十年、をちこち・・・61
つながったから、どうのこうのを期待するのは
私は何か違うと思います。
-意見には個人差があります-
流れの中で結果として
ご縁が売り上げとなることもありますし、
それはそれで本当にありがたいことですが、
ご縁が連れてくるのは、
なにも「円」だけでなく
「気づき」「暖かさ」「振り返り」
「智慧」「勇気」「喜び」など目に見ないものです。
そして、
その時は「なぜ出会うのか」がわからない
ことのほうが多いです。
この10年、手作り市やお店を通して
本当にいろいろな方に出会いました。
ほんとうのご縁をたくさんいただきました。
ありがたいことです。
ただ、一方で
「ご縁」とほほ笑む人が
逆に、その縁を利用したり、
その縁をご自身の感情や都合で壊す様なども冷静に見てきました。
何か違います。
縁というのは、悪縁、良縁 両方あります。
その悪縁は、何千年スパーンで見た時、
「ただ自分がしたことが返ってきただけ」という
自分の魂の宿題(業・カルマ)です。
自分が蒔いた種を刈り取っているにすぎません。
その悪縁を、
見て見ぬふりをしたり、
すり替えたりして排除し、
都合のいいご縁だけを捕まえようとすることを
総じて「欲」というのです。
挙句の果ては、
「そういうお役目で私の前に現れてくれたのですね」
という、何目線かわからない位置に立たれます。
「円」を「縁」と書いて
何やら違和感があるのはそういうことです。
もっと根本のところでは
「縁」は壮大です。
人が、消そうとして消えず、
生み出そうとして生み出せないのが「縁(えにし)」です。
「円」を「円」として受け止め、
「縁」を自分の都合でコントロールせず、
ありがたくまずは全て受け止める・・・
ですから私は、
「円」を「縁」としてあやふやにすることで
ほんとうの「ご縁」を汚したくないですし、
潔く手放すべき「ご縁」は風のようにかろやかに
過ぎ去らせていきたいのです。
ランチは800円ですし、
ドリンク付きは900円です(笑)
そして、だからこそ・・・
日々の本当のご縁の妙におもわず手を合わせるのです。
人は、天地のつくったご縁を、簡単に
じぶんの我欲でつくり替え、すり替え、
時にはぶち壊していくものなのです。
いえ、壊す力をも持っているのです。
だからこそ人は、「お互い様」と人を許すユーモアと
「言行一致の厳しさ」との両方を持たないといけないのです。
そういう人たちが集まり、笑い声が響く・・・
そういう場を「美」というのではないでしょうか・・・
-意見には個人差があります-
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genre : 心と身体
tag : 「意見には個人差があります」自動詞縁
十年、をちこち・・・51
「年の初めはさだまさし」でさだまさしさんがいうこの言葉・・・
このパロディさを、私はすごく気に入っています。
わたしか観たり、感じたりする世界は
ホント、こんな程度のことだと思っていただければ結構です。
しかし、これを「できる できない」のきばった軸で考えると
すこし深刻な状況が起きることもあります。
「いつから観えるようになってんですか?」
「どうやったら、観えるようになりますか?」
菩薩行(相談行)を続けていると
こう聞かれることがとても多いです。
しかし、これを学校で習うように
教わればできるようになると思うと大変です。
「できない→できる」にしてくれる人を探し始めます。
「3か月間セミナーを受けて、私も観れるようになったんです!」
「○○のおかげで、今はもう闇を抜けてすっきりしたんです!」
「○○さんのセッションを受けて本当に変わったんです!」
高額なセミナーやセッションを受けられた後、
そう意気揚々と報告される方がみえます。
しかし残念なことに、その方々は
ご自身の「直霊」が不在になっていることに気が付かれていません。
その方の視界のみ(狭い一部の空間)が
スポットライトのようにキラキラしており
周りは真っ暗闇です。
「直霊」を乗っ取ったものによって見せられる偽の光の世界を
すべての世界と思いこまされているのです。
「意見には個人差があります」
私たち近代社会で生きてきたものにとって、それほどこの
「できる できない」の世界は
呪縛であり、魅力のようです。
「教える、教えてもらう」
「できる、できない」の二元を行き来しているうちは、
十年、をちこち・・・㊹
十年、をちこち・・・㊺
で書いたように分かれたまま
永久に一つ(自動詞の観る、感じる)になれないのです。
「意見には個人差があります」
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genre : 心と身体
tag : 「意見には個人差があります」直霊