あなたの努力はなぜ報われないのか?
努力も能力も ただの運
「努力すればあなたもできる!」
これは本当なのだろうか?
小学校の学校の体育で
やればできるの理想の元、
鉄棒の逆上がりをずっと残されてやっていた子がいた。
すでにできた子は、
得意げにそのそばを通り過ぎていく・・・
そんな風景を誰もが経験していると思う。
体育では、得手不得手を
すんなり認めることができるのに、
なぜ「学力や努力」にはその視点がないのだろうか・・・
先日のメンタリストDaiGoさんの問題発言の根幹は
実はここにあると思う。
彼はこう言った。
「自分にとって必要ない命は軽いんで。
だからホームレスの命はどうでもいい、
どちらかっていうといない方がよくない?
ホームレスって、言っちゃ悪いけど、いない方がよくない?」
「(批判している人より)はるかに
税金を払っているので僕の方が助けている」
今の日本のシステムでは、
税金を多く払う人=多くを稼いでいる=優秀という暗黙の了解がある。
また、一般的に
高学歴の人の方が優秀な大学に行けるし
就職も恵まれるし、事業も起こすので
税金も多く払うことになる。
つまり、彼が言っているのは、
「努力もせずに働いていない奴はいらない」
「僕は税金をたくさん払っているから偉い」
「だから、僕が いる命といらない命について
好みを言って何が悪い」
「努力しない奴に自分の税金が使われるのは腹が立つし、
自分のことを批判している奴も、
僕よりも税金を払う額が少ないんだから
何かを言う資格はない」
ああ、
書いていても
本当に気分が悪くなるのだが、
では、私たちの社会全体に
彼の語る闇はないのだろうか?
要は、
「努力しないやつは生きる資格がない」と言ってるのだが、
生きていい云々まで行かなくても
「努力しない奴は、ろくでもない奴だ」的な
思想がないと言えるだろうか?
わたしは、あると思う。
「○○高校いかないのならお金は出さない」
「せめて○○高校いけるようには努力してもらわないと困る」
「勉強しないんだから自業自得」
これらの言葉はすべて
わたしがこれまで親御さんから実際に聞いてきた言葉だ。
この、追い詰めていくような努力信仰は、
はたして「いのち」視点で正しいことなのだろうか?
わたしはかねがね、
学力や能力と将来の収入を
比例させるのはよくないと思っている。
良くないというのは、
努力そのものを否定することではなく
どうしても努力では埋まらない一人一人の差があること、
努力でさえ、向き不向きがある子供がいること、
そういう子どもたちが一定数いることを
体感と経験で分かってきているからだ。
努力は尊い、だから、努力しないやつは悪い的な
一方的なジャッジは、
実は最近の研究でもお門違いだとわかってきている。
➡学力はほぼ遺伝で決まる-行動遺伝学の残酷な事実
実は、
学力や能力はほぼ遺伝子で決まる。
しかも、人には、努力遺伝子の有無があることがわかってきているからだ。
つまり、
できるできないは遺伝子よって決まるし、
どんなに努力をしようとしても
努力できない人もいるということだ。
それなのに、そこで評価や将来の待遇は決まるというのは
残酷と言わざるを得ないということだ。
これは、差別と呼んでもいい。
つまり、
人種への差別
性別への差別
生まれ持った貧富の差別などと同じように
個人のそれこそ運であり、オリジナルなのだから
(能力に関係のないことだから)
そこをもってして生きやすさや生きにくさが
生まれてしまう社会にしてしまうはまずいということだ。
「努力は報われないときもある」
「そもそも努力できない人もいる」
➡残酷な「遺伝の真実」あなたの努力はなぜ報われないのか
とても残酷な事実だが
わたしは結構朗報な気がする。
なぜなら、
「やればできる」
「努力すれば必ず成功する」
と謳われて永遠に苦しむ「努力できない子供」を
解放してあげることができるからだ。
これは怠惰とかそういう問題ではない
もともとできないのだから
早く自分の生きる道を方向転換し、
「本当のそれぞれ」見つけることに注力できるからだ。
もう一つ、
周りや、社会的システムが、
彼らをカバーしていくシステムを発展させられるからだ。
国でいうと、アメリカは個人主義だから
「努力しないやつが悪い」的なシステムとなっていて
社会的システムが薄いらしい・・・
逆に、ヨーロッパは
「努力できるかどうかは遺伝だから、単なる運」
ということが浸透しているので
社会的システムでカバーしようとするらしい・・・
今の日本は、明らかにアメリカ寄りの考えが根底にあって
学校・社会だけでなく、親御さんさえ
「努力しないやつが悪い」的な思想で子供の尻を叩く。
わたしは何も、
すべて遺伝だからあきらめましょうと
言っているのではない。
その子がその子になれる教育・・・
もちろん私も日々模索中だが、
そろそろ そう発想を変えた方がいい。
親がよく使う言葉、
「頑張ったらできるのに・・・」
「頑張ったら助けてあげる」
これをもし、
努力できない遺伝子を持った子供に言い続けたとしたら
実はメンタリストDaiGo氏のように
ものすごく残酷な仕打ちをしていることになるのだ。
「社会の強さは、最も裕福なメンバーの富ではなく、
最も脆弱な市民がどれだけうまく対処できるかによって測定されます。
私たちが尋ねる必要がある質問は、
誰もが尊厳のある生活を送る機会を持っているかどうかです。」
フンランドのサンナ・マリン首相
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努力は必要か?②
権威への服従なので、
心が勝手に敵意(憎しみ)を作り出す。
それはどう言うことか?
例をあげよう・・・
もう大分前の生徒さんだが、
親子げんかが勃発した。
その子にとっては
自分の存在意義が壊されるほどのけんかだった。
その流れで塾にきたその子は、
こう私にいった。
「いい成績取って、お母さんを見返してやる!」
私は穏やかにこういった・・・
「それはやめとき。動機がすべて。
その動機で仮に成績が上がっても
あなたは幸せにはなれないから」
もし、仮にその子が、
この憎しみが原動力で成績が上がって、
母親からの優越を勝ち得たとしても
その子の根っ子の自己肯定感は
母親への憎しみで支えられることになる。
その瞬間だけは、優越に浸れても、
それは、長続きしないし、仮に長続きしても、
その子は一生その憎しみから解放されることはない。
解放されないばかりか、
かえって自分の存在を保つために
憎しみが手放せなくなる。
憎しみがその子の自己肯定感を支えることになるからだ。
もうこれは、心か身体の病になるしかない。
やがて、その憎しみ、敵意は、
その子の人生の最大の障害となる。
劣等感も同じことだが、
この例から見るように、優越感の方がもっと厄介だ。
「優」はある種の打ち負かし感があるので、
その不健全さに 本人がなかなか気づかないからだ。
私がいつも、優越感も劣等感も同じ病だというのは、
そういうことだ。
一昨日の音読会の花結び・・・
今でしょ!の林先生の言葉が出てきた。
「努力は裏切らないって軽々しくいいますけど、
補足してあげる必要があるんです。
正しい場所で、正しい方向で、
十分な量なされた努力は裏切らない。
(林修:塾講師・作家)
わたしはここの一番最初に
「正しい動機で」を付け加えたい。
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努力は必要か?
あのT桜のTさんがインスタを通して
久しぶりに現れてくださいました。
本当に偶然だったのですが・・・
やはり、そうなんです。
そうなっているんですね。
そうなってるんだ・・・というものに理屈や証明はいりません。
わたしが、すべてがわかってるのではなく、
むしろわかっていないので
神様がこうやって現象で見せてもらえるのです。
だから私は、現象で分かったことを
皆さんにお伝えしているだけです。
「ああ、そうですか・・・」とクールに受け止めたり
「ああ、そうなんですね!」と感動で受け入れたり
「そんなことは気のせいだ・・・」と思われたり
人それぞれでしょうが、
その人それぞれが大事なのも事実です。
この「人それぞれ」が、いまの世の中本当にできにくい・・・
その人は、「そう」できているのに・・・
それには理屈も証明もいらないのに
無理をしてそれを変えようとしても
互いが徒労に終わるだけです。
その「そう」に気が付くこと・・・
人生を楽にするコツです。
継続の反対の一つは、「中断」ですが、
中断だって時には大事なんです。
戦国武将は、敵を攻める時
攻める作戦より、退却するときの作戦を念入りにしたといいます。
いのちがかかっているのですから当たり前です。
でも我々現代人は、「継続は力なり」という努力目標の言葉を
あまりにも崇拝しすぎてしまっていて
「中断」を忌み嫌う・・・
わたしなど、学校の部活を辞めたいけどという生徒に
辞めていいんじゃない・・・
というときがあります。
内申に響くとか
やったものは途中で投げ出したらダメとか
そういう道徳的なことよりも重要なことがあります。
それは、その子の「そう」がどこにあるかです。
私たちは、その子の「そう」を発見できないので
通り一遍の道徳を振りかざして、安心しようとするのです。
また、発見する努力を怠っているだけかもしれません。
その子の「そう」がいのちです。
それが輝いているか・・・
努力は万能ではありません。
努力 < 夢中
「夢中」は「努力」に勝てないからです。
だから、夢中になれない努力は
撤収した方が身のためです。
もちろん、文字通り、人にもよりますが、
たいていの場合は、無理して努力を続けても
いい結果にはなりません。
その子の
わたしの
「そう」
それが、努力よりも、いのちに近いものなのです。
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令和buzz275・・・努力いう名の闘いをやめる
皆さんはなんと思われますか?
努力は必要!
努力は大切!
努力は報われる!
そう思われるかもしれません。
では、闘いが身を滅ぼす・・・
これはイメージがわきやすいでしょう。
神秘家であり、教育者である
クリシュナムルティは、
努力と闘いは同じことだといっています。
ここには私たちに深い示唆を与える
哲学が含まれています。
闘いがいらないのはわかります。
でも、本当に努力はいらないのでしょうか・・・
わたしは、中学の時、確かに勉強が好きでした。
そして、努力もしたと思います。
しかしそれが、無駄であったとは思えません。
ソフトボールもかなり努力しました。
確かに肩を壊して、
続けることをやめざるを得ませんでしたが
それでもそのお陰で・・・がたくさんあります。
(肩を壊すほど努力をしたので、
身を滅ぼしたといってもいいかもしれませんが(笑))
努力には二種類あると思うのです。
喜びの努力・・・
闘いの努力・・・
クリシュナムルティは、
後者の努力から離れよと言っています。
それは、私たちを滅ぼす努力だからです。
さらにその努力は、かえって社会から評価を受けてしまい、
「もっと多くを」「もっと上を」とささやきます。
そこにはキリがないのです。
また、努力をしないでいい領域に達しようと
躍起になることも、喜びを失うことだといっています。
これも努力(闘い)に囚われているからです。
努力(闘い)から自由でいる領域は、
優越感や劣等感のない領域です。
➡劣等感、優越感の正体
何かであろう
何かになろう
自分の矛盾した欲望に橋を架けようと闘う行為・・・
それを努力(闘い)というのだと言います。
私はこのことを読んで、
「ああ、まるで月の欠損だな」と腑に落ちました。
今日の宙言はご要望通り
みなさんと月の欠損を深めたいと思います。
わたしたちのいのちに繋がる努力は、
きっと努力とは呼ばないのでしょう・・・
喜びなのでしょう・・・
一方、
挑んでも届かない欲望
挑まなくてもよい欲望
身を亡ぼす欲望
そういった欲望に
やみくもに努力することを闘いというのです。
学校でも会社でも、
まずこの月の欠損を
認めるところからはじめてはどうかと思うのです。
「ありのまま」と「あるべき」を埋めようとせず、
ただその子の事実を観察する・・・
欲するのではなく
ただ観察する・・・
この行為が、唯一
互いの心を安寧にする方法なのでしょう。
今日も学び、観察したいと思います。
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theme : ありのままの自分になるために。
genre : 心と身体