断した家康は、元亀元年(1570)、岡崎城を長男の信康に譲り、三方原台地の東南端に浜松城を築城、駿遠経営の拠点としました。
浜松城公園HPより
ホテルの近くに浜松城がありました。
ホテルマンに浜松城の見どころを伺うと
「さくらの時期以外はぁ」と歯切れの悪いお返事が・・・(笑)
まあ、地元に人にとってはそんなものなのでしょう・・・
しかし、そうそうこの浜松城に来ることもないなと思った私たちは
やはり行ってみることにしました・・・
もちろん、天守閣の再建ですが
結構立派でしたよ。

町にお城があるというのは、
その町のシンボルとして、
また地元民の憩いの場所として
かなり重要だと私は思います。
住民に潜在的なバックボーンを植え付けます。
以前、23号線沿いの大きな建物(確かジャスコ)が壊され
その国道から津城の丑寅櫓が見えた時の心躍るあの感じがまさに
その瞬間だったのでしょう・・・
ところが今では、
その跡地に大きな市中銀行のビルが建ち
国道からのこの丑寅櫓が全く見えなくなりました。
「無粋」
「文化」を守る・見せるという「粋」なトップ経営者・財界人が
この街にはいないと気付かされました。
「文化」とは、常に神仏とともにあるものです。
祭り(伝統)も市(経済)もそうやって
神仏のお膝元で続いていくものです。
そうして人の心も懐も潤すからこそ発展していけるのです。
津には、日本の三大観音やハーバーなどがありますが、
本気で活性化しようとしているとは思えません。
城、湊、市場、相場・・・
これが街を作るための必要条件です。
津にはそのすべてがそろっているのに、
なんとも衰退の一途をたどっています。
<中部地方の門前町>
三条 - 新潟県三条市 - 本成寺・東本願寺三条別院
弥彦 - 新潟県弥彦村 - 弥彦神社
八尾 - 富山県富山市 - 聞名寺
門前 - 石川県輪島市 - 總持寺祖院
志比 - 福井県吉田郡永平寺町 - 永平寺
板垣 - 山梨県甲府市 - 甲斐善光寺
身延 - 山梨県南巨摩郡身延町 - 久遠寺
長野 - 長野県長野市 - 善光寺(長野善光寺)
座光寺 - 長野県飯田市 - 元善光寺
上条 - 静岡県富士宮市 - 大石寺
谷汲 - 岐阜県揖斐郡揖斐川町 - 華厳寺
大須 - 愛知県名古屋市中区 - 大須観音(日本三大観音)
荒子 - 愛知県名古屋市中川区 - 荒子観音
笠寺 - 愛知県名古屋市南区 - 笠寺観音
竜泉寺 - 愛知県名古屋市守山区 - 龍泉寺観音
甚目寺 - 愛知県あま市 - 甚目寺観音
妙興寺 - 愛知県一宮市 - 妙興寺
大樹寺 - 愛知県岡崎市 - 大樹寺
門谷 - 愛知県新城市 - 鳳来寺
大門 - 三重県津市 - 津観音(日本三大観音)
一身田 - 三重県津市 - 専修寺
大変残念ですが、
補助金と言う甘い汁欲しさに
やったふり感が満載と感じます。
そしてそれに群がる魑魅魍魎・・・
以前音読会で下の本を読んだことがありますが、
まさに商店街が廃れていく理由が
なんとその商店街内部(利権)にあったとは・・・
そう分かった本でした。

繰り返しますが、
全国の商店街の原型は、
神仏とともにある門前町や
それを支える国主の城下町であることが多いです。
「文化」というのは、
核になる寺社や伝統工芸がもちろんありますが、
そこに経済が生まれるからこそ何百年もかけて
「文化」が昇華されていくのです。
その「経済」を内輪だけの山分けに使っていたら
それは廃れていくに決まっています。
発展させない程度を保ち
国から補助金をもらい
やる気のない無駄遣いの相談役、
実績が生まれなくても責任を問われない高額コンサル・・・
彼ら魑魅魍魎と当事者たちで
ほど良いところでお手打ちとする。
結果は一目瞭然・・・

今我々が知っている戦国武将たちは、
もちろん発展させることが次の戦のたくわえになりますから
必死でなさってでしょうが、
その文化経済を栄えさせたという功労だけでも
敬うに値する人物たちです。

(家康像)
浜松は、津の人口の3倍ほど・・・

津にとってここがネックなのかもしれませんが、
室町末期、
海運業者仲間の慣習法を成文化した日本最古の海商法である
廻船式目には「津」が入っています。
<日本三津>
安濃津 - 伊勢国安濃郡(三重県津市)
博多津 - 筑前国那珂郡(福岡県福岡市)
堺津 - 摂津国住吉郡・和泉国大鳥郡(大阪府堺市)
海-みなと-寺社-門前-町
津もぜひ「日本三津」の誇りを取り戻し、
これらを結びなおしていただきたいなと思います。
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鎌倉➡江の島➡浜松へ⑨
江の島・・・
江の島は真上から見ると
きれいな銀杏の形をしています。
鶴岡八幡宮の銀杏と
江の島の銀杏・・・
偶然でしょうか・・・
江の島がこんなに狭いのに
こんなに人が多いとは驚きでした。

そして神社があります。

奥津宮:旧本宮。多紀理比賣命を祀る。
中津宮:旧上之宮。市寸島比賣命を祀る。
辺津宮:旧下之宮。田寸津比賣命を祀る。
あの福岡県の宗像大社、宗像三女神とよく似た構造をしています。
海➡山➡国土
人が人口を増やし、文明を発達させるとき、
ムラ(邑)からクニ(国)へと、
また、自由より欲望を選び始めて
「所有」を意識し始めたとき、
それが歴史だとするならば、
この神社や宗像大社は
間違いなく伊勢神宮などの天津系よりも
ずっと古い神社ということになります。
国津系の神社よりも前という表現でいいのかわかりませんが
「宗教」は、それよりも前は「祈り」でした。
それは宗教ではなく「信仰」です。
とにかく、いま私たちがありがたく拝んでいるのは
神ではなく、
国が作った体制、システムに頭を下げて拝んでいるだけです。
だから、「お願い」ばかりするのです。
お願いは、「上下関係」が前提です。
祈りから思わず頭を垂れるのではなく、
体制、システムに頭を垂れているのです。
長い年月で私たちはいつの間にか
卑屈に、あざとくお願いする体質に変わっていきました。
「他者に頭を下げさせて
それで己の地位を確認しなければ
安心できない者のことなど
私は知らない。
それよりも、人に頭を下げる度に
壊れていくものの方が問題だと
私は思う。」
これはアニメ十二国記の言葉です。
昨日は、この壊れた人が2名ご相談でした。
私はフルスロットルで叱りました。
霊視を依頼され、
「後ろに守ってくれるご先祖様がいるなら
お墓参りに行かなくちゃと思って・・・」
こういった言葉が思わず出てくるこの方の体質・・・
なんというあざとさ!
なんという身勝手さ!
なんという欲深さ!
霊視する気も失せました。
ちなみに
遠く山奥の不便なところにあるお墓かと思いきや
単なる交通手段の問題であって、
自宅と同じ平野にあるお墓です。
今の人たちがいかに信仰ではなく、
ご都合主義で、しかもおこぼれ欲しさに
体系、システムに頭を下げているかよくわかる出来事です。
自らの内面を振り返り、内省するのではなく
すぐ外に「お願い」や「おこぼれ」や「ご利益」を求める・・・
安直で浅ましいのです。
人は、真実に相手に感謝し
心から尊敬の念を感じたときには
自然に頭が下がるものだ。
他者に対しては
礼をもって接する。
そんなことは当たり前だし、
するもしないも
本人の品性の問題で
それ以上のことではないだろうと
いっているんだ。
同じく十二国記の言葉です。
何かもらえるから頭を下げる・・・
昨日のご両人からはそんな「気」が漂い、
辟易としてしまいました。
己という領土を治める
唯一無二の君主に...
そのためにまず、他者の前で
毅然と頭を上げることからはじめてほしい。
「十二国記」
転ぼうが傷つこうが、
毅然と頭を上げることができる人であってこそ、
初めて首を垂れることに深い意味が生まれるのです。
話をもとに戻します。
人でごった返す仲見世を抜けて
エスカレーターで上へ上へと上がっていきます。
もちろん徒歩でも登れますが
ここは無理せず、楽させていただきました(笑)

(中津宮、祭神 市寸島比賣命)
登りながら三神にご挨拶をします。
そしていよいよ江の島のシンボル
シーキャンドルに上ります・・・




緑も海も空も・・・
本当に美しい・・・
残念ながら今日も富士山は見えませんでしたが、
今回はそういう旅なのでしょう・・・
旅も神も頭でわかってはいけません。
わかるわけがありません。
ハラで感じる・・・
この体験こそ
生きているということなのです。
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鎌倉➡江の島➡浜松へ⑧
噂の小町通をちゃんと散策しました(笑)
前日は夜も遅かったので
ほぼお店が閉まっていましたから。
今日は、朝の10時前・・・
当たり前ですが
昨日よりは多くのお店が開いていました。

私は旅に出ると
マンホールを撮る癖があって、


今回驚いたのが鎌倉のマンホールは
種類が豊富ということです。
こういうところにも
観光地の貫録を見ることができます。
はちみつアイスに
アップルパイを頬張りながら
おしゃれな界隈を1時間ほど楽しみました。


この鎌倉は、寺社も含めると
一日二日では周りつくせませんね。
大河ドラマの「鎌倉殿の13人」ゆかりの場所は
まだまだたくさんありますが
今回感じたかった「地形と頼朝」は
少しわかった気がいたします。
鎌倉はどこも坂ばかり・・・
小高い丘から海を眺めると
頼朝の考えが想像されます・・・
気の弱い頼朝は
常に疑心暗鬼で
何か起きそうな予感(大抵は外れているが)がすると
すぐに追討・斬首を命じたりしていましたが、
いざとなれば、
部下を残して、三浦半島を抜け
上総介広常から召し上げた房総地域を通って
蝦夷へ逃げる算段があったのかなーと
地形を感じながら楽しませていただきました。
小さい頃の不幸な流民生活が
彼を引きこもり癖&疑い癖にしたのか、
それとももともとそれがあったのかはわかりません。
半島に囲まれた、この釜=鎌のような地形の「鎌倉」を
永住地として選んだ頃の頼朝は
きっと誰も信じることができない性格が
固まっていたんだと思います。
もともと頼朝は大将の器ではなかったはず・・・
そこを誤った母性を振るった政子が庇い、
子や孫、血縁、一族をでっち上げた謀略で
ほぼ全滅させたました。
あれから約1000年・・・
にぎわう小町通とこの哀しい一族の対比・・・
「いざ鎌倉へ」という、まるで忠誠心の象徴のようなこの言葉は
頼朝の気の弱さと疑心暗鬼の裏返しだったのでしょう。
御家人はみんな、
領土と家族、領民が人質に取られているから仕方なく
嫌々来ることを知っていた・・・
だからこそ、
自分の時代をまるで戯曲のように盛り上げるしかなかった・・・
まだまだ見足りない名残惜しい鎌倉でしたが、
仕方ありません。
お昼前には、ここを後にしたのでした・・・

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