なってはいけないものがある
人は追い求めても求められない欲望があります。
いえ、どちらかというと、
追い求めるとかえって自分がわからなくなり
その人の人生が立ち行かなくなる欲望・・・
確かにそれはあると思います。
ただ、わたしの視点は大変狭い視点だと思います。
神の視点から見たらもっと違う表現ができるかもしれません。
今日はそんなおつもりで聞いてください。
母になってはいけない人・・・
申し訳ないのですが、
ご相談にあずかっていると
こういう方が一定数いらっしゃいます。
もちろんこれは
狭い私の視点ですので、
神の視点に立てば
もっと違う意味があると思います。
女性として生まれ、
年頃になり誰かと結婚する・・・
こういう方は、
この結婚からボタンの掛け違いがあります。
もちろん誰と結婚しようが
その人の勝手ですが、
のちのち、本人、旦那、そして
その子どもたちにしわ寄せがいく・・・
本当は好きではなかったけど結婚した・・・
子どもができれば何か変わると思った・・・
(こういうかたはよく「できる」と表現する。
「授かった」とはいわれない)
そして、その子どもを愛せなくてDVになってしまう・・・
子どもは、
虐待を受けているときは
ものすごい恐怖でも
他に楽しいことがあると無邪気に笑う。
しかしその笑顔はやがて歪んでいく・・・
旦那とうまくいかなくなり、
子どもにもDVをし、
挙句の果てには
家庭はそのままで
また別の男性と深い中になる・・・
その男性も家庭があったりする・・・
マドモアゼル愛さんが、
「セクシュアリティでしか人はエネルギーを得られない」
そういわれていたが、
エネルギーがない人が
こういった性のトラブルに自らはまり込み
ドツボに はまるのは、そういったわけである。
性が謳歌されていたという縄文時代なら
これは普通のことだったかもしれないが
今の時代は、いろいろややこしくなり
そうはいかないだろう・・・
これは別の方からうかがった話だが、
児童養育施設には、
そうやって親の元では
育てられなくなった子供たちがたくさんいるという。
これを神の視点で見ると
いったいどんな意味があるのだろうか・・・
神よ、どうか教授してほしい・・・
わたしの狭見ではわからない・・・
狭見ゆえに言わせていただくと、
それならば結婚をしなければ
その女性も、子どもも、旦那も・・・
みんなそれぞれ幸せになったのではないか・・・
そう考えてしまう。
何も向いていない奥さんや母親をやらなければ
もっと気楽に男性と付き合えたし
日々の暮らしでイライラすることもなかっただろうに・・・
女性として生まれたなら
必ずしも結婚し、子どもを設ける必要はない・・・
人として
よくよく自分の得手不得手を考え
心の空虚さを誰かに埋めてもらおうとしない・・・
また本来 自分一人で向き合わなければならない
心の闇を人に解決しもらおうと思わないことだ。
そういう潔さが人生には必要だ。
できないものは無理してやらない・・・
その女性も、父親からDVを受けていなければ
その自然さが培われたかもしれない・・・
親子関係の長期的な暴力は
時に他人からの暴力よりも事態を長期化し悪化させる・・・
人は、不安より不幸を選ぶ・・・
その典型の事例である。
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