春、春分のころ⑪・・・古代日本のアイデンティティ
そういう観点で、韓国歴史ドラマも見る。
特に「朱蒙」は、非常に参考になった。
やはり日本は、多民族国家だと確信できたからだ。
例えば、三種の神器・・・
いわずと知れた、日本の歴代天皇が継承してきた三種類の宝物のこと。
(八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣)
これにより天皇の正当性を示すのだが、
草薙剣は、壇ノ浦の戦いで沈んだまま出てきていない。
いまの草薙剣は、のちに伊勢神宮が奉納したものらしい。
(いつ奉納したか調べてみたが、ネットでは出てこなかった)
朱蒙の中でも三種の神器はでていた。
つまり、三種の神器の習俗は日本だけの専売特許ではない。
朝鮮半島・中国東北部を経て黒海沿岸のスキタイ族まで続く。
この三種は、国によって時代によって違うようだ。
(古朝鮮は、日本と違い「弓、鎧、銅鏡」の三種)
三種の神器の習俗ひとつとっても
日本は、多文化の集合体ということがわかる。
実に多種多様な文化を採用し、
もともと住んでいた民族の文化と調整してきた。
私の持論だが、日本の三種の神器も
三つの民族の象徴的なグッズだと思う。
勾玉(日本の縄文人)
八咫鏡(古朝鮮・高句麗)
草薙の剣(殷王朝の鉄民族)
という仮説をここでは立てておきたい。
現に、「天皇」ということばも「日本」という言葉も
やっと天武天皇(在位期間:673年3月20日~686年10月1日)のころに
使われ始めたに過ぎない。
そこから考えても、日本という国の性質は察するに余りある。
➡

「日本人」はどこから来たか
そういう意味で、私は日本は単独民族でも単独国家でもなく
おおいに混血の国、民であると思う。
あたらしく天皇が即位し、元号も変わるこの時期だから
あらためて多民族国家なのだと認識し、
「和を以て貴しとなす」と思いたい。
多民族というのは、神社の狛犬を見てもよくわかる。
狼ぽいもの
犬っぽいもの
獅子っぽいもの
ナマズやイノシシもいる。
鶴がご神紋の物部神社もある。
手水舎には、よく龍が鎮座する・・・
牛が迎えてくれる神社もある。
なぜ入り口には「鳥」居があるのか・・・
神社はちょっとした動物園だ。
なぜそういうことが起きるのか・・・
それは、それぞれの氏族がシンボルとした聖獣だからだ。
トーテンポールはご存知かと思います。

昔の政治は、「神託」とともにありました。
神から信託された人間が政治を行うというのが常だったからだ。
そういう意味で、先端にほられる動物は、
その民族にとっては神の言葉を伝える聖獣なのでしょう・・・
聖獣は、民族のアイデンティティであり、象徴です。
朱蒙の場合は、三足ガラス(八咫烏)でした。
日本にも、八咫烏を祀る有名な神社、
熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)がありますね。
しかも歴代の天皇は、伊勢神宮よりこの熊野詣を重んじていた・・・
なぜか・・・
そういうことを想像すれば、おのずと日本が多民族国家だとわかります。
現代つかわれている文字だって、
ひらがな、カタカナ、漢字、外来語・・・
実に器用な民族といえる。
決して一つに絞れない・・・
絞らないことでバランスを取ってきた・・・
そういう意味で今の「日本」という国を見ると
「多様性」「寛容」が信条だろう。
しかし、皮肉なものだ。
幸せを感じない原因が
「人生の選択の自由度」や「寛容さ」の低さだという。

➡人生の選択の自由度(64位)、寛容さ(92位)が足を引っ張った
何千年もの昔、大陸から、半島から、アメリカ大陸から・・・
どうしてここまで極東(西)の島に人々が集まってきたのか・・・
それは、多様性と寛容性があったからに違いない。
だからこそ、安全・安心も生まれたのだろう。
そこに日本のアイデンティティがある。
真反対になっている今の日本・・・
おおいに古代に見習いたい。
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genre : 心と身体
冬、立冬のころ⑧・・・いのちの源
現在の場合とで、
ますますしなくなった、できなくなったことがあります。
それは、日々のアドバイスや受験指導で
「不安や恐怖をつかう」ことです。
そういうことを、ほぼしなくなりました。
「ほぼ」と書いたのは、
自分では、100%していないつもりでも
聞いた相手によっては、「不安」ととらえられることもあるだろうし、
本当に悪いことをした時は叱っていますので、
こればかりは、私一人で断定できるものではないからです。
ただ、断言できるのは、受験に関しては
ほんとうに「不安・恐怖」というものは0に近い状態で
保護者の方にも生徒にを接するようにしています。
もちろんデータがありますので、
あまりに無謀な場合はきちんとその旨を伝えます。
ただ、受験というのは、ある程度の不安が残る場合がほとんどです。
そんなときでも、「大丈夫」といつも声をかけています。
会社員のときも、他社の塾人ほど
「不安・恐怖」でむやみに生徒の尻を叩くということは
していなかったと思います。
これは、たまたま他塾の説明会や模試を受けた生徒と保護者が
その塾人からかけられた言葉を教えてくれましたので、間違いないと思います。
しかし、経験者として語りますが、
会社員として子供に接している限り、大なり小なり
どうしてもノルマやその塾人(校舎)の成績に影響しますので
本当の意味で「操作」や「不安・恐怖(脅し)」のような手法から
塾人自らが完璧に解放されることはないのだと思います。
そういった意味で、今ここで塾人として
子供たちと接する機会を与えていただいたことは
わたしにとっては実にありがたいことなのです。
文字通り、わたしのいのちも救われています。
「いのちあるものがいのちあるように」
人生の拠点がこちらに移ってから
私の最大のテーマはこちらになりました。
日々の勉強・進路・経済・医療・・・
子供が将来関わるであろう全てにおいて・・・
助言もアドバイスもすべてこのフィルターにかけるようになりました。
昨日、銚子川の映像を挙げましたが、
その映像を見ていて思ったことがあります・・・
それは、いのちが育まれる源流のようなものがあるとすれば
それは、「安心」と「多様性」なのではないかと思うのです。
これはきっと受験という人間のなりわいにも言えることではないかと・・・
(本来、受験そのものも不要ですが・・・)
たしかに、ウナギが産卵を終えたアユを食べたり、
アサヒアナハゼがビリンゴを丸呑みするシーンがありましたが、
それは「弱肉強食」という言葉ではないと思うのです。
まるで、あぶなっかしく壊れやすい生卵を持つ5本の指・・・
そうやってこの自然界、宇宙はできているのではと思うのです。
親指は短いが力がある・・・
小指は力がないが、なければ
微妙な力加減、バランスが取れない・・・
ましてや、小指がなければ、
手のひらですくうときの
独特の丸みを帯びることはない・・・

「多様性」・・・そういう言葉の方がわたしにはしっくりくるのです。
この町ではすぐに、T高、N高を目指せという大人がいますが、
それは、いのちの源流の「多様性」ということを無視しています。
それが証拠に、これだけ塾産業が活発な三重県なのに
なぜ、T高、N高などの上位進学校に行く子が
増えて増えて仕方がないという状況にならないのでしょうか・・・
それどころか、中3人口の半分にもなっていません。
子どもたちのいのちが元来
「多様性」という性質を帯びていて
自ずとそちらへ向かうからではないでしょうか・・・
自然界は、エサの藻が発生するという「安心」な場があれば
上流を目指す川アユもいれば、
下流にとどまるシオアユもいるような「多様性」を見せるのです。
また、「せめてそのぐらいの高校に行かなければ・・・」という方は、
その子が万一、その「せめて」の高校に行けなかったときの
大きな挫折感と劣等感を想像したことがあるでしょうか・・・
いのちの源流である「安心」を犠牲にしてまで、
無理な鋳型をはめる必要があるのでしょうか・・・
もう一度考えてほしいのです。
自分が選んだ道を行ってもいい・・・
親はそんな自分を認めてくれている・・・
そういった「安心」と「多様性」を許された子供は、
やがて、必然と「好奇心」というアンテナを伸ばします。
「挑戦」という言葉に置き換えてもいいです。
長良川の河口堰にせき止められたアユと
銚子川の汽水域から勇気を出して遡るアユ・・・
どちらが「いのち」なのかは
もう言わずもがなです。
子どもたちも同じです。
この「安心」と「多様性」を認められてはじめて
「好奇心」と「挑戦」という力強い旅に出かけられるのです。
「いのちあるものがいのちあるように」
わたしの塾では、日々のまなざし、助言のすべてを
そういう「自然体」の進路(受験)につなげていこうと思っています。
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