文学と音
文学、特に古典や明治の文豪の作品は
「音」つまり、音読で楽しむと
また一味違うと思います。
もともと古代人は「音」がすべてでしたから
「口伝」という形で物語が受け継がれました。
いま花結びで読んでいるこちら・・・

東北訛りの物語が耳に心地よい。
やはり物語は音がいい・・・
いま私が聞きたい作品が幸田露伴だ。
ということで、Amazonのオーディブルの無料体験から
幸田露伴を検索してみた・・・
え、ない!
なんと!
さっそく解約・・・
実に残念・・・
Amazonにはぜひ明治の文豪シリーズも
このオーディブルに加えて欲しい・・・
やっと見つけた幸田露伴「五重塔」はこちら・・・
作品名や作者は知っているが読んだことがない典型的な作品・・・
さっそく聞いてみた・・・
これはすごい・・・
まるで呪文だ💧
こんな難解な言葉が並ぶ作品を
今読める人が何人いらっしゃるだろうか・・・
そして、音読で聞いたとして
一体どれだけ想像できる人がいるだろうか・・・
文中には
「鉄瓶」「桜湯」など
われわれの生活から消えていってしまったものも多い。
もう日本語と言うよりは、
時代劇?
柔らかい漢文?
落語?
節のない詩吟?
「淡然」と書いて「さっぱり」
「待遇」と書いて「あしらい」
「平日」と書いて「つね」
「標準」と書いて「きめどころ」
なんという創造性、美しさ・・・
漢と和の程よい融合・・・
これは恐れ入りました・・・!
現代人にはまず太刀打ちできない・・・
まさに「百年に一度の頭脳」と言われた幸田露伴です。
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冬、冬至のころ⑥・・・幸田露伴流、幸福論(4)
恩恵に預かっている技術のすべては
先人たちの植福のお陰です。
石垣りんの詩、「地方」を
私は何度もここにあげさせていただいていますが、
「ふるさとの人は山に木を植えた。
木は四十年も五十年もかかって
やっと用材になった。
成人してから自分で植えたのでは
一生の間に合わない
そういうものを植えて置いた。
いつも次の世代のために
短い命の申し送りのように。」
文字通りこういう木があるお陰で
私たちは日本を豊かな瑞穂の国ということができ、
きれいな水と空気の国だということができるのです。
しかし、
「お金」中心の世の中にして
その水や土、空気を、公害や原発事故で汚し、
今や大切な水までも値札をつけて売ろうとしているのが今の日本です。
また、「木」に例えられた先祖からの様々な恩恵が
私たちを守り、便利にし、栄えさせてくれてきましたが、
いまや6割以上の人々が生活が苦しいと答える世の中へ・・・
そんな庶民を見て見ぬ振りをし、
間違いなく片寄りのあるこの世界を是正するどころか
さらに私物化し、搾取するありさま・・・
恥を忘れ、ましてや「惜福」も「分福」も忘れた
一部の傲慢な大人たちだけで決められるこの国に
果たしてこの「植福」を残すことができるのでしょうか・・・
それは無理でしょう。
せめて私たち庶民が、
なんとしてもこの「植福」のこころを忘れぬよう
未来の子供たちや若者たちに残してやれるものを
真剣に考えなければなりません。
露伴は言います。
「人間として徳を積むことや真の知識を増やしていくことは、
人間の幸福の源泉である。」
衣食住、医療、農業、教育・・・
あらゆるものを 約1億2000万人のうち、
たったの707人(実際はもっと少ない)で決めるというのは
人類のもっとも進んだ仕組みと言えるのだろうか・・・
リンゴを得たいなら
リンゴの苗を植えねばいけません。
お米が欲しいなら
籾をまかねばなりません。
何でもよく知っていてすごいと思っていたニュース解説者が
実は、各分野の専門家たちの調査意見を全てパチっていたとは・・・
人権派と呼ばれたジャーナリストが
事務所の女性の多くに性的暴力を加えていたという恥知らずさ・・・
もう狂っています・・・
せめて・・・せめて、
私たち庶民が、リンゴを得るためにリンゴの苗を植える・・・
世界では、#MeTooのムーブメントが起こってるとか・・・
あたりまえのことをあたりまえにして
品を保ち、徳を積み、真の知識を得ていきたい・・・
そういう意味での#MeTooもひろがるといいな・・・
こころから、そう思います。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
冬、冬至のころ⑤・・・幸田露伴流、幸福論(3)
「有福」・・・生まれ落ちた時にすでにある幸せ。先祖たちが残した福。
「惜福」・・・もらった福をすべて使い切らないこと。
「分福」・・・人に自分の福を分け与えること
と、ここまでお話ししてきました。
よく考えれば、私の周りで尊敬する方々は
自然にこの「分福」をなされていて
そして、その方々もお幸せそうで・・・
なるほどと、幸田露伴の話は本当に納得がいきます。
私は、人生の後半のほぼすべては
「お詫び」と「ご恩返し」ではないかと思っていますが、
今回の露伴の話も合せ沿いながら
この後半を生きていきたいと思います。
さて、三つめは何か・・・
それは、「植福」だと露伴は言います。
植福とは、現代ではなかなか使われない言葉ですが、
露伴の定義はこうです。
「自分の力や感情、知恵などを使って
世の中に幸福をもたらす物や情趣、
あるいは知識で貢献するということ」
※情趣・・・しみじみと落ち着いた気分やおもむき。
この世には、佇まいだけで人を癒したり
落ち着かせたりしてくれる人がいます・・・
わたしは、仙人にあこがれますが、
まさに仙人がそうです・・・
七福神の恵比須さんや大黒さんのあの笑顔は
眺めているだけでこちらも朗らかになる・・・
だからみなさん飾られる・・・
ペットの犬や猫、小鳥だってそう・・・
野原の小さな花も
この「植福」を惜しみなく提供してくれています。
自分のことだけを優先させる浅はかな人間だけが、
不機嫌をまき散らし、他者を巻き込んで
周囲を嫌な思いにさせる愚行に陥ります。
子どもも日々いろいろなことがあることは理解できますが、
そうやって不機嫌をまき散らしている生徒には
私ははっきりと諭します。
「不機嫌をまき散らすのはやめたほうがいい」
自分の行いや行動、感情が、知らず知らずのうちに
どれだけ周りの人に影響しているのかということを
感じてほしいからです。
できるだけ気持ちを穏やかに保ち
笑顔でいることは、それだけで「植福」ということになります。
今日も一日植福の気持ちで笑顔でいたいものです。
では、もう少し、
植福の話を続けましょう・・・
つづく・・・
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
冬、冬至のころ④・・・幸田露伴、幸福論(2)
二つ目は「分福」・・・
分福というのは、自分が持っている福を人に分け与えることです。
これは、「惜福」より大切と露伴は言います。
なぜなら、惜福は自分一人の問題ですが、
分福というのは他者にも関わることなので余計貴いからです。
昨日のスイカの話を出すなら、
残しておいたスイカを人に分けて
一緒に味わうということです。
自分も美味しく楽しいし、その人も喜んでくれるので、
二重の幸せを得ることができるわけです。
露伴は戒めます。
「世の中には、大きな福を有して豊か
(露伴はこれを「有福」と名付けている)でありながら、
欲が深いために少しも分福せずに、心配事は人に与えても、
よいことは独り占めするような人間がいるものだ。
このような卑怯な行為をしながら、
自分には知恵があるのだと、心のなかでほくそ笑む低級な人間が
残念ながら世の中には実に多い。」
昔の武将の伝記には、この分福の例が出てくるそうです。
兵の数のわりに、
わずかな酒しかないと気がついた武将が
その酒を河に流して、
皆でその河の水を酌み交わすという話が出てくるそうです。
酒が少ししか含まれていない河の水を飲んでも
決して酔えないのですが、
その武将の暖かい心遣いに、
兵の皆が酔いしれることができたというわけです。
慈悲の深さを表すものは二つしかありません。
ひとつは、憂いを分かち合い、軽減してあげること・・・
もうひとつは、人のために自分の福を分け与えること・・・
こういうことを日頃からできる人のところには、
暖かい春風に誘われるように、自然と人が集まります。
そして、やがてその人は自然に人の上に立つようになります。
利益を独占すれば、利益は失われ、
利益を分かち合えば、利益が流れてくる・・・
大きな利益を得ようとするならば、
福を独り占めせず、必ず人に福を分け与えて、
周りの人から、あの人に福が来るようにと
願ってもらえるようになることが大切と、露伴はいっています。
分福は、何も金品に限りません・・・
心にゆとりのある人は、優しい気持ちであったり、
智慧がある人はその智慧を共有したり・・・
そういうことも、分福になります。
最近では、3M(もてたい、もうけたい、みとめられたい)が盛んで、
この「分福」をわざわざ見せびらかし
人からの尊敬の念を自作自演なさる人も多いようですが、
それは、「分福」を工夫したことよりも
そのあざとさの方が印象に残ってしまい、
逆効果になるのは言わずもがなです。
つづく・・・
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genre : 心と身体
冬、冬至のころ③・・・幸田露伴流、幸福論(1)
どんな人が幸福にならないのかとよく観察してみると、
その間に微妙な差があることが分かったらしい・・・
それは3つあるという。
今日からその3つをご紹介しましょう・・・
一つ目は・・・「惜福」(せきふく)
文字通りでよめば「福を惜しむ」と書きます。
ただし、ケチということではありません。
現に露伴は、貯金のことばかり気にすることを
「老毒が回る」といって戒めました。
「幸運は七度人を訪れる」ということわざがあります。
どんな人にも幸運に出会うチャンスがあるのです。
ただその時に その幸運を使い果たしてしまうのは
惜福の工夫がないということになります。
つまり、訪れた幸運を、
調子に乗って使い果たさないのが惜福です。
たとえば、誰かからスイカを一玉いただいたとする・・・
それをすぐに自分たちだけで食べてしまわないで
半分は残しておく・・・
宝くじでも遺産でも、ふいに大金が舞い降りてきたときも
すべて使わずに、半分は惜しんで次の出番のためにしまっておく・・・
要は、訪れた幸運を
すべて自分の権利だといって使い切らないということだ。
よく考えれば、「惜福」は
この世の中のいたるところに儀礼として残っている。
何かをいただいた折に、
その感謝を大切に心に刻んで
折りが訪れた時にお返しをする・・・
それも惜福だ。
別の言い方をすれば、
「権利」を使い切らない・・・
そういうことかもしれない。
例えば、セルフでないガソリンスタンドに行って
ガソリンを入れてもらう・・・
その時に店員さんは、サービスでよく窓ガラスを拭いてくれるが
それを2回に一回は断る・・・
それも惜福だろう。
私は、駐車場の話もよくする。
大型ショッピングセンターに行って
入り口近くの駐車場が空いていても
あえてそこは使わず、遠くにとめる・・・
お年寄りや妊婦さん、
小さなお子様連れの家族のために空けておくのだ。
それの惜福・・・
わたしたちの身の回りでこういった
自分に与えられた幸福を
すべて使い切らない工夫はいくつもあるはずだ・・・
幸田露伴が生きた江戸・明治・大正・昭和初期より
「権利」という言葉が跋扈(ばっこ)してしまうのは
実は、わたしたちをかえって幸福から遠ざけているのだと気づかされる・・・
つづく・・・
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体