突貫紀行
「突貫紀行」がある。
幸田露伴の本名は、幸田成行(しげゆき)・・・
彼は、数え14歳で、
東京英学校(現青山学院大学)に入学する天才です。
しかし、家門が落ち目であることを気遣って、
明治15年(1882年)に東京英学校を中退した成行は
翌年に芝汐留(今の港区)の電信修技学校に入学します。
明治17年(1884年)、その電信修技学校を卒業した成行は
築地の中央電信局で電信技手の仕事を始めました。
ところが、翌年、
成行にとって衝撃の事件が起きます。
明治18年(1885年)坪内逍遥『小説神髄』が世に出たからです。
成行の人生を変えた書といっていいでしょう。
この作品に衝撃を受けた成行は、
一念発起、自らも文学の道を志そうと決心します。
当時、成行は北海道西岸の漁港余市の電信分局に赴任していましたが、
明治20年(1887年)、職場には無断でこの余市を脱出します。
この北海道から東京までの旅の記録が「突貫紀行」です。
旅といっても、私たちの想像を越える過酷さがあったことは、
この作品の冒頭部分に現れています。
身には疾(やまい)あり、胸には愁(うれい)あり、
悪因縁は逐(お)えども去らず、
未来に楽しき到着点の認めらるるなく、
目前に痛き刺激物あり、
慾あれども銭なく、
望みあれども縁遠し、
よし突貫してこの逆境を出でむと決したり。
愛する人に三人にのみ知らせ、
忽然と出発したそうです。
今から135年前、成行若干二十歳の出来事です。
そして、道中に得た句「里遠しいざ露と寝ん草枕」から
「露伴」の号を得ます。
その年の8月25日に北海道を出て
9月29日に東京に着きます。
約一ヶ月の紀行文です。
この突貫紀行を、
ずいぶんと前のドキュメンタリー番組で見たことがあり、
いったいどんな観点でかいているのか興味がありました。
紀行のクライマックスは、
野垂れ死に寸前となった、
福島から郡山の徹夜の突貫行脚・・・
福島二本松の亀谷坂がその舞台です。
突貫紀行の全行程がこちらのサイトで
地図に載っていました。

すさまじい工程です。
途中、3か所ぐらい祭りに遭遇しているのですが、
彼のすさまじい突貫行脚と祭りとの対比が
何とも言えない壮絶感を醸し出していました。
二十歳にしてすでに
大文豪の芽が否応なく発露している作品です。
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