他者貢献と自己犠牲のはざま
世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、
ただ「わたし」によってしかかわりえない。
この言葉は、この本のラストに出てくる哲人の言葉です。
そして、自由なる人生の大きな指針があるという。
それは、「他者貢献」(他人に貢献すること)・・・
ここで気を付けないといけないのが
「自己犠牲」との違いです。
あなたは、自信の経験として、感覚として
この違いを明確に感じることができるでしょうか・・・
一度お時間がある時に
明確に定義を分ける心の時間を持ってください。
たとえば、見返るを求めるのが「自己犠牲」
求めないのが「他者貢献」・・・
貢献してるつもりが
ぐちゃぐちゃと後で文句を言っているのが「自己犠牲」です。
文句を言うぐらいならやらなきゃいいのです(笑)
私は思うのです・・・
人間とは、
この「他者貢献」と「自己犠牲」のはざまを学びとして生きていると・・・
もちろん私もまだまだです。
ご一緒に成長いたしましょう・・・
そして、冒頭の
「世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、
ただ『わたし』によってしかかわりえない。」
を 噛みしめましょう・・・
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theme : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
genre : 心と身体
幸、不幸の紙一重
幸、不幸とは、実は決定的な関連性がない。
悪いことが起きても、
その悪いことばかりを悲観してしまう人もいれば、
大難は小難、小難は無難・・・
といって、難の中の幸運を探すことができる人もいる・・・
また、その悪いことが起きたことで、
こんなことがわかったねと、
これからの人生の教訓にする人もいる・・・
こういう人は、幸せというものがわかっている人だ。
幸せというのは、要は立ち位置のことだ。
その立ち位置は自分が決めている。
事実ではない。
つまり、幸、不幸は
その人の捉え方ひとつで紙一重なのだ。
幸、不幸と事実とを常に関連付けたい人は、
やたらとこう言う。
○○がもらえて幸せ・・・
○○になったから幸せ・・・
〇〇には、単なる物だけでなく、
お金だったり地位だったりすることもある
そういう人は、幸せには原因(事実)が必要と考える。
自分の幸せを「事実」に依存している人だ。
こういった幸せは実に危うい。
○○がもらえて
○○になった
・・・それが叶わなかったときは、不安定になるからだ。
そしてかなわなかったことに悲観する・・・
余談だが、そういった悲観をすぐにSNSに挙げる人がいる。
そういう人は、自分の悲観が、本当は事実に対する悲観ではなく
自分の心の奥底の、自分自身への悲観ということに気が付いていない。
「〇〇に△△されたから悲しい」といってSNSで上げている人もよく見かける。
でもその人は、本当は「その人が嫌い」とはっきりと言いたいところを
○○されたから悲しいとか、
スピ系解釈として、○○を教えてくれるために
私の前に現れたと言ってごまかす。
この「悲しい」と「偽の感謝」は、
言葉を巧みに置き換えられた「大嫌い」だ。
シンプルに大嫌いでいいのに、
大嫌いと言っては自分がよく思われないから
悲しいと言ったり、同情を誘うことで、
コントロールドラマの犠牲者となり
本当の毒気を隠そうとする。
悲観主義は、巧妙に偽装された攻撃性である。 アドラー
その欺瞞や不安定さは、実は自分の心の欺瞞と不安定さで、
自分の存在自体の欺瞞と不安定さだ・・・
その不安の正体は、小さいころ
自分にとって重要だった他者との人間関係における
未解決の課題がことあるごとに顕れる亡霊のようなものだ。
それは、時に
戦い(反抗期)を避けたことだったかもしれないし
自己主張(未熟をさらけ出す勇気)だったかもしれないし
大切な何かを守るための学び(智慧を体現する勇気からの逃避)
だったかもしれない。
それを、親が、環境が、させてくれなかったと言い訳しても
誰よりも自分の心の奥底が知っている・・・
それは、本当は自分に勇気がなかっただけだと・・・
最近読み倒している本がある・・・
以前も上げたこの本・・・
ある人には、鋭すぎて読めない本かもしれない。
ある人は、わかるわかると上っ面を歩くかもしれない。
ある人は、それがどうしたと毒つくかもしれない。

この本を一言でいえば、
自分の無意識に光を当てなさいということだ。
それほど自分の無意識の解明は難しいのだ。
勇気ある人は一度は読んでほしい。
誰もが持つ無意識の闇が日向に出て
痛くても少しずつ消霧する本だ。
この勇気がある人は、きっともう大丈夫だと思う。
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