秋、処暑のころ⑨・・・玄徳の習得(3)
楽しみながら歩む時代をつくったほうがいいと思います。
どこかいつも不機嫌な人をみているとよくわかるのですが
それは、自分の些細な自己表現・自己実現(やりたかったこと)を
さまたげられることに、イラつき、騒いでいるのだと思うのです。
マズローの自己実現は、何らかの「個人の能力」が
それまでその人が達しなかった充実した領域に達したことを言います。
「個人」が有能なので、
「能力」を発揮でき
到達したと思っているので
「個人の能力」がそうさせたと思っているのです。
ですから、仮に何らかの問題が起き
その域に達しないことが起きる(自己実現を妨げられる)と
この「個人の能力」が妨げられたとイラつくのです。
この良くない状況は
自分のせいではなく
人のせいだと暴れる(笑)のです。
成功も失敗も個人の能力に属していますから
仮に、良くないことが起きたり、失敗すると
「これはあいつのせい」
「これはわたしのせいではない」と
自他のライン引きが始まるのです。
野球で言えば、エラーした野手にイラつく投手に似ています。
しかし、よくよく考えれば
「能力」は、個人には所属していないのです。
なぜか?
発揮できる「場」があり、喜んでくれる「人」がいて
そして、それらを「共有」できたとき
はじめて人は「能力」を発揮できるのです。
だから、本当に「自己実現」(あえてこの言葉を使うとすると)した人々が
口々に、他者や場への感謝を述べるのは
そういう人たちは、「能力」や「個性」は個人にはないことを
本能的に知っているのかもしれません。
そういう意味で「能力不足」・・・つまり「欠け」を
ダメなものとして脅迫して支配する関係は
もともと不完全な人間には合わないし、
そろそろ終わりにしてもいいということです。
これからは、
エラーはつきもの・・・
打てないのは当たり前・・・を前提に、
ともに試合(人生)を作っていくのを「常」とした方が
はるかに楽ですし、楽しいはずです。
8軒に一軒が空き家・・・
発達障害が5人に一人・・・
2030年に3人に一人が65歳以上の日本・・・は
まさに「欠け」の時代・・・
青春期の光り輝く「自己実現」という言葉で互いの首をしめるより
そろそろ互いの「欠け」を輝かせようではありませんか・・・
欠けてこそ 『完全』(まる)・・・

この世の中・・・
「○にとらわれた心では、
○を描くことは出来ない」
ということです。
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genre : 心と身体
秋、処暑のころ⑧・・・玄徳の習得(2)
マズローが最高の人間欲求としていた
この「自己実現」は、近代の土壌で生活をする人間にとって
とても魅力的です。
わたしがはじめて、マズローのピラミッドに出会ったのは
たしか、高校生の「保健」か何かの時間だったと思います。
私も例に漏れず、この「自己実現」という言葉に魅了されていました。
そのときは、「自己」とは何なのかも
わかっていなかったにもかかわらずです(笑)
いまでもそうですが、マズローの本意に関わらず、
このピラミッドが一人歩きしてしまっているために
この「自己実現」がまるで
輝かしい人間の最終ゴールであるかのように君臨しています。
それは、新たに加わった「自己超越欲求」を加え
さらに高くそびえるようになりました。
基準はわかりませんが
自己実現を果たしていないほとんどの人間にとって
それは羨望の対象であり、
達成してると自負している者にとっては、
優越感の種です。
有名な俳優や芸能人、
活躍するスポーツ選手・・・
いわゆる「花形みつる、みつこさんたち」を見ると
達成していない者からすれば
「いいなー」となるわけです。
小学生に「将来なりたい職業は?」とアンケートをすると
必ず上位にスポーツ選手が現れるのは、
子供たちにとって彼らは自己実現し、
夢を叶えた人物に映るからでしょう。
多くの自己啓発セミナーや
お金持ちになろうセミナーや
スピリチュアルセミナーなどにとっては
この「自己実現」は
格好の「馬の目前のニンジン」にもなりうるわけです・・・。
実は、この「自己実現」は「個性」とあいまって
現代人をかえって息苦しく呪縛していることもあります。
「今の仕事は私にあっていない」(自己実現に結び付いていない)
「特に語るような個性がないので、自己実現しにくい」
などです。
また、「自己表現」とごちゃまぜになり
「個性的」なものが「自己表現」できたのだし、
「自己表現」できたものが「自己実現」を果たしていると
みなしている傾向もあります。
だから、目立つことが嫌いで、
自己表現や際立つ個性のないと思う子供たちは
「不登校」や「うつ」「ひきこもり」の遠因にもなっていると思います。
現代社会は、子どもも大人も、
「自己表現」「自己実現」がごちゃまぜのなかで
それが足りていないことがまるで劣等のように
SNSから日々煽りを受けながら暮らしています。
あれができた!
これが買えた!
だれだれに会った!
これこれをプレゼントしてもらった!
ここのランチを食べた!
どこそこを旅した!
さらりと積み上げられた「自己顕示」はどんどん大きくなり
受け取り方の問題でもありますが
「嫌み」と「炎上」がいつも隣り合わせです。
自己実現は、自己表現とあまり関係がないのですが
どうやらそれがまぜこぜになってるのが現代です。
最近の若者がSNS疲れでアカウントを削除するのもよくわかります。
塾の生徒が呟きます。
「最近、ラインしんどい・・・」
要は疲れるのです。
発信側が意図する、しないに関わらずですが、
他者の自己顕示欲と
そこで繰り広げられるコメントの数々・・・
また、その立ち位置のバランスをとるのに疲れるのです。
いつのまにか、わたしたちは「見る人」がいなければ
「自己実現」をできなくなってしまっているのかもしれません。
「見る」「見られる」の分離・対立軸が私たちを縛り、
嫌なのにどんどん離れられなくなることも多々・・・
そのグループが嫌なら離れればいいのに
スパッと離れるのはもっと苦しいらしい・・・
「自己表現」と「自己実現」とがごちゃ混ぜで動く世の中なので
これは余計に苦しい・・・
1943年に発表された
マズローの欲求5(6)段階は、そういう意味で
経済成長が約束された時代であれば輝かしい「頂」になるのですが
現代の私たちにとっては「呪縛」「脅迫」「疲労」の種にもなりかねない・・・
そうわたしは思います。
では、そのの息苦しさを和らげる心構えはあるのでしょうか・・・
わたしは、それは「欠け」を認める心構えだと思うのです。
つづく・・・
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