AddCafe 4月の予定表('ω')ノ
十年、をちこち・・・56
世の中でアドバイスをする人は山のようにいます。
友人知人などの個人的な方から
職業にされていらっしゃる方まで・・・
おそらく世の中にはたくさんいらっしゃいます。
職業で行くと
「教師」
「塾講師」
「医者」
「保険業界」
「セミナー講師」
「スピリチュアリスト」
「占い師」
「霊能力者」
というかんじでしょうか・・・
でもその職業をされていらっしゃる方が時々されるのが
相談者を脅して(操作)、アドバイスをすることです。
オレオレ詐欺と一緒です。
「出たは焦らせー♪」
「揺さぶられてる親心~♪」
「失われてゆく平常心~♪」
てな調子です。
「このままでは合格しません」
「今の成績では、〇〇高校は絶対に無理」
「絶対に手術しないといけません」
「このセミナーは3日以内なら半額の60万円です」
「後ろに悪いご先祖様が付いています」
「この名前では、この子は死んでしまうぐらいの大病をします」
「家のここに、これを祀らなければ、家族が大変な目に・・・」
ほんとうにそうでしょうか・・・
わたしたちの未来は、日々の細かな選択によって
電光掲示板のように、
瞬時に「パタパタパタ!」と変わっていきます。
縦糸と横糸でおられる布が
瞬時にその柄を変えるごときです。
ですから、未来は固定されてませんし
誰も未来のことは断定できません。
―意見には個人差があります―
では、なぜこの方たちは脅すのでしょうか・・・
①お金が絡んでいるから・・・
つまり、脅すことでより高い商品を買ってもらいたいから
もしくはご自身も、売り上げを上げるように
会社から脅されている(経営生き残り・プレッシャー・ノルマ)から・・・
②仮に良いことを言った場合、
そうならなかったらどうしよう・・・
メンツが立たないから・・・
つまり、自分の立場を守るために
厳しくないことも、とりあえず厳しいと言っておく・・・
③自分のいうことを聞かないクライアントに
自分の力を見せつけるために・・・
つまり、②に比べると攻撃的な保身です。
こちら、意外にいらっしゃいます。
①②③どれも
ひとからエネルギー(お金、元気)をうばう
エネルギーバンパイヤです。
わたしは子供に、
「脅す大人にはついていくな」
そうアドバイスしています。
アドバイスをする方たちへ・・・
どうか、不安に付け込み、
脅して(操作)アドバイスをするのをやめてください。
どうぞ人間の気持ちを萎縮させることはおやめください。
―意見には個人差があります―
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
tag : エネルギーバンパイヤ操作
十年、をちこち・・・55
sora-piyoは新しい相談行のアイテムを加えました。
2016年3月スタートの
タロットアシャイングです。
特に、ご懐妊されたママに
おなかの中の赤ちゃんのメッセージをお伝えする
ベビータロットアシャイングは、
させていただいている私たちもとても幸せな気持ちになります。
ほんと、赤ちゃんは何でも知っていますね。
はじめてママの・・・
おなかの赤ちゃんと潜在意識で対話することで
産後の親子関係を良好にスタートさせる
ベビー・タロット・アシャイング
なんて 始めさせていただきました。
タロットというアイテムを使ったのには理由があります。
相談行はどうしても私がお話しますので
「私個人からアドバイスを受ける」という感じになります。
もちろん、すべてのアドバイスは
その方の後ろの霊的な存在からのメッセージを
わたしという身体を使ってお伝えするのですが、
どうしても「わたし」というフィルターを通すために
「わたし」という要素が何%かは入ってしまいます。
できれば、皆さんが直接聞ければいいと思いますが、
代弁している「わたし」という個人を超えて
直接そういう存在をイメージできにくい方もみえます。
そうすると、お客さんの中ではどうしても
個人対個人になってしまい、心が緩まない方もみえます。
その方にも生きてきたプライドやこだわりがありますので
なかなかすーっとこころに入りにくくなる時もあるのです。
その点、タロットカードを通すという方法は、
ご自身で出されたカードにそのメッセージが投影されますので
より素直にメッセージを受け止められるという利点があります。
どんなご相談も
解決策はすべてご自身の中にあるので
カードにはその人自身が投影されるのです。
詳しくは、こちら→「脳とハートと体の美しいコラボ・・・それが占い」 にも書きましたのでよかったらお読みください。
この記事は、
ある占い師に対する大きな疑問から書いたものですが、
いま読み返すと、本当に自分が書いたのかな?と思うほど
素晴らしい文です(笑)
たぶん私の拙い脳が書いたのではなく、
何かを通して、自然に書かせていただいたんだと思います。
こうやって私たちは「生きる」のではなく、
「生かされて」 生きていくんですね。
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
tag : タロットアシャイング自動書記
十年、をちこち・・・54
一日一食の食事が
もう食事という形ではなくなり・・・
一日にクラッカー数枚とか
野菜サラダ一皿とか
ごま豆腐一丁とか・・・など
そんな風になっていきました。
一番驚いたのは、
「食べないと死ぬ」と思っていた日ごろの自分の意識が
「食べなくても死なない」と意識がかかわることで
食欲の大半を消すことができる事実を知ったことです。
人間の意識の不思議さを知りました。
われわれが、
自分でつくった意識で自分を縛っているさまを体感しました。
つまり、食欲の正体は、
「食べないと死ぬ」という意識だったことが分かったのです。
これは大収穫でした。
身体の変化も大きかったです。
まず、体から排泄されるものすべてのにおいがよくなりました。
汗、便、尿・・・すべてとてもいい匂いになりました。
当時はダンスもしていましたので、
硬かった私の体が柔らかくなっていくのがわかりました。
知覚も変わりました。
一番驚いたのが、物が落ちる気配を察知して
手を差し伸べて先回りして受け取ることができました。
塾の子供たちの机間巡視をしているときに
消しゴムが落ちるのを何度も手で受け止められるようになりました。
授業中ですから、子供たちの手や体はそれなりに動いていましたので
「落ちる」という気配(波動)は、他の動きの波動とは少し違うのかもしれません。
そして、自分でも驚いたのが、空気の粒子がみえたことでした。
空気中の何の粒子かはわかりませんでしたが
いま、少し調べてみると・・・
仮に、水の分子だとして
水の分子約0.38nm(ナノメートル)(0.1nmとか0.2nmという記載もある)
たばこの粒子約200~500nm(ナノメートル)
※1μmは千分の1mm(ミリメートル)。
だいたい千分の一の粒子をみていることになります。
わたしたちは森林などでマイナスイオンを感じることができます。
おそらく呼吸や皮膚など、体のすべてを使って感じます。
視覚をつかさどる「目」のみで感じることはまずないと思います。
不食をめざすと、「見える」が「観える」に変わるのでしょう。
体重は、十数キロやせ、
見るからにやせ細っていきました。
周りの人や子供は、
「先生大丈夫か?」
「何か変な病気になっているのでは・・・」(笑)
と心配されていましたが、
本人はいたって平気・・・
身体も軽く、すこぶる調子が良くなりました。
結局私は、毎日何かひとかけらは食べていましたので
「完全な不食」にはたどり着けませんでしたが、
いろいろと十分収穫がありました。
そして、一か月ほどの私の不食が終わりを告げます。
ある日、体重計に乗った時の心の声でした。
「このままで大丈夫か?」
この不安と恐れの声ひとつで
すべてが変わりました。
ここから学んだことは、
いかに自分の奥から聞こえる不安と恐れの声が
私たちの行動をいかに制限してしまうか・・・
最後に学んだこのことは
わたしにとっては、ものすごく大きいことでした。
不安、それが自分にどう働きかけるのか・・・です。
そして、
別の見方をすれば、私の体が生命維持のために届けた
不安という装置(役目)だったのかもしれません。
そこからわかることは、
「不安も恐れも決して敵ではないこと」
不安も恐れも
よくぞ出てきてくれたと親しめば
怖いものでもなんでもなくなります。
よくスピリチュアリストが
地に足を付けていないで
不安とか恐れを手放せというのは
そういった意味で少し違うと思います。
やたら目ったら手放すことだけ気張っても
44・45話の振り子の原理と同じで
永遠に「不安や恐れ」から抜けだけないループにはまり込みます。
本当に大収穫でした。
これらの実体験をもとに
子どもたちに言うこともさらに確実に変わっていきました。
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
十年、をちこち・・・53
大真面目になりたかったものがあります。
それは、「仙人」です(笑)
前の会社では、生徒に真剣に話すと笑われたものです。
仙人は、かすみを食べて生き、
なんでも朗らかに対処でき、
何を相談しても智慧が豊富で
会えば元気になる・・・
できれば雲に乗って自由に浮いていたい・・・(笑)
そういう人間になりたい・・・
いまから、十数年前、お店を始める数年前ですが、
肉を食べない生活に変わりました。
その経緯を少しお話いたします。
ちょうど、バブルがはじけ、
のちに失われた十年と言われるはしりのころでした。
その後は10年どころか20年・・・
今では30年になろうとしています。
面談でこのころからしきりにお母さんが
「食べていかないといけませんから・・・」
=成績はそのために必要
という言葉が多くなりました。
時代的に仕方がなかったことだと思います。
しかし・・・
「食べるからだ」をささえるために
高校を考えて、大学を考えて、就職を考えて・・・
そのために成績を上げるのか・・・
何か違うなー・・・
いろいろと考えた挙句、
じゃあ、食べない体にするにはどうすればいいのか・・・
と仙人のようなことを考えはじめました(笑)
そうだ!
自分がまずそういうからだになってみて
お母さんに伝えよう・・・
そう考えました。
ちょっとかわっているかもしれません。
でも大真面目でした。
食欲という「欲」を消せるのだろうか・・・
そう思っていた矢先・・・
ふらっと立ち寄った本屋さんで
衝撃の本「不食」に出会いました。
最近では、榎木孝明さんが有名ですよね。
30日間不食した榎木孝明
遅読の私が、珍しく午前中の2時間ほどであっという間に読み終え、
昼食から少しずつ減食をはじめていきました。
はじめて、しばらくすると
体の、知覚の変化が起き始めました。
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
十年、をちこち・・・52
小さい頃は
「自動洗濯機」
「自動ドア」
に驚き!
この10年で
「自動トイレ」
「自動ブレーキ」
「自動運転」
IOTによる自動点灯、自動消灯の電化製品・・・
ありとあらゆるものが「自動化」されています。
うちの生徒さんには
家が自動トイレのため
流せない子も増えています。
自分の汚物のにおいに鈍感になり
そのまま個室を出られてしまうのです。
私たち昭和のボットン世代には考えられません。
匂いどころか、今日の〇〇ちの色で健康チェックまでします。
自動とはある意味恐ろしいことです。
そういったことが省かれるからです。
そして、あなたの感覚は使わなくていいよと
強制的に閉じさせられるのです。
私はまっぴたごめんですが・・・
先日の車の事故も
相手方は、バックミラーモニターを見ていて
ぶつかったと言われました。
自動は、自らの感覚、直感や
直霊からの声に鈍感になる装置です。
五感が鈍り、直感が鈍り、直霊の声が聞こえず・・・
う~ん・・・・あまりよろしくありませんね・・・
できれば自動を辞退して、不自由になってください。
そしてもうひとつ・・・
ぜひ、田畑をやってください。
せめて土に触れてください・・・
土のある生活を取り入れてください。
おそらく世の中がどんなに自動になっても
これがあればいろいろと(笑)大丈夫です。
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
十年、をちこち・・・51
「年の初めはさだまさし」でさだまさしさんがいうこの言葉・・・
このパロディさを、私はすごく気に入っています。
わたしか観たり、感じたりする世界は
ホント、こんな程度のことだと思っていただければ結構です。
しかし、これを「できる できない」のきばった軸で考えると
すこし深刻な状況が起きることもあります。
「いつから観えるようになってんですか?」
「どうやったら、観えるようになりますか?」
菩薩行(相談行)を続けていると
こう聞かれることがとても多いです。
しかし、これを学校で習うように
教わればできるようになると思うと大変です。
「できない→できる」にしてくれる人を探し始めます。
「3か月間セミナーを受けて、私も観れるようになったんです!」
「○○のおかげで、今はもう闇を抜けてすっきりしたんです!」
「○○さんのセッションを受けて本当に変わったんです!」
高額なセミナーやセッションを受けられた後、
そう意気揚々と報告される方がみえます。
しかし残念なことに、その方々は
ご自身の「直霊」が不在になっていることに気が付かれていません。
その方の視界のみ(狭い一部の空間)が
スポットライトのようにキラキラしており
周りは真っ暗闇です。
「直霊」を乗っ取ったものによって見せられる偽の光の世界を
すべての世界と思いこまされているのです。
「意見には個人差があります」
私たち近代社会で生きてきたものにとって、それほどこの
「できる できない」の世界は
呪縛であり、魅力のようです。
「教える、教えてもらう」
「できる、できない」の二元を行き来しているうちは、
十年、をちこち・・・㊹
十年、をちこち・・・㊺
で書いたように分かれたまま
永久に一つ(自動詞の観る、感じる)になれないのです。
「意見には個人差があります」
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
tag : 「意見には個人差があります」直霊
十年、をちこち・・・㊿
世の中のCafeの通例から考えると・・・
「Cafeですよね!」と
きばって言われると少し困ってしまう店です(笑)
まず、定休日があるお店ではありません。
ほぼ木曜日の営業という非常識さです。
ランチのメニューも一種類だけですので、
おむすびランチのみとわかった方が
駐車場で引き返されたり、
店内に入られても帰っていかれる方もみえます。
夏は、扇風機ですし・・・(苦笑)
店主自らが、「Cafe」と呼ぶ声がだんだんと小さくなっていく店です。
ただ、世間の常識からは非常識でも
私にとってはとても自然な成り行きで今に至っています。
世間体と自分・・・
人生の様々な場面で
それを考える自分がいまだ0ではありませんが、
いろいろなことをかなり自然体でやらせていただいています。
ありがたいことです。
そんなCafeにいつも来てくださる常連さん、元生徒さん、保護者様には
ほんとうに感謝しかございません。
また、偶然木曜日にはじめて見えた方が
そういうお店の形態をはじめて知り、
残り2食だったランチを、
その方たちにあてがわれたように召し上がってくださり、
偶然(必然)の「時の交差点とご縁」を楽しんでくださると
こちらもとても楽しい気持ちになります。
「お会いできるときは、こうやって出会えるんですね~」
なんてです。
今昔、生徒さんが
「先生、ここってCafeですよね?」
「毎日やらないんですか?」
「メニューはもっとあったほうがいいのでは・・・」
なんて笑って言われたこともあります(笑)
でも、いいんです。
これは、横着心や変な開き直りからではありません。
そんな時は決まって
「Cafeの常識を破る店(笑)」
と笑って答えるようにしています。
世間の常識が自分の非常識・・・
そういうときもあると、生徒に伝えるいい機会でもあります(笑)

theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
tag : Cafe世間の常識が自分の非常識
十年、をちこち・・・㊾
そしてもう一つ、わたしに強いメッセージを送ってくれるものがあります。
岩石です。

(以前、音読会花結びメンバーで行った時の画像)
これは、山添村にある巨石「長寿岩」です。
長寿岩とは、発見された山添の方たちによってつけられた名ですが
この岩は、太古の昔、一億年前に地下深く(10~20㎞)でマグマが固まった「花崗岩」です。
赤道、子午線とおぼしき謎の十字ベルトがあり、夏至の太陽との関係があると注目する人もいます。
太古の人間が、何かの祭事につかっていたのでしょうか・・・

この岩に、わたしとpiyoさんはよく呼ばれます。
呼ばれるときは、名阪を走らせているときに起きます。
「ぱちーん」
石はねの音です。
最初はこの名阪で起きる頻繁な石はねの意味が分かりませんでした。
3回ぐらいは気が付かなかったと思います。
ある時、とうとうはねた石が
piyoさんの車のフロントガラスに大きなひび割れを起こしました。
このときです。
「たまには来い」
そう聞こえました。
石・・・岩・・・はっ、山添の巨石!

以来、定期的にこの岩にはあいさつに行っています。
古来、岩は「磐座」・・・
神さまが座る「磐(いわ)」・・・
以前はしめ縄もはってありました。
風雨にさらされて切れてしまったようです。

(これは、もっと前に行ったとき・・・)
先日行ったときは、ほほえむ観音様とじい様がいました。


そろそろしめ縄はってあげてほしいんだけどな・・・
山添の地は、巨石や石仏の宝庫で
名阪国道ができたことで
何か大切なものが分断されてしまったのかもしれません。
そこの土地神や精霊が
それに気が付いてほしいのではないかとも思います。
定期的にお参りするようになってから
石はねはなくなっています。
嘘のような本当の話です。

theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
十年、をちこち・・・㊽
私は、父が最後の病床に就くまで
盆と正月のお墓参り以外は
ほとんど家に帰らない人でした。
いまでは、
ひとり暮らしで、病と共存している母に
月に数回会いに行くことが自然になりました。
いま私は母に、「本当に出会っている」気がします。
物心ついた時から
私は母と特に仲が悪いわけではないのですが
リズムというか、タイミングというか
そういうものがなんとなく合わないと感じていました。
中学高校の多感な時期は
話しかけてほしい時にほっておかれ
話しかけてほしくないときにねほりはほり聞かれ・・・
そんな感じでしょうか・・・
母としても
常に相談なく動き
事後報告だったわたしに
どうしてあげていいのかわからない
戸惑いがあったのだと思います。
私は小中高と家では極端に口数の少ない子供でした。
三者懇談でも
「何にも言わないので・・・」と
母が言っていたのを思い出します。
「何を考えているのかわからない子」
母はそう思っていたようです(笑)
感謝の気持ちはたくさんあるのに
「子ども」としての甘えがそうさせていたのだと思います。
昨年父が亡くなったことによって、
そんな関係が大きく変わります。
私としては人生初ぐらい実家に近寄るようになり
本当に、いろいろなことを話すようになりました。
幼いころの話や
あの頃こう思っていたとか・・・
母が何度も繰り返す今昔話にも
はじめて聞いているかのように
不思議なほど気持ちのいい相槌が打てるようになっている自分に、
本当に驚いています。
18歳で愛知を離れ、
三重に来てからの年数のほうがとうに長くなっているわたしが、
今ようやく、ほんとうに母と出会っている・・・
そんな感じです。
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
十年、をちこち・・・㊼
実家近く、木曽川の堤防沿いの桜は
もうすでに満開近く・・・
母とお花見に出かけました。

今日もお天気がよさそうですから
きっといいお花見日和でしょう・・・

ふるさと木曽川沿いの桜並木は
結構どこを走っても見られますが、
昨日は岐阜の笠松町あたりから
「一宮大野極楽寺公園」あたりまでぐるっと一周しました。
桜並木のトンネルは
車で走っても結構続きます。


桜開花が早い今年は、
遠く伊吹山、御嶽山、恵那山が白い雪をかぶり
桜と雪山のコントラストが素晴らしかったです。
幼いころから私はここの桜並木が大好きで
こちらにきてもふっと思い出すほど素晴らしい場所です。
わずか10日ほどの桜の饗宴・・・
みなさんは、どちらで楽しまれるのでしょうか・・・

やはり、私のいのちは、
「川と樹木」が源です。
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
十年、をちこち・・・㊻
「宙の言の葉」という勉強会を始めたのは
2013年の1月です。
以来、今週で240回目をむかえています。
この会は、子どもが比較的、成長・変化が柔軟で早いのに対して
大人の方のほうが、固定観念が強く、
成長が妨げられているのではないか・・・
それなら大人のかた向けに
スピリチュアルな勉強会をしてみようと思ったことがきっかけです。
5年の間、様々な方が来てくださいました。
いまでは、意識の高い常連さんや若いお母さんにも来ていただいています。
ありがたいことです。
5年の間、実にいろいろなテーマを伝えてきました。
スピリチュアルな知識から始まり、
古代史、闇権力、TV/新聞では伝えない世の中の仕組み、
金融の仕組み、TPP、ブロックチェーン、仮想通貨など・・・
一件、ばらばらのように見えるコンテンツですが
根底にあるテーマは変わりません。
「いのちあるものが いのちあるように生きられる世の中」
そういう世界を、私たちの手でつくるには
何を知って、何を試せばいいのか・・・
そのための勉強会です。
大切なのは、
世界観を持つことではなく、
世界をつくること・・・
そしてもっと大切なことは
自分がその世界になることです。
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
tag : 宙の言の葉
十年、をちこち・・・㊺
いろいろとできなくなること、やれてしまうことが生まれます。
具体的には・・・
①外に指をさし、人のせいにすることをやめます。
②SNSまでつかって、いちいちマイナスのことをまき散らさなくなります。
③自分の闇を見つめ、出会い、そしてその闇が消えることを目撃します。
見る、見られる
謝る、謝らせる
引き寄せる、引き寄せられる
認識が2元に分断されているうちは
引き寄せは永遠に起きないことになります。
それどころか、
その二元はますます一元になろうとし
人間界におけるいわゆる「悪いこと」が
片割れの浮かれた「良いこと」を求め
どんどん大きくなっていくのです。
いつも気味が悪いほど
キラキラわくわくとテンションの高い人は
必ず、もう片方の深い闇を見ることになります。
その方としては、その闇を消した(隠した)つもりですが
事態は全く不本意な方向へと向かいます。
それはまるで振り子の法則と同じです。

片方に振れた球は、もう片方へ向かい、再び落ちていきます。
そしてそれは永遠に続きます。
本当に出会わなければ二元は消えません。
本当に出会えば、「分かれ」がなくなるということです。
男女の友情を描いた谷川俊太郎さんの詩「あなたはそこに」は
深読みするとそういうことを言ってらっしゃるのかなとも思います。
「ほんとうに出会った者に別れはこない
あなたはまだそこにいる
目をみはり私をみつめ 繰り返し私に語りかける
あなたとの思い出が私を生かす
早すぎたあなたの死すら私を生かす
初めてあなたを見た日からこんなに時が過ぎた今も」
「あなたはわたしであり、 わたしはあなたである」
自分の中にある二つの世界を受け入れ
それが表裏一体、お互い様とわかれば
やがて、闇が消えていくところまで見届けることができます。
それが「ゆるし」であり
「ゆるす」ことさえ忘れるぐらい
自然な大いなる器なのです。
人間が、山、川、森、、大木に佇むときに
包まれるあの感覚が二元を超えたOnenessです。
つまり、自然はその大いなる器で私たちをゆるしているのです。
そして、私たち人間もそうなればいいのにといざなうのです。
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
tag : 振り子の法則
十年、をちこち・・・㊹
母とよくいくうどん屋が定休日で、
岐阜の別のうどん屋へ向かいました。
夕方から塾があったので
すこし気がもめましたが
気を取り直して、向かいました。
食事を終え、母を助手席に乗せ
車を出し、主要道路へ出ようと一旦停止・・・
左右を確認中・・・
「ガガガガーーー」
揺れました。
わたしが止めていた駐車スペースに
慌てて入れようとした別の車が
わたしの車の後ろをその車の横であてていったのです。
幸い、母も私も怪我一つなく
母にも動揺がなかった事故でしたので
本当にありがたかったのですが、
かすかに慌てていたわたしの心が
昼食の時間が限られ、さらに慌てて駐車しようとしたサラリーマンの心と
こうして出会うことになったのです。
スピリチュアル好きの方は
すぐに「引き寄せ」という方もみえますが、
それは、少し違います。
そのことは、流れが合えばまたお話します。
この事故で、私は急にいろいろな人と話したり出会うことになります。
当事者の方、地元の警察の方、保険の方、車のディーラーさん・・・
事故がなければ出会わなかった人と
話したりあったりすることになるのです。
これが人生の妙です。
日頃は全くみえないのですが、実は
いつもつながっていたというOnenessを再確認します。
スーッと音を立ててクローズアップされる「近づく」感覚・・・
空間の量子が膨張と収縮を繰り返しながら
「私」をつくりあげ、「私」に近づく感覚です。
仏教ではこれを「空」といいます。
「空」は空っぽということではなく、
すべては見えなくともつながっているということです。
被害者と加害者・・・
夫と妻・・・
親と子供・・・
先生と生徒・・・
社長と従業員・・・
店主とお客・・・
人間界は、自分という存在が迷子にならぬように
さまざまな対照物を置くことで
自分の立ち位置を確認します。
そうしないと落ち着かないからです。
とても便利なシステムですが、
これに慣れてしまうと、
このいつでもつながっている・・・
見えないだけ・・・という感覚がなくなり、
急に横柄な態度をとったり、
逆に媚びたりする癖が付きます。
今回、法律上では私は被害者ということになりますが
それは同時に加害者でもあるのです。
人間界でこの上下左右が付いた時点で、
被害者であり加害者でもあるのです。
わかりにくければこう考えてください。
「いつ何時、逆の立場になるかわからない」
「一事が万事、塞翁が馬、お互い様」
(立ち位置が決まった時に、その対極にある立場も内包するということ)
Oneness、ワンネスというカタカナが苦手な方は
ぜひ、この言葉からお入りください。
「わたしはあなたであり、あなたはわたしである」のです。
いつものうどん屋が閉まっていて
別のうどん屋へ行き、急いだ気と慌ただしい気が出合ってしまう。
実は出会うのではなく、自分がある立ち位置を取ったがゆえに
対照物であるもう一つの自分、自分の中にあったもう一つの存在が
カタチになり現れただけなのです。
事故も恋愛も就職も結婚も・・・
すべてこのOnenessの世界だからこそ起こる
不思議な妙なのです。
なんにせよ不幸中の幸い・・・
大難は小難、小難は無難・・・
ありがたいことです。
この事故の意味の問いかけは今も続いています。
そして、
「本当に出会ったものは別れない(分かれない)」
このことについて次回続けましょう・・・
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
十年、をちこち・・・㊸
十年、をちこち・・・㊷
一本の木は、世界中の樹木と根で交信しています。
そういうことも
木ぃじいちゃんにおそわりました。
まるで人間の脳の「シナプス」のようです。
わたしとpiyoさんは、遠出をするとき
AddCafeの木ぃじいちゃんと津市古河の監物の大イチョウに挨拶をして出発します。
あいさつと言っても
車から、いってきまーす、というだけですが・・・。
木ぃじいちゃんはときどき
「あいつによろしくなー」っていいます。
あいつってだれだーと思いながら旅先につくと
なるほど、大木が迎えてくれた・・・
そういうことが結構ありました。
たとえどんな小さな旅でも
人は必ず「呼ばれて」
行かされて(生かされて)いく・・・
旅の楽しみはそういうところにもあるのです。
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
tag : 樹木
十年、をちこち・・・㊶
地域通貨
シェアリングエコノミー
副業、兼業
クラウドファンディング
仮想通貨・・・
いまの日本銀行券と硬貨では果たせない新しい経済が生まれています。
今までの日本銀行券と硬貨の独占的役割は、
お上からの強制的な圧力で始まります。
働く、借りる、もらう、奪う・・・
わたしたちが、お金もしくはお金と同等の価値を手に入れるには
長らくこれ以外の方法はありませんでした。
いまでは
「もらう」≠物乞い ではなく
「もらう」=シェア、自然に集まる
「与えられ、支配される」➡「じぶんで、みんなでつくり、自由になる」
にかわりつつあります。
ここにきて、日本銀行券と硬貨の一極集中は
ゆるみ始めています。
考えれば、この一極集中は明治期、近代に入ってからです。
わずか100年ほどのことです。
鎌倉、室町には、中央が発行する通貨以外に、
中国や朝鮮から入ってくる何種類もの銅銭が使われていました。
特に、地方では当たり前だったようです。
信長はその銅銭を自由に使っていいと許可を出し
楽市楽座を広めました。
「びた一文」の「びた」はそこから来ています。
そこから考えると
今の状態が特別(異常)なのだとわかります。
わたしたちはもっといろんなものを
「通貨」にしてしまえばいいと思います。
そして、堂々と「地方」になればいいと思います。
日々、そんなことをよく考えています。
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
十年、をちこち・・・㊵

第一回目から本当にいろいろな方に出ていただき、
私の動機と意志をを汲んでいただいた方々が、
最初から最後まで応援、ご出店してくださいました。

本当にありがとうございました。
閉塞感の根本が「お金」なら、コミュニティという形で
そのお金の役割の一部を互いが補完し、代替できないものか?
そういう試みでした。
現在のお金の役割には三つあります。
「価値の尺度」
「価値の保存」
「交換の手段」
人類がいまだ、
お金と同等、もしくはそれ以上の価値を見出せないのは
お金をあまりに信望し、疑っていないからだと思います。
今のお金以外で
「価値をはかり、価値を保存し、価値を交換できる・・・」
そういう代替の手段や状況を作れないのか・・・
sora-piyoがしてきた「市」は
それが、試みでした。
それを「言わずもがな」」でわかってくださった方々が、
最後まで応援、出店してくださいました。
ありがたいことです。

同じ年の10月に始めた「笑市」にその趣旨をまとめています。
「笑市」の趣旨:
① 大きな手の届かない経済でなく、小さな生業としての「手作り品」の売り買い、そこに生まれる「お金」と「ひと」の等身大の経済活動を通して、人がそれぞれの良さを持ち寄り、認め合い、助け合い、つながり合う笑顔あふれる場や空間を創造し、演出する。
② 「ひと」と「ひと」とがノンバーチャル(非架空=リアリティー)につながることができる「手作り市」を通して、自分たちの手で実感ある等身大の経済を創造して行く。
③ この市を続けていくことで、まだ見ぬ100年後の子どもや若者たちが、孤立することなく、つながりや喜びを分かち合う笑顔あふれる経済活動を継続的に行える場を創っていく。

とても偉そうな文言が並んでいますが、
自分自身を茶化すことなく、
いまもど真剣にこの気持ちは変わっていません。
をちこち㊳で書いた「お金の正体」を
わたしたちはもっと深刻に受け止めるべきです。
自分たちでルールを作り
小さくとも自分たちの経済圏を作る・・・
100年後も笑える世の中を・・・
せめてその種だけは作り、
次の世代に渡したいと思っています。
theme : スピリチュアルライフ
genre : 心と身体
tag : 宙結び
十年、をちこち・・・㊴
華やかな洋服で外身を着飾るようにしか接していない人にとっては
気に入る効果や成果がなければ、すぐに離れ、
じきにスピリチュアルなど気にも留めません。
「感謝をする」というのは
自動詞であり、
唯一無二であり、
他のなにかと意図的につなげるためには存在しない
いわば、単独の光です。
相談を受けていて
「感謝って大切ですね」
と伝えると、
「感謝すればいいんですね!」
と言われた方が、ごまんといらっしゃいました(笑)
そういう方は、感謝をすれば何かいいことがあると思っていらっしゃるようでした。
そうではありません。
「感謝する」は、「ある」と等しい状態であり、
それ以上でもそれ以下でもありません。
おわかりいただけますでしょうか・・・
「これをしたらどうなりますか?」
「どうしたら、できるようになるでしょう」
方法論でしか考えられない いのち・・・
原因と結果の近代論理がすべてと考える アタマ・・・
「ただ、ある」
というのが、すごく得体が知れないもののようです。
木ぃじいちゃんは、
「いのちを育てよ・・・」
とわたしに言います。
わたしは、そのためにはどうすれば?などと野暮なことは聞きません。
ただ、そういう存在になることだけ・・・
そして、ここで生きるだけです。
十年、をちこち・・・㊳
それが、責任不在の「大経済」をつくります。
成金→戦争
高度経済成長→公害
バブル→人情の消滅、つながり分断
民営化→格差、貧困
わたしたちは何度、上がったり下りたりしなければならないのでしょう・・・
いえ、もともと上がってはいないのです。
「食べていける子供を育てるには?」
「生き延びるための人生戦略は?」
「正社員でなければ生きていけない」
あげればきりがありませんが、
そういうった言葉が、中学受験の有無や、
高校の進路決定で暗黙に飛び交うようになっていました。
大学時代に
子供に何かを教えるという仕事を始めてから
ずーっと
そういった言葉に違和感を覚え、異を唱え、
そうではないよという事実を立証するために話し、動く・・・
そうしてきました。
AddCafeの2F、学習支援塾Onenessはその流れを汲んで存在します。
そしてこの十年間 ここでしてきた活動も
すべてはそのためと言っても過言ではありません。
昨日は県立高校の合格発表でしたが
おかげさまで全員合格!!いたしました。
本当にうれしくありがたいことです。
彼女たちにもずっと伝え続けた私の願いは
「自分らしくある」
ただそれだけです。
「お金」に関してもうひとつ・・・
よく、高額商品を売りつけるスピリチュアリストやセミナー担当者が
「お金」には罪がない・・・
「お金」をもらうことに罪悪を持たなくていい・・・
挙句の果てに、先に手放すことが大切・・・とうそぶきますが、
それは自分の高額の高額商品を買ってもらうための口実にしていることが多いです。
先に手放すことが大切・・・はあくまでも自動詞です。
そう気が付いたものが、自分でするための言葉です。
人に言われてするものではありません。
たしかに、あの紙(お金)には罪はないと私も思います。
でも、前述した人たちのように巧妙な言葉のすり替えがあったり、
お金の流れのしくみがアンフェアーであることを考慮すると
何かを変えていきたいというエネルギーがわくのも自然です。
①「お金」をうみだす特権は、日銀と民間銀行のみに与えられていること
②貸出を原則にお金を生み出す信用創造(私的には詐欺創造)は、
知らず知らずのうちにわたしたちに「借金経済システム」を強制させていること
日本銀行券が発行される経緯を思えば、
「お金の流通のさせ方」は全くフェアーではないのです。
そのフェアーでないルールの中で試合をすれば
おのずと我々は疲労困憊するのは当たり前です。
いつの時代も、ルールを作る元締めが
一番儲かるようになっています。
ましてや、
不安や恐れをネタにお金を得ようとする
エネルギーバンパイヤもいるので要注意です(笑)
ですから、
「不安を煽る大人にはついていくな」
私は子供たちにそう伝えているのです。
そして、最近では
必要以上に
「キラキラわくわくをうたいながら、お金を請求する大人には注意」
も加わりました。
tag : 自動詞エネルギーバンパイア
十年、をちこち・・・㊲
未曽有の大震災が起きます。
店を始めてからの10年間・・・
その中でわたしが大きく揺り動かされた出来事と言えば
この大震災しかありません。
あのとき皆さんも、居ても立ってもいられずに
「自分にできることを何かしなくては・・・」
と思われたのではないでしょうか・・・。
その揺れ動きから生まれたのが
手作り市「宙結び」「笑市」
「100年後も笑いましょに」の「書&アートパフォーマンス」
音読会「花結び」
などです。
思いつくものすべてをやってみました。
当時の私の動きがあまりにも早すぎてpiyoさんは、
「首がもげる」
といっていました(笑)
あれから7年です。
子供たちと接していても
記憶がある子とそうでない子が入り混じるようになりました。
人生で、それまでも多くの地震や災害を目の当たりにしてきましたが
原発事故と大津波が重なるあの大震災は、
わたしたちを生きる根元から変えていく、
そういう・・・本当に本当に大きなできごとでした。
突き詰めて端的に言えば、
「ほんとうに大切なものは何ですか?」
そういうことだったと思います。
バブル崩壊後の小泉政権あたりからじわじわと
「自己責任」という真綿で首を絞められていた大人や子供たち・・・
いまでも一向に責任を取ろうとしない政治家や
社会的地位の高い会社経営者が作り上げる「社会」・・・
そういった旧態依然の閉塞的な未来に・・・
子供たちも大人たちもほんとうに窮屈な思いをしていました。
自己責任は人と人とのつながりを「分断」していったからです。
あの大震災で「絆」という言葉が
クローズアップされた理由には、
そういう背景があったと思います。
「自己責任」
「分断」
それしか生きる道がないと思い込んでいた世の中の流れが
「そうではない」
降り戻された瞬間でした。
十年、をちこち・・・㊱
2012年の4月~わたしとpiyoさんは、
「宙結び」という手作り市を始めました。
このブログタイトルが同じなのは
この市を始めるようになってから
このブログを始めたからです。
お店のご紹介やその後の報告、
市の募集などを載っけるために
当時かなりのPC音痴だったのですが
何とか始められました。
お店を始めるときには
ブログをしなかった私ですが、
市をして、ご報告なしでは
せっかくご出店くださった皆様に申し訳ないな・・・
という気持ちがあったからできたブログでした。
必要は、発明の母・・・
本当にそうですね(笑)
この2012年、この年の年末・・・
時代はマヤ暦の終焉というイベントを控えていました。
スピリチュアルをかじったことがある人なら聞いたことがある年号です。
わたしも多くの本を読み、とても興味がありました。
ただそのころから、それをネタにスピリチュアル産業がだんだんと
おかしな方向に行くのも見てきました。
それは今も変わりません。
そのころも、自分の体と感性で感じた変化以外は
信じないようにしていました。
これは、いたずらに人を信じないということではなく
ただ、自分の直霊を大切にしたかったからです。
これは私の感覚ですが
スピリチュアリストといわれるその人を見るときに、
2年という節目に気を付けています。
2年たつとその方の本性が
お金と人間関係に現れてきます。
また、どんなにすばらしい本でも
ふっと、2割ぐらい虚構や営業が入ってきます・・・
それが人間なのでしょう・・・
これは、私たちすべてにあてはまる
何か法則のような気がするのです。
どうぞ 私も、私のブログもお気を付けください(笑)
ですから、
自分の身をただすといういちばんの「美学」を
私たちは忘れてはいけないということです。
「美」は中身から・・・
この普遍的な原理は
人類が始まって以来
一向に変わっていない気がします。
日頃
人に聞こえようが聞こえまいが
何を思い、何にたどり着こうとしているのか・・・
お天道さまはよく知っているのです・・・
十年、をちこち・・・㉟
とある方・・・その方も常連さんですが、
「報告も兼ねてきました」
とおっしゃいました。
その方も、いろいろと悩まれ・・・
そう、それはもう次から次へといろいろと悩まれ・・・
わたしはその方がみえるたびに
自分が学んだ心の持ち方、世界のとらえ方、
社会の常識が、自分の非常識になる時もあること、
宇宙ってこうなっているみたいです的なお話を
ただただ させていただいただけです。
結局、いろいろと良い方向に向かわれ
ココロも軽くなられたようでした。
「どうしてでしょうね・・・(笑)」
そうおっしゃったので、
「あらがわなかったからですよ」
そう伝えました。
人は、常識や社会通念に自分や家族の生き方をはめようとします。
そのほうが、楽ですし、安心できるからです。
でも、その安心は
人の価値判断で裏付けされたものですから
どこかで自己矛盾を起こします。
そうすると大変です。
自分の心の声と、
社会からやってくる常識の同調圧力がけんかをし始めます。
これが悩みの発端です。
自分を責め、時には人にせいにして
何とか生きようとしますが
それは、長くは続きません。
理由は簡単です。
自然ではないからです。
自分の生き方が自然でなくなったとき、
苦しさを感じます。
それが悩みの正体です。
この常連さんは、
自然になったから楽になった・・・
ただそれだけです。
本当によかったです。
「直霊」とともにあることを
「素直」というのです。
誰かの言いつけを守るとか
感じもせずになんでも「Yes」というのが「素直」なのではありません。
この方も本来の「素直」な方なのです。
昨日は、全員が常連さんの日で、
遠く名張から来てくださった常連さんもみえました。
ランチをお出しする合間合間に
談笑のひと時がある・・・
ひとが人生の最後に必要になるのは
きっとこういう方たちとの
暖かい時間なのだと、つくづく思うのです。
最近は、人生の晩年を過ごす母と話すことが多いので
こういうことがじんわりと心にしみていきます。
piyoさんと洗い物をしながらつぶやくのは
「ありがたいね」の一言です。
ありがたい・・・有難い・・・そう易々とあるものではない・・・
当たり前のものは何一つない・・・
春の午後の温かいひとこまでした・・・
tag : 直霊
十年、をちこち・・・㉞
お店の営業をマイペースに、
自分らしい営業の仕方に変えてから、
そういう時間が増えました。
印象に残っているところは数多くありますが
その一つをご紹介しましょう。
新潟県の弥彦神社です。
東経139度というラインは
古代史を語るうえでとても重要です。
松本清張は、そのことを小説「東経139度」に書きました。

※「地図でわかる天皇家の謎」より
小説によると、139度に並んだ
新潟県の弥彦(やひこ)神社
群馬県の貫前(ぬきさき)神社、
東京都の御嶽(みたけ)神社は、
今でも太占(ふとまに)の神事を残しているそうです。
太占の神事とは、
上代の占いのひとつで、
鹿の肩の骨を焼き、
その割れ目の形で吉凶を占うことです。
これを鹿卜(ろくぼく)とも言います。
亀の甲羅を焼く亀卜(きぼく)もあります。
また、現在では行われていませんが
太占の記録を残しているのが
五日市の阿伎留(あきる)神社、
伊豆半島の白浜神社です。
それ以外には西にも東にもありません。
139=ヒイ・ミ・ココノツ=ヒ・ミ・コ
となります。
あくまでも仮説ですが、
日本の歴史が勝者によって書かれたもので、
敗者は、自分たちの生きた証を
その儀礼や精霊たちに託したとすれば、
「鬼道(シャーマン)」に通じていた卑弥呼の一族が
このあたりに逃れてきたとしても不思議ではありません。
わたしたちが
神社に行って何を観ればいいのかがおのずとわかります。
ここ東経139度ラインでも
敗れた卑弥呼の末裔たちが
逃れ逃れてこのあたりに部族のあかしを残しても
何の不思議もありません。
わたしは、いまの神社を巡る時
国家神道的要素を排除してみることにしています。
いまも残る、比較的古い神社がある場所は、
本来、立派な社などなく、
基本自然と人間が一体となる
謙虚で、シンプルな場所だったと思います。
古代史が好きな私は、ときどきこうやって
地鎮のつもりで各地を巡るのが大好きです。
弥彦神社もそうで、
そういう場所では、やはり龍に出会うのです。

ふと見上げた古木は午後の優しい光に照らされていました。
下り龍が、一頭・・・
見方によっては、二頭でしょうか・・・
わたしたちをやさしく迎えてくださいました。
大木をいったん駆け上がり
一気に垂直に下っている・・・
ジェットコースターのようで楽しそうです。
何千年、何万年と生きる精霊たちは、
私たち未来の人類に何に気付いてほしいのか・・
どんな生き方をしていってほしいのか・・・
そんなことを観じながら巡るのです。
当時の旅記録はこちらです→東経139度の旅・・・
十年、をちこち・・・㉝
台所に龍の頭があって
一周半ぐるりと巻いている・・・
でも元気がない・・・というお話をしました。
その理由は、店を始めてからわかりました。
AddCafeをのまわりに設置された塀の杭のためです。
昨年の台風で、その塀が3か所にわたって倒れた時
杭の数を数えましたが80本ぐらいはあったでしょうか・・・
AさんがAddCafeのリフォームをなさるとき
知らず知らずのうちに打ち込んだ何十本もの杭が
龍の体を、まるでガリバー旅行記ののガリバーのように
縛っていたのです。
正確に言うと、龍は縛られていると思い込んでいたのです。

ガリバー旅行記より
みえない龍とみえる杭・・・
そういったものが本当につながっているのです。
仕込みをしていた私に、龍がそれを教えてくれました。
ですから、これまで窮屈な思いをさせてしまったことを詫び、
杭は打たれてはいるが、龍さんは自由に飛べることをお伝えしました。
龍は喜んで、ゆっくりと起き上がり、
屋根の上まで首を起こし、
その後は自由の身になって時々空を飛んだりしました。
そういう時は決まって、一陣の風が吹きました。
龍は水と木(大木)が大好きなようです。
Aさんから引き継いだAddCafeには
生の木が植えられていませんでしたので
大家さんの許可をいただき、植えさせていただきました。
玄関横の西洋ニンジンボクと看板近くのえごの木です。

木ぃじいちゃんと龍への恩返しのつもりで植えました。
今では、桜に梅、琵琶の木があります。
樹木は、人と精霊にとってとても重要です。
そして、大量に杭を打つときは
そこの精霊にひとこと許可をいただいてからにしてあげてください。
よほどのことがない限り、ちゃんと許してくれます。
私たちは、私たちより何百年、何千年、何万年も前からいる精霊たちに、
土地をお借りするだけです。
たとえそれをお金で購入しようが、
あくまでもそれは人間のルールだけのことです。
決して自分だけのものではないことを
心にとめることが大切です。
いまでも、地鎮祭の儀礼があるのは、そういうことです。
昨年の台風で塀が3か所倒れましたが、
そういう時は、自分の働きを謙虚に振り返り
何もやましいことがなければ、すなおに
アップグレードされた龍との関係を喜び、感謝します。
そうやって、新しいステージでの
龍さんや木ぃじいちゃんとの対話がはじまって楽しいものです。

十年、をちこち・・・㉜
母は、長良川に洗われ(顕れ)、金華山で遊んだ人です。
父は、御嶽を源に、木曽川で遊び、
伊吹山に愛された人ではないかと思います。
自分のいのちを考えるとき、
自分の父母がどこの風土に育てられ、
洗われ(顕れ)てきたのかが
とても重要だと教えてくださった方がみえます。
学校の教員を辞め
一年間本屋でバイトをしていましたが
その時の雇われ店主さんです。
この方は面白い経歴の持ち主で
夜逃げの経験もありました(笑)
それを屈託なく話される姿を見て
人間のたくましさと楽観的な愉快さを
まだ若かった頃の私は感じました。
わたしが、龍とご縁があるのは
山と川に洗われた(顕れた)父母のご縁と
辰年を選んだがゆえではないかと思います。
木曽三川の豊かな恵みは
私たち親子の源流(龍)なのではないかと思います。
そんな父が亡くなる前・・・
もう二度と出られなくなった病室でつぶやきました。
「あそこの水が飲みたい」
あそことは、伊吹山のふもとの泉神社です。
以前もよく3人で汲みに行きました。
早速、母と二人で向かいます。
そこで出会ったのも龍・・・赤龍でした。

なんとなくその美しさにひかれて撮った一枚。
すこし拡大してみます。

おわかりでしょうか・・・
ご神木を下から巻き付けて
手前の緑の木の横で首を左に振っている・・・

解説するのも無粋ですが、
父がいかに伊吹の山に愛されていたのかがわかります。
十年、をちこち・・・㉛
向かった先は、「瀧原宮」です。
なぜそこに行ったのかわかりません。
ふっと、
ああ、瀧原宮に行こう・・・
そう心が言ったからです。
行ったことがある方はおわかりでしょうが
そこには川があり、天然の御手洗があります。

古社巡拝録より画像を拝借いたしました・・・
ころ合いのいい場所にしゃがみ、
ふっと上流に目をやると
向かって右岸に龍がいました。
川の真ん中の岩のところには
鼻まで水に浸かった
恵比寿様のような 河童のような優しいおじいちゃんがいました。
「いいんじゃ」
確かそんなような声が聞こえたと思います。
全身に
「ゆるされている」
「受け入れられている」
そんな波動を浴びました。
とめどなく涙が溢れました・・・
うつむいた私の目に映る瀧原の川は、ほんとうに
透明で美しかったです。
しばらくそこに佇んだ私は
もう無理をするのはやめようと
ゆったりとゆっくりと歩き始めました。
私の中で はりつめた何かがポロリと落ちた、そんな日でした。
余談・・・
その時の私は、デジカメもタブレットもありませんでしたので
雰囲気をお伝えしますね。

1-龍
2-恵比寿様、ぺちゃんと倒した烏帽子をかぶっておられました
(古社巡拝録より画像をお借りして、丸を付けました)
十年、をちこち・・・㉚
臨時休業はしていましたが
それとは少し違いました。
木ぃじいちゃんは
「好きにしたらええ」
そう いってくれました。
それは今でも変わりません。
具合の悪い日に仕込みをしていると
胡坐をかきながら宙に浮いていて
うしろから 背中をさすってくれる優しいじいちゃんです。
飲食店の自営は、休めば
その分売り上げはありません。
当たり前のことです。
私のような零細な自営は
知らず知らずのうちに「休めない、休まない」の
ブラック労働を自らに課すことになっていきます。
気持ちよく人様の食事をつくる・・・
人によってその許容範囲は違うと思いますが、
毎月の売り上げと支払いを気にするあまり、
その許容範囲を超えていたということです。
もうひとつ、わたしがぷっつり来たわけは
自分に課していた修行でした。
誰のせいでもなく、
自分に課していた課題でしたから
誰にも文句は言えません。
今は再開していますが、
菩薩行(相談行)の挫折でした。
・私が考えるスピリチュアルと相談者が考えるスピリチュアルに大きな開きがあったこと、
またそれを把握していなかったこと・・・
・私が話すことが、その人の成長ではなく 依存心を増幅させたこと・・・
・スピリチュアルを勘違いしている人たちに何もできなかった無力感を感じたこと・・・
そういったことが挫折の原因だったと思うのですが、
とにかく
「2012年9月25日~」
私のメニューメモがそこで終わっています。
それから3か月、わたしはCafeを開けることをしませんでした。
十年、をちこち・・・㉙
朝5時半に起きて
お店に来る。
建物のすべての窓とドアを開け空気を入れ替えます。
冬でも同じです。
毎日窓を開けて「気」を入れ替える・・・
悩み事相談をしていて
意外にそうされていたい方が多くて驚きました。
何となく悩みの多い方はぜひこれをやってみてください。
毎日が変わります。
トイレ掃除をする。
きれいに手を洗って
お米を神様からいただく。
米を研いでセッティングしたら
仕込みに入る・・・。
すべての仕込みを終えるのは9時過ぎから30分ごろ・・・。
そこからゆったりと小一時間ほど、
コーヒーを飲みながら新聞を読む・・・。
仮眠をした時もありました。
新聞は、情報としての信ぴょう性はありませんので
そこから裏を読むトレーニングとして使っていました。
その後、掃き掃除をして
当時は、11:30開店でした。
定休日も仕込みと塾をしていた私に
実質休みはほとんどありませんでした。
そんな生活を3年ほどつづけたある日・・・
プツっ・・・
何かが切れたのです。
いつものようにブラインドを開けていたわたしに
それが起きます。
入口近くから開け始めたブラインド・・・
トイレ近くのブラインドまでやってきた私・・・
「やめよう・・・木ぃじいちゃん今日はやめてもいいですか?」
すべてのブラインドを再び閉めました。
tag : 気
十年、をちこち・・・㉘
流行とは、大きな周りの人の流れに乗り
またそれが、ほぼしあわせの道につながるという保証のようなものです。
私は昔からこの「流行」というものに乗らない人でした。
乗らないというより、乗れない人です。
けっしてアマノジャクではないのですが、
わたしにとって「流行」とは嫌疑の対象でもありました。
まあ、だからこんな風(笑)になるのですが・・・
みんながいいというものはいい!?
ほんとうだろうか?
そもそも、みんなってだれだ?
みんなとは、人であることもありますが
マーケティングの手法としてのマスメディアのこともあります。
もう少し私たちは自分の感覚、感性を信じてもいいと思います。
自分への宇宙からのメッセージは
自分にしか聞こえません。
直霊さえ抜いていなければ(抜かれていなければ)
聞こえたこと、感じたことがすべてです。
ていねいに生きるということは
その声に素直であるということです。