樹下石上 115・・・自立ってなんだ!?②
もやもやとひっかかっていた時、
ある記事に出会いました。
それは、熊谷晋一郎さんが書いた記事でした。
➡自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと
熊谷さんは、新生児仮死の後遺症で
脳性まひに、以後車いす生活となった小児科医です。
彼が東北の震災で体験したことをもとに
「自立」とはなにかをかいています。
これが私のもやもやを払ってくれました。
「一般的に「自立」の反対語は『依存』だと勘違いされていますが、
人間は物であったり人であったり、さまざまなものに
依存しないと生きていけないんですよ。
東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から
逃げ遅れてしまいました。
なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。
そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、
自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても、
他の人は階段やはしごで逃げられます。
5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。
ところが私にはエレベーターしかなかった。
これが障害の本質だと思うんです。
つまり、“障害者”というのは、
「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。
健常者は何にも頼らずに自立していて、
障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと
勘違いされている。
けれども真実は逆で、
健常者はさまざまなものに依存できていて、
障害者は限られたものにしか依存できていない。
依存先を増やして、
一つひとつへの依存度を浅くすると、
何にも依存してないかのように錯覚できます。
“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。
世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、
その便利さに依存していることを忘れているわけです。
実は膨大なものに依存しているのに、
「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、
“自立”といわれる状態なのだろうと思います。」
いかがでしょうか・・・
わたしたちが「自立しなさい」と
子供や若者たちに言い放つとき
大人の方が、たくさんの依存先のありがたさを忘れて
偉そうに、一人で生きて行けとか
もっと最悪なのは、自分がいかにも
自立しているかのような偉そうな顔で
「だれのおかげで飯が食えてると思ってるんだ!」
と子どもを怒鳴っていないかということなのです。
これを言う大人は、本当に恥じなければいけません。
お金を笠に、子どもを「従」の位置に蔑み、自らを「主」として、
主従関係を強いるお金至上主義だからだけではなく、
その大人の状態は、
依存先がたくさんあるという事実、
一つひとつの依存度が薄まってしまって
見えにくくなっているだけという事実、
たくさんの「おかげさまで(依存先)」に支えられているという事実・・・
これらに気が付いていない間抜けな大人になっているだけなのです。
しかも、この原則を忘れて
子どもに「自立せよ」ということは、
依存先を減らせということになります。
国の経済が、右肩上がりで
働けば働くほど、収入と安心が蓄積される時代ならともかく
今の日本では、それは無理でしょう・・・
必然として、かなり選択肢が減るわけですから
ブラックでも働く「お金依存」せざるえなくなるか、
最終的に助けを求められずに病み(闇)をかかえるか、
最悪の場合、自死を選ぶことさえあるのではと思うのです。
いざというときにいつでも、
「不自由さ」や「苦しみ」や「絶望」を分かち合える
そんな人や場所があることこそ、
「自立している」というのでしょう。
ちなみに、同じ依存でも
熊谷さんがおっしゃる「依存」と
「この人がいないと生きていけないわ」と
DVを甘んじて受ける女性の「依存」とは
全く違うことも加えておきます。
後者は、先の「お金の依存」とおなじで
依存先がひとつになっていることが問題なのでしょう・・・
また、歪んだ執着と
上下・主従関係が根底にあることも
大きな違いです。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
