秋、処暑のころ⑪・・・玄徳の習得(5)
マズローは・・・
「自己実現者」を調査するにあたり、
300人の健康な大学生から
面接調査で被験者を選ぼうとしたが、
満足できる者が1名しかおらず、
リンカーンやルーズベルト、
アインシュタインやスピノザ、シュバイツァーなど
被験者23名中9名の歴史上の人物をサンプリングに加えた。ーWikiよりー
まず、被験者が23人というのも少ないが、
その約40%を一般人とはかけ離れた人物というのはいかがなものか・・・
人選があまりに恣意的だったため、
一般人に当てはめるのは困難と批判もうけています。ーWikiよりー
マズローは「自己実現者」は、
わずか1%しかいないというが、
わたしには、
わずか1%の人間が、99%の人間を支配している
世界支配構造を説明しているの過ぎないと思ってしまうのです。
1%は、永遠に30%になったり
80%になることはないのです。
よくあることだが、
世に出る学者のなかに
世界金融資本家からのお墨付きをもらった学者が多く
支配構造をあらかじめ肯定させるために現れるかたも多い。
この実証でもなぜこういう特殊な人物をとりあげるのか?
マズローの5段階欲求をつくることで
下位と上位を分け、
「自己実現」もどきの商品(スピ系、お金系など)をつくり、
昨日の記事のように、自己と他者を分離させ
共存させないためのものなのでしょう。
自然界を見てください。
森羅万象、「自己実現」の欲求をもって
存在しているものがあるでしょうか・・・
つまり、自然界には存在しないこの「自己実現」は
実は、幻ではないか・・・
その幻を輝く頂として目標にする我々現代人は、
まるであり得ないユートピアを目指すごとく
人生のエネルギーもお金も費やしていることになります。
それはもう、滑稽としか言えない。
あり得ない幻を追いかけたり
実現できないと劣等感を抱き
うつやひきこもり、
自己喪失になる必要はないのです。
「欠け」ていていい、
「できなくて」いい・・・
そう笑って等身大の自分と他者を歓迎し
互いに補完し合い、笑っていきることはできないでしょうか・・・
そう思うのです。
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秋、処暑のころ⑩・・・玄徳の習得(4)
「自由」と「平等」は決して共存できないジレンマがあります。
ときに、ある人の自由は、
別の人の不自由を作り出すことになるからです。
たとえば、会社で有給をとる自由が与えられていますが、
その有給は、別の人の仕事量を増やしたり
代わりに自分の仕事をしてもらわなければいけない人が出てくるものです。
また、人間の経済発展の「自由」は、
自然界の動植物の不自由、森羅万象の破壊をもたらします。
そういう意味で一見耳障りのいいことばを二つ並べてみると
決して同時に相容れない問題が発生することはままあります。
そのことは、「自己実現」とその下位の欲求が
自己矛盾を起こすことと似ています。
例えば、ジョン・レノンは、
まぎれもなく「自己実現」を果たした人に入るでしょう。
しかし暗殺され、安全の欲求を満たすことはできませんでした。
名優とよばれる人の子供が問題を起こして逮捕されたり、
家庭が崩壊してしまうことはよくあることです。
まるで「自己実現」のかわりに
「愛と所属の欲求」が犠牲になっているようです。
一人の人間のなかで、こういった自己矛盾を起こすことはもちろん
前述したように、他者との関係でもこの矛盾は起きます。
もちろん親しい人の間柄では、「協力」で事足りますが、
全くの見ず知らずの間柄や地球の表と裏では、そうもいきません。
経済発展したある国の汚染物質が
対流や海流にのって他国を汚染するのは
実に身勝手な「自己(国)実現」といっていいでしょう。
私たちの欲求は、直線的、階層的に、
自他同時に叶えられるものではないのです。

(図は、「マズローの欲求5段階説をこの上なく丁寧に解説する」より)
それに加え、マズローのこの理論には
「実証」段階で疑問点が投げ掛けられるいるのも事実です。
つづく・・・
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秋、処暑のころ⑨・・・玄徳の習得(3)
楽しみながら歩む時代をつくったほうがいいと思います。
どこかいつも不機嫌な人をみているとよくわかるのですが
それは、自分の些細な自己表現・自己実現(やりたかったこと)を
さまたげられることに、イラつき、騒いでいるのだと思うのです。
マズローの自己実現は、何らかの「個人の能力」が
それまでその人が達しなかった充実した領域に達したことを言います。
「個人」が有能なので、
「能力」を発揮でき
到達したと思っているので
「個人の能力」がそうさせたと思っているのです。
ですから、仮に何らかの問題が起き
その域に達しないことが起きる(自己実現を妨げられる)と
この「個人の能力」が妨げられたとイラつくのです。
この良くない状況は
自分のせいではなく
人のせいだと暴れる(笑)のです。
成功も失敗も個人の能力に属していますから
仮に、良くないことが起きたり、失敗すると
「これはあいつのせい」
「これはわたしのせいではない」と
自他のライン引きが始まるのです。
野球で言えば、エラーした野手にイラつく投手に似ています。
しかし、よくよく考えれば
「能力」は、個人には所属していないのです。
なぜか?
発揮できる「場」があり、喜んでくれる「人」がいて
そして、それらを「共有」できたとき
はじめて人は「能力」を発揮できるのです。
だから、本当に「自己実現」(あえてこの言葉を使うとすると)した人々が
口々に、他者や場への感謝を述べるのは
そういう人たちは、「能力」や「個性」は個人にはないことを
本能的に知っているのかもしれません。
そういう意味で「能力不足」・・・つまり「欠け」を
ダメなものとして脅迫して支配する関係は
もともと不完全な人間には合わないし、
そろそろ終わりにしてもいいということです。
これからは、
エラーはつきもの・・・
打てないのは当たり前・・・を前提に、
ともに試合(人生)を作っていくのを「常」とした方が
はるかに楽ですし、楽しいはずです。
8軒に一軒が空き家・・・
発達障害が5人に一人・・・
2030年に3人に一人が65歳以上の日本・・・は
まさに「欠け」の時代・・・
青春期の光り輝く「自己実現」という言葉で互いの首をしめるより
そろそろ互いの「欠け」を輝かせようではありませんか・・・
欠けてこそ 『完全』(まる)・・・

この世の中・・・
「○にとらわれた心では、
○を描くことは出来ない」
ということです。
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秋、処暑のころ⑧・・・玄徳の習得(2)
マズローが最高の人間欲求としていた
この「自己実現」は、近代の土壌で生活をする人間にとって
とても魅力的です。
わたしがはじめて、マズローのピラミッドに出会ったのは
たしか、高校生の「保健」か何かの時間だったと思います。
私も例に漏れず、この「自己実現」という言葉に魅了されていました。
そのときは、「自己」とは何なのかも
わかっていなかったにもかかわらずです(笑)
いまでもそうですが、マズローの本意に関わらず、
このピラミッドが一人歩きしてしまっているために
この「自己実現」がまるで
輝かしい人間の最終ゴールであるかのように君臨しています。
それは、新たに加わった「自己超越欲求」を加え
さらに高くそびえるようになりました。
基準はわかりませんが
自己実現を果たしていないほとんどの人間にとって
それは羨望の対象であり、
達成してると自負している者にとっては、
優越感の種です。
有名な俳優や芸能人、
活躍するスポーツ選手・・・
いわゆる「花形みつる、みつこさんたち」を見ると
達成していない者からすれば
「いいなー」となるわけです。
小学生に「将来なりたい職業は?」とアンケートをすると
必ず上位にスポーツ選手が現れるのは、
子供たちにとって彼らは自己実現し、
夢を叶えた人物に映るからでしょう。
多くの自己啓発セミナーや
お金持ちになろうセミナーや
スピリチュアルセミナーなどにとっては
この「自己実現」は
格好の「馬の目前のニンジン」にもなりうるわけです・・・。
実は、この「自己実現」は「個性」とあいまって
現代人をかえって息苦しく呪縛していることもあります。
「今の仕事は私にあっていない」(自己実現に結び付いていない)
「特に語るような個性がないので、自己実現しにくい」
などです。
また、「自己表現」とごちゃまぜになり
「個性的」なものが「自己表現」できたのだし、
「自己表現」できたものが「自己実現」を果たしていると
みなしている傾向もあります。
だから、目立つことが嫌いで、
自己表現や際立つ個性のないと思う子供たちは
「不登校」や「うつ」「ひきこもり」の遠因にもなっていると思います。
現代社会は、子どもも大人も、
「自己表現」「自己実現」がごちゃまぜのなかで
それが足りていないことがまるで劣等のように
SNSから日々煽りを受けながら暮らしています。
あれができた!
これが買えた!
だれだれに会った!
これこれをプレゼントしてもらった!
ここのランチを食べた!
どこそこを旅した!
さらりと積み上げられた「自己顕示」はどんどん大きくなり
受け取り方の問題でもありますが
「嫌み」と「炎上」がいつも隣り合わせです。
自己実現は、自己表現とあまり関係がないのですが
どうやらそれがまぜこぜになってるのが現代です。
最近の若者がSNS疲れでアカウントを削除するのもよくわかります。
塾の生徒が呟きます。
「最近、ラインしんどい・・・」
要は疲れるのです。
発信側が意図する、しないに関わらずですが、
他者の自己顕示欲と
そこで繰り広げられるコメントの数々・・・
また、その立ち位置のバランスをとるのに疲れるのです。
いつのまにか、わたしたちは「見る人」がいなければ
「自己実現」をできなくなってしまっているのかもしれません。
「見る」「見られる」の分離・対立軸が私たちを縛り、
嫌なのにどんどん離れられなくなることも多々・・・
そのグループが嫌なら離れればいいのに
スパッと離れるのはもっと苦しいらしい・・・
「自己表現」と「自己実現」とがごちゃ混ぜで動く世の中なので
これは余計に苦しい・・・
1943年に発表された
マズローの欲求5(6)段階は、そういう意味で
経済成長が約束された時代であれば輝かしい「頂」になるのですが
現代の私たちにとっては「呪縛」「脅迫」「疲労」の種にもなりかねない・・・
そうわたしは思います。
では、そのの息苦しさを和らげる心構えはあるのでしょうか・・・
わたしは、それは「欠け」を認める心構えだと思うのです。
つづく・・・
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秋、処暑のころ⑦・・・玄徳の習得(1)
「認められたい」という思いが強く顔を出し、
道を誤ることが多くあります。
さらに、「自己実現」をいう罠が
わたしたちの判断を狂わせ
その魅惑に足を奪われ
本来の「自然体」の道を踏み外します。
マズローは人間の欲求をピラミッドにして、
人々に指し示しました。

(図はこちらからお借りいたしました)
(厳密には、階層図はスポークスマンのゴーブルによるもの)
言葉はいろいろと変化しますが、
だいたいこんな言葉です。
6:自己超越欲求
5:自己実現の欲求
4:尊敬・評価・承認(尊重)の欲求
3:社会的欲求 / 所属と愛の欲求
2:安全の欲求
1:生理的欲求
いわゆる5段階欲求と呼ばれるものです。
最近は6段階に分けることが多くなりました。
「マズローは晩年、6段階目を発表していた・・・」
というわけです。
このピラミッドは、
「いわゆる先進国は、とうの昔に、
1・2段階は満たされているものが多く・・・」
そう表現されることが多いです。
いっぽうで、老子が「道徳経」のなかで
「玄徳」という心構えを説いています。
道を目指す者が自身をチェックするための心得です。
玄徳が顕現されると
以下のようになるらしいのです。
・道が生んだものを自然に発展させる
・発展させた相手に指図しない
・人を発展させて指図しない
・深く遠く返った後、順序が戻る作用がある
玄徳とは、徳のさらに奥にある徳で
「道」とほぼ同じ領域のことを言います。
先生や医者や坊主やセラピストと呼ばれる人々が
どちらに立ち位置を置くのかで
全く現象は変わってくると思います。
今日からは、そういうお話を思いつくまま
数話にわたってお話したいと思います。
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