認めてもらいたいがゆえに引き起こされる歪み
この清々しい達成感を持っている人は、
例えそれが失敗に終わっても、その達成感は色褪せない。
むしろもっと色々とチャレンジしたくなる。
そして、世界が広がり、視点も広がり
どんどん意識の拡大が起きる。
ところが、人に認めてもらったからやったという軸でしか
達成感を持てない人は、
他人軸だから、どこまでも自信が持てない。
自信の代わりに、劣等感や罪悪感が押し寄せてくる。
なので、視野がどんどん狭くなって、
チャレンジする気持ちが萎えてくる。
視点も意識も縮小する・・・
小さい時なら、周りの大人が
「すごいね」と言ってくれる機会が多いから
承認が「やりたい」の原動力になる時もあるが、
だんだんと青年期を超え、大人になれば、
そうそう自分に関心を持ってくれる人もいない。
だから、ちょっとした壁に当たるだけで
過去に帰っていってしまって、
あのときがこうだったから今こうなった
あの人が邪魔をしたからうまくいかなかったという
言い訳がたくさんでるようになる。
これは一種の退行欲求である。
これが依存心の正体である。
そして、意外なことだが、
依存心は、無意識の領域に憎しみがある。
自分が本能でやりたかったことを押さえつけられ、
それを認めてもらえなかった憎しみだ。
「やる」「やめる」「続ける」がすべて他人軸だったため
反動としての憎悪も深く見えにくい・・・
自分が本当にやりたかったこと、やめたかったことの代替案として
「あなたが気に入ることをやったのに(やめたのに)」
「あなたは、『私のためだからやりなさい(やめなさい)』といったのに」
全然うまくいかないじゃないか!
全然楽しくないじゃないか!
そういって潜在意識の中では憎悪がうごめいている・・・
だから、
人の目が気になったり、
ちょっとでも達成できそうにない困難にぶち当たると
逃避が始まる。
結果、うまくいかなくなる場面が増えるから
一番の動機だった承認がますます得られなくなる。
もともと、自分の本能からやりたいという動機ではなく、
他者からの承認が、「やる」「やめる」「続ける」の唯一の動機だったので
逃避はさらに深まる。
たいへん厄介なのは、憎悪を向けたい対象が、
一番自分を守ってもらえて、承認が欲しい親だったりすることが多いので
直接、憎悪を遂行できずに、
逃避という形で、代わりに表現することになる。
時に、対象を代替させ、
配偶者や友人、子どもへという形で出す人もいる。
これが、
家庭・学校・職場などのあらゆるいじめ
DV
虐待
の正体であり、被害者、加害者の両方の闇である。
解決策?
一人から二人になる前に、
また、親になる前に、
自分にこの心の闇がないか確かめることだ。
また、親になるのであれば
その子がうまくいこうが、いかまいが
ありのままを認めること・・・
そういうことではないだろうか・・・
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theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体