記憶の中の音とにおい
いつも父母という職人の音とにおいがあった。
12~4才ごろまでの記憶は、
単なる記憶ではなく、
その子の五感、
つまりにおいや聴覚、触感等と
セットで記憶されているらしい。
その頃までのわたしの記憶で、すぐに浮かぶ光景は、
父や母が、注文を受けて仕立てる服の生地のにおいだ。
特に、水を含んだ刷毛で布を掃いたあとの、
アイロンのにおいだ。
ジュワっと、瞬間音をたてたあと、蒸気がモワッと上がる。
ぐっぐっと押さえられながら、
それでも滑るように、アイロンがふわっと浮いている布を押さえていく。
アイロンの滑りが悪いとき、
父はアイロンの底によく蝋を塗っていた。
子どもながらその知恵には感心していた。
父は、器用にアイロンの鉄先の向きを変え、
時折り、襟芯やズボンすそをくり送りながら、
布に命を吹き込んでいった。
私がしたわけではないのに、
背広やズボンが仕立てられていく様をどこか誇らしげに眺めていた。
当時、家の周りは田んぼだらけで、
稲刈りの後は野球をしたりサッカーをしたりしていた。
ある時は、私は、バケツを2つ抱えて
水が張られた田んぼに向かった。
何を思ったのか、
周りの田んぼという田んぼで鳴いている蛙を総ざらいした。
その晩は、周りの田んぼからカエルの鳴き声がなくなった。
それだけ、総ざらいしたのだ。
あの不思議な静寂もある意味、記憶の中の「音」だ。
そんな思い出話を
先日実家に帰った折も二人で懐かしく話した。
そうそう、
その中にはガマガエルもいて、
母は腰を抜かしていたが、
叱りはしなかった。
その晩、そのバケツからほぼすべての蛙が逃げ出し
我が家は大変なことになっていたが、
それでも叱られたという記憶はない。
せっかくの戦勝品に逃げられ少々がっかりしたが、
田んぼという田んぼを
すべてを征服した感があってむしろ大満足だった。
その時の、泥の匂い、あの蛙の生臭さ(笑)
母の苦笑い・・・
そのすべてが絵でも書けるように鮮明に記憶されている。
昨日の物忘れといい
今日の記憶といい・・・
脳がつかさどる記憶とは、
単に あるかないかではなく
何かとセットで入っていたり
何かとセットで抜けて行ったり・・・
実に演出豊かな面白い機能だなと思う。
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