平成の後ろ影⑦・・・発達凸凹(発達障害)
「発達障害」といわれる子供たちと大人がどう向き合うか・・・があります。
「発達障害」の「障害」という言葉から
認識や許容がゆがんだ形で伝わっている場合もあって
この言葉は改めるべきだと思いますが
とりあえず今はこの言葉を使わせていただきます・・・
➡迷走する教育
ここでも書きましたが、147年もの間
社会や大企業の要請に応えるのを「教育」としてきた歴史がある中で
教育をもっと「個別のもの、一人一人のもの」として
頑張っていらっしゃる偉大な指導者もいらっしゃいます。
以前みなさんに応援していただいた「小さな挑戦」がありました。
➡小さな挑戦
それはまさにこの「発達障害」に関することでした。
正確に言えば「グレーゾーン」と診断を受けた生徒に関することです。
お陰様で、現時点では
結果的に、明るい方へ向かっているので
本当に良かったと思っていますが、
根本的に解決されたわけではないので
まだまだ挑戦は続くと思います。
彼本人や保護者の方のご了承をいただいて
この件について詳細を記載する許可をいただいていますが、
今日は概略を書かせていただきます。
彼は、当時 県立高校へ通う2年生でした。
日頃の様子から、
診断を勧めたのは学校の担任・・・
彼は書き写す力と作業と時間の管理が苦手という
グレーゾーンの結果がでました。
診断結果が出て、私はある意味安堵しました。
中一から彼を見ていた私は、診断はなかったものの、
そういう特徴があることは認識していましたので
高校へ行ってちゃんとできるだろうかと気になっていましたので・・・
「これで学校側が何らかの配慮をしてくださる・・・」
そう思ったからです。
かなり簡略化して言いますと、
結果は真逆でした・・・
その診断を担任や学校側は認識しているにもかかわらず
あまりにも、本当にあまりにも理不尽な宿題がでました。
保護者の方が学校側に軽減、もしくは内容変更を打診をしました。
宿題をやらないといっているわけではありません。
彼の得意な範囲での宿題にしてもらえないか・・・
せめて期間を延ばしてもらえないか・・・
そういうことです。
しかし、診断を勧めたにもかかわらず、
学校側は全くの無配慮・・・いえ
無配慮どころか、かえって厳しい言葉を浴びせる始末・・・
今回私は、塾人生始まって以来初めてことでしたが、
「教育委員会への相談」(訴え)を試みました。
もちろん保護者の方と一緒にです。
ここ数十年、理不尽な学校の対応は幾度か見ていますが、
ここまで試みたことは一度もありませんでした。
今回は・・・
・診断というか客観的な指標があるにもかかわらず
あまりにも無配慮で、威圧が度が過ぎていたこと・・・
・学校側の無理解と不勉強が目に余ったこと・・・
・今後中学生がこの高校を受験するといった場合、
決して勧められないと思ったこと・・・
わたしを駆り立てた理由は他もありますが、
とにかく単純に、生徒・保護者・学校・・・
どちらを見渡しても、今のままではいけない・・・
そう強く思ったからです。
現在、法律批准に伴って、文科省より
発達障害に関する支援拡大の要請が
各都道府県になされています。
➡文部科学省所管事業分野における障害を理由とする差別の解消の推進に関する対応指針の策定について
その中に「合理的配慮」というものあります。
「合理的配慮」とは、障害者が他の者との平等を基礎として
全ての人権及び基本的自由を享有し、
又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、
特定の場合において必要とされるものであり、
かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。
障害者の権利に関する条約 第二条 定義より
要は、学校側とよく話し合って
その生徒の状況に合わせた指導をしてくださいというものです。
これは、すでに確認していることですが
障害手帳の有無にかかわらず、
発達障害およびグレーゾーンの生徒すべてに当てはまるのです。
考えてみれば当たり前で
健常者であっても発達障害であっても
➡工夫と格闘は当たり前のことで、
ましてや今の障害の定義は
障害の「あるなし」ではなく
「強いか弱いか」という認識なのですから
すべての生徒に当てはまります。
必要な適当な変更及び調整は、
できるかぎり、当然のことをやっていくという感覚が大切です。
AIによって、人間とは何かを問われる時代ですが、
それと同じことが「発達障害」でも言えます。
「人間が育つとはどういうことなのか?」
「いのちとはなにか?」
そういう哲学を突き付けられているのが現代です。
イギリスではすでに「イン クルーシブ教育」といって
かなり進んでいるといわれていますが
日本はどうも内容も違い、後れを取っているようです。
当県、特に高等学校は特に遅れていると感じています。
これは、「もう義務教育ではないから・・・」という変な誤解があります。
繰り返しますが、
これは全くの認識不足で
義務教育だろうがなかろうが・・・
全日制だろうがなかろうが・・・
手帳の有無にかかわらず・・・
すべてにおいて合理的配慮がなされるというものです。

そういう意味で、前述の動画の
「すべての子供たちが同じ教室で学ぶ」大空小学校は
インクルーシブということになるのでしょう。
どちらが絶対的にいいのかは
正直私にはわかりません。
ただ言えるのは、県立高校へ通う2年生の彼に関することは
「おかしい」「理不尽」であったということです。
保護者の方にも学んでいただき
そして、ご理解をいただき
私も改めて法律等を学び、
各機関にも問い合わせるなどして
自分にできることをさせていただいた次第です。
「彼も もちろん頑張りますが、
学校も 勉強して教育の質を進展させてください」
そういう思いです。
発達障害やグレーゾーンの子どもにとって
その症状を無視され、威圧的に対処されることは
それはもう「絶望」でしかないのです。
かれも「学校を辞めたい」
「あの人たちと一緒の場所で呼吸したくない」
そう何度も私に吐露していました。
「弱いからだ」・・・
「社会に適応するのにそんなことではだめだ」・・・
そういう大人がまだいます。
全くのナンセンスです。
こういう問題の場合、当該の症状より
「二次障害」によって精神を病むことの方が問題となります。
生きることそのものへの放棄につながるからです。
現に問題は起きています。
➡自殺生徒は「学習障害」「能力異常に低い」教職員が発言
➡苦しみをわかってもらえない・・・ 発達障害
わたしたちは、生身の人間です。
「生きること」が受け入れられなかった人たちの絶望を
もっと想像するべきです。
教育現場が「市場原理」ではなく
「いのちの原理」で営まれなければいけない理由はそこにあります。
いのちあるものがいのちあるように・・・
そう願ってやみません。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
