ごんぎつね、再び
ふと新見南吉記念館に行きたくなりました。
前々から行きたかった場所ですが、
こういったふらり旅は
善は急げです・・・
偶然、本当に偶然
この記念館はさくねんの11/7~改築工事中で、
昨日の1/4がリニューアルオープンだったのです。
しかも新見南吉生誕110年・・・
こういったお導きは、
そうそう狙えるものではありません。
ちょうど、先日見たストップモーションアニメ特集をやっていました。


なんとこの作品は、
2年半もの歳月をかけて作り上げたものだと知りました。
2年半も一つの作品に没頭する念力は本当にすごいものです。
「創作」と人は簡単に言いますが、
こういった本物の創作の前には、
すべてが即席ラーメンに見えてきます。
私が心に響いた言葉はこちら・・・

「手袋を買いに」のラストの母狐のセリフのようです。
そんなことさえ知らずに入った私は、
この新見南吉記念館にほぼ2時間半滞在するほど
魅力的な会館でした。

このポスターの下には彼の詩が載っています。

彼は30歳になる直前でこの世を去ります。
啄木より、自信に満ち溢れ、力強く
賢治より、高らかで現実的な彼・・・
そんな印象を持ちました。

この言葉は、裕福で恵まれた友にあてたのでしょう・・・
羨みながらも、それでもきっぱり宣言しています。
だが一つ無いものがある。
つまり、心の泉だ。
感じて表す力だ。
だから奴は何にもないのと同じだ。
心の泉・・・
感じて表す力・・・
戦時色が濃くなる時代と
戦時中を生きた彼は
おそらく「童話など軟弱だ!」と誹られたに違いありません。
しかも、彼の作品がこの世に認められ始めたのは
彼の死後20年以上たってからです。
さあ
この泉を汲んでくれ
もろ手を出してすくつてくれ
彼の願い通り、
私たちは、彼と彼の作品から
これから未来永劫この泉の恩恵を受けることでしょう・・・
そして、彼の泉を受け取り、
新たな創造を生み出す人間が
連綿と生まれることでしょう・・・
神様がわたしたちに「時間」を与えた意味が
ここにあります。
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ごんぎつね
「ごんぎつね」がTVでやっていました。
➡ごんぎつね、コマ撮りアニメで珠玉の28分 八代健志監督にインタビュー
ごんぎつねは、単に狐の純粋な罪滅ぼしのお話ではなく、
そこにかすかな「欲」が差し込むところが奥深いのです。
兵十のウナギに悪さしたごんが罪滅ぼしに
栗やアケビを届けるのですが、
それを「神様のお陰」と解釈されて
ごんはがっかりします。
だれもが、その人のためにしたことを
かすかに認めてもらいたいという
「純粋?欲」があるのです。
新見南吉のすごいところはそこです。
単なるきれいごとですまさない・・・
その欲でさえ切なさに昇華させているのです。
そして、最後・・・
自分で確かめることを怠り
すれ違いと誤解が生んだ悲劇がラストです。
兵十があと一歩 現状を把握すれば、
この悲劇はなかった・・・
昔話ですが、ここにも
うわさ話や推察だけを信じて
自分の目で確かめることの重要性が何気に隠れているのです。
罪もないゴンたち狐を殺生することで
自分たちの「食」を確保する人間たち・・・
兵十の母の病気のことなど全く知らずに
ウナギにいたずらして川に放ってしまった遊び盛りの 子ぎつね ごん・・・
一体どちらに罪があるのか?
新見南吉は今年生誕110年になるそうです・・・
人間とは何か?
罪とは何か?
南吉は100年以上たったいまでも問いかけてくれます。
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tag : ごんぎつね
樹下石上146・・・永遠のごんぎつね
いつもくりをくれたのは。」
有名な「ごんぎつね」のラストシーン、兵十のセリフです。
うちの生徒が毎回塾に来ると音読しています。
何度聞いても、このシーンが切なくて涙が出そうになります。
生徒の手前、何度かこらえます。
悪さばかりするごんぎつねでも
自分が鰻を盗んだばかりに、
兵十のおっかあが鰻を食べられずに死んだとわかり、
なんとか償おうとします。
お詫びにと、イワシを兵十の家に投げ入れるも
これも裏目に出ます。
なぜなら、そのいわしは盗んだものだったので、
兵十が盗人扱いにされ、いわし売りに殴られてしまうからです。
それにも気がついたごんは
つぎに、栗や松茸を届けるようになりますが、
時すでに遅し・・・
兵十からすれば、
いたずら盗人ぎつねとしかうつっていないため、
まさかごんが栗や松茸を持ってきてくれているとは思いません。
兵十の友達、加助は、栗や松茸を持ってきているのは
神様がそうしてくれているんだといって
せっかく償いをしているつもりでいるごんぎつねを
がっかりさせます。
「おれは、引き合わないなあ」
ごんのこのセリフも
なんだかかわいくて切ないです。
そんな流れでのラストシーンです。
償いをしていたごんとはしらず、
またいたずらをしに家に来たかと
火縄銃で撃ってしまうのです。
わたしは、汚名挽回の機会もなく
せっかくの償いも気づかれずに
殺されてしまうこのシーンの切なさが、
小学生なりに感じられると思っていました。
それがラストシーン・・・
火縄銃の煙に込められています。
「青い煙が、まだ筒口
から細く出ていました」
しかし最近はどうやら違うようです。
以前ネットでも物議をかもしました。
ある小学校の授業後、
この物語をどう思うか・・・
感想文が課題で出されました。
すると・・・
「こそこそした罪滅ぼしは身勝手で
自己満足でしかない、
(兵十はごんの反省を知らないのだから)
撃たれて当たり前 」
その理由は、
「知らずに打ってしまった兵十が一番かわいそう」
ある小学生がこう書いたそうです・・・
私は、これが正しいとか悪いとかを書くつもりは全くありません。
ある意味どんな感想を持とうが自由だからです。
ただ、このごんぎつねには
大人が子供に育ってほしい心があるから
こういう感想が際立ってしまうのでしょう・・・
これは大人のエゴです。
それでも、あえて私が感じたことを書くとすれば、
この感想を書く前の
教師の深め方が不十分だったのでは?
とか
今の大人社会の映し絵として
この言葉が子供から出てきてしまったのでは?
と推察してしまいます。
その映し絵とは・・・
不寛容・・・
私がこのエピソードを読んで真っ先に浮かんだのが
この言葉でした。
間違えた者は
一度も許される機会を与えられない・・・
ましてや、償う機会も与えられない・・・
その子供には
今の大人社会がそう見えているのでは・・・?
そう思ったのです。
間違いをおかさない人間などいません・・・
では間違いをおかしたときはどうすればいいのか・・・
間違いをおかした人にどう接したらいいか・・・
間違いをおかした人に何をしてあげたらいいのか・・・
しかも、この正しい間違いは
立場によって全く変わってくる・・・
そして、いつ入れ替わるかわからない・・・
そして、きっちりとその境目をつけられないことも多い。
また、立場が違うことで生まれる
善悪をどう解釈し、着地点を見つけるのか・・・
その「間」に直面し、心が揺れ、葛藤する場面が人生にはある。
綺麗事ではすまされないこと、
でも、人としての理性を保たなければならぬこと・・・
ごんぎつねには・・・
人間の・・・
本能
無邪気さ
優しさ
冷徹さ
残忍さ
先入観
後悔
承認欲求
生きているうちにしかできないこと・・・
死んでからはできないこと・・・
結論が出ない命題がちりばめられています。
これほどまでに深く考えられる童話はなかなかありません。
だからこそ、ごんぎつねは名作中の名作なのでしょう・・・
わたしは、恐る恐るうちの生徒に聞いてみました。
「最後はどう思った?」
・・・・・
「ごんがかわいそう・・・」
良い悪いは別として、
思わずほっとしているわたしがいました。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
tag : ごんぎつね