秋、霜降のころ⑬・・・父を偲ぶ
召天者記念礼拝とは、
教会でお葬式を上げた人々を一年に一回偲ぶという会で
仏式の○○回忌みたいな式典だ。
仏式と大きく違うのは、
何月に亡くなろうとも
全員をこの日に偲ぶ式となる。
そして個人ではなく、亡くなった方全員を偲ぶ。
亡くなった方の遺影が飾られ、
普通の礼拝があり、それにすこしの聖餐が加わり
牧師さんが亡くなった人たちをご紹介して終わり・・・
だいたい、一時間半ぐらいで終わる。
費用は普通の献金程度・・・
神社の賽銭程度でも構わない・・・
式も費用も実にシンプルで、
無信教の私にぴったりの式次第だった。
もちろん、キリスト教にも疑問点はいくつかある。
しかし少なくとも
葬儀や法事に関してはとても自然な感じがする。
死者をしのぶのは、遺族の心しだい・・・
だれのこころが主役かわからない
仰々しい式よりよほどいい。
父も形式ばったお金のかかることが大嫌いだったので
本当にすがすがしい気持ちになる。
この世には、無駄な儀式が実に多い・・・
儀式が無駄になるのはなぜか・・・
それは、「こころ」が伴わないからだ。
こころが伴う儀式は「かた」という本来の役目を果たす。
「かた」とは、目に見えない「か」(宇宙のエネルギー)を
この世に「かたち」に具現化する装置となるが
こころが伴わない「かた」は
単におっくうで滑稽だけで、役にも立たない。
その典型が「国会」だろう・・・
実は私たちにもその「かた」は備わっている。
それが、「立ち居振る舞い」と「言葉」と「思考」である。
今、あなたが、わたしが
何を考えたのか、何を言ったのか、どうふるまったのか・・・
それはやがてこの世に具現化する・・・
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
マザー・テレサ
今日も一日、美しい言葉で・・・
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秋、寒露のころ⑬・・・か・かた・かたち
それは、いのちが生まれるところだ。
そして、その時に書いた渦の正体がわかる本に出会った。


(四角内のか・かた・かたちは管理人加筆)
ちなみに、イスラムのスーフィズムの祈りの儀式で円舞をしたり
ろくろで土を回すと活きた器ができるのはこういう原理だろう・・・
わたしはいま、自然体の受験を目指している。
受験や勉強そのものは、「狂科」にすぎないが
それでも、受験がいますぐ消えるわけではない。
ならば、彼らのいのちが
より自然体で過ごすことができる・・・
もしくは、自然体をつらぬける受験というものがないか・・・
そういうことを模索している・・・
もちろんそれは、努力を要しないとか
さぼればいいという単純なことではなく
それこそ、自分が呼ばれている高校や大学に
いや、もっというと自分が呼ばれている未来へと
自然と向かえるようなそんなアドバイスができはしないかと考えている。
いのちが輝く場が、
たまたま偏差値が高いところで
結果的に偏差値を上げる子もいれば
そうでない子もいる。
そうやって、
その子のいのちが輝く場所をともに探すのが受験(進路)指導と
堂々と言える時代が来ると思っている。
だからそのためには、
そういった指導は、宇宙の真理なのだと
裏付ける理論がないか探している最中である。
今回その根拠一つ、大きな一つに出会えた。
以前、医療と教育は同じ末路をたどるといった。
それは、こういうことだ・・・
これだけ病院が増え
医者にかかる人が増え
医療費もうなぎ上りなのに
なぜ病気がなくならないのか・・・
それは、医者が、病気には目を向けているが
健康(いのち)には目を向けていないからだ・・・
それと同じように、高度経済成長期より
これだけ中小大、さまざまな塾が乱立されているにもかかわらず、
いわゆる偏差値の高い高校へ受験ができるようになる生徒が
なぜ多く生まれないのか・・・
80%、いやせめて、半分の50%を超える数になっておかしくない。
そうなれば自然と偏差値が高い順に定員数も増えて当たり前である。
しかし、現実はもう何十年もたっているのにそうなていない。
これはどういうことか・・・
(ここからは、仮説・・・)
それは、塾は生きた教科を扱わず
死んだ狂科を扱ってるからだ。
生き生きとした子供のいのちに
死んだ狂科は入っていかない・・・
そもそも、勉強と、それにまつわる活動のほとんどが
子どものいのちにそぐわないからであろう・・・
(仮説おわり)
人のからだは進化するようにできている・・・
わるいことがあれば、
自分で治す力が体には備わっている・・・
医者も教育者もそれを手助けするだけだ。
なのに、いっこうに日本が、
偏差値か高くなって仕方がない(天才続出!?)
という子どもばかりにならないのは
どうしてだろう・・・
それは、なにかがずれているからだ・・・
がん患者に対して、
抗がん剤や放射線治療、手術を施しても
ガンがなくならないのは
そもそも、その治療が間違っているからだ…
教育も同じ・・・
まちがった導きをしていれば
成績に対するとらえ方が歪み
「自殺」や「いじめ」・「劣等感過多」など
いのちを削る結果になる・・・
わたしはこのずれに対して、
堂々と こういう理由なんですといった根拠を示し
日常をほぼ勉強のみで子供の力量をはかる大人や
それを求める窮屈な指導に一石を投じたいと思っている。
私たちの仕事は、医者ではないが
いのちと向き合っていることには変わりない・・・
医者は文字通り、生死を左右するが、
教育に携わる私も、
「生きながら死んでいる」子どもになるような指導は罪である。
子どものいのちが輝く先へとそっと
背中を押すだけである。
勉強が好きな子はいい・・・
でも勉強が嫌いというだけで生きにくい未来になるのは何かおかしい・・・
大人の良し悪しの基準がお金(給料)になるように
子どもの良し悪しの基準が勉強・・・なのか?
そうなっていることへの違和感がこの世から消えていく・・・
もしくは自分で消せるほどのエネルギーを・・・
子どもたちに授けられたら・・・
わたしの日々の言行や与えられたこの場が
いのちを生み出す「かた」になれたらと
こころから思う。
いまは、零細塾の塾長のたわ言と笑っていただいて構わない。
でもいつか、
樹木希林さんのような年齢になったら
堂々と、飄々と言えるように
地力をつけていきたい・・・
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夏、小満のころ⑯・・・詩歌のちから
明日から、「芒種(ぼうしゅ) 」です。
「小満」のなごりに、今日は「か・かた・かたち」のお話・・・
常々、私が思うことがあります。
最終的に事実や心情を伝えられるのは、詩歌しかない・・・
そういうことです。
写実的なドキュメンタリーだけでは、
肝心なことが伝わらない場合がある、ということです。
詩歌には、エネルギーの行き来が生まれる場があります。
最小限に削がれた言葉の中だからこそ生まれる磁場があり、
そこで、詠み手(作り手)と読み手(作品に触れる側)の
いのちが行き交うのです。
若いころ、ある私立高校の教員を
一年だけさせていただきました。
その高校は、いわゆる偏差値的にはあまり高い高校ではなく
生徒の中には、劣等感や家庭の事情から
荒れる子が少なからずおりました。
いつもどこか投げやりなその子たちが
自分を肯定的に認められるようになるには
どうしたらいいか思案しました。
たどり着いたのは、毎日生徒たちが帰った後、
ある詩人の詩を 後ろの黒板に書き写すことでした。
その方は、須永博士さん。
(ソフトボールの上野選手もこの詩集に励まされたと
動画で見たことがあります)
詩を選ぶとき、その日その日に、
落ち込んでいる生徒の顔を思い浮かべながら
その子に向けての手紙のように書きました。
ある朝、教室に行くと
「先生、この詩わたしに向けて書いたでしょ。」
そういってきた生徒がいました。
ドンピシャ正解でした。
わかるんですね・・・
詩歌にはそういう力があります。
そこで、冒頭の「か・かた・かたち」のお話・・・
この「か・かた・かたち」は、
人間の「認識プロセス」(とらえる)と「実践プロセス」(やってみる)を表す言葉です。
建築家の菊竹清訓氏が1969年に提唱した理論です。
認識のプロセスは〈かたち〉→〈かた〉→〈か〉の順に
実践のプロセスは〈か〉→〈かた〉→〈かたち〉という順に・・・
そうやって段階を経るという理論です。
そして、この二つの流れは
らせんを描くように立体的に循環する・・・
そういう考え方です。

なんのこっちゃと思われるでしょうが
私なりに簡単にいってしまえば、
〈かたち〉・・・目に見えるもの
〈かた〉・・・目に見えるものと見えないものをつなぐ「空間」「依り代(よりしろ)」
〈か〉・・・目に見えないもの
弓道、茶道などの芸道に〈かた〉があるのは
目に見えない何かとつながりたいという人間の心が
「道」になったからではないかと思います。
またこれは、芋虫が蝶になる過程ともよく似ています。
さなぎの中で、芋虫のからだはほとんどすべてが溶けて、
さらに全くはじめから再構築(蝶)し、空へ旅立ちます。

今回お話した生徒たちは
〈かたち〉・・・須永博士さんの詩を見る
〈かた〉・・・須永さんが描いた世界を自分の感覚でとらえる
〈か〉・・・須永さんと自分の感情との共通点を見出す
🔄
〈か〉・・・共通点は「いのち」だと気が付く、自分の根っこに気が付く
〈かた〉・・・自分の感情や存在を肯定的にみようとする気が起こる
〈かたち〉・・・自分の行動をあらためてみたい、やってみようと前向きになる
校則がどんなに厳しくても
子供たちを変えることがないのは
そういった「立体的な間と流れ」がないからです。
たった一つの詩が
生徒たちを変え、人間に勇気を与えるのは、
〈かた〉という「詠み手(作り手)と読み手(作品に触れる側)のいのちが行き交う場」が存在し、
そのらせんの頂点で、そのいのちが次の〈かたち〉へと昇華するからです。
理屈では語れない詩歌・・・
学校の国語の詩歌で正解が一つなのは
とても残念でなりません。
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