平成の後ろ影③・・・迷走する教育
つまり、文科省の学習指導要領の方針の迷走です。
2002年(平成14年)4月から、
学校が完全週休2日制になりました。
学習内容も3割削減され、
円周率が3となった時代です。
いわゆるゆとり教育のスタートです。
そのとき6歳で小学校に入学した子は、
現在大学4年か就職1年目になります。
当時中学だった子どもたちは、すでに30歳になろうとしています。
ゆとり君とかゆとりさんなどと揶揄されています。
その反動で、2011年から「脱ゆとり」の政策に変わります。
さて令和最初の改定は2020年から・・・
まず、小学校が変わっていきます。
大改定の目玉は、プログラミング教育と道徳、
そして、4領域(「聞く」「話す」「読む」「書く」)を
まんべんなくこなせる英語教育だそうです。
ちなみに文科省は小学6年生に
どのくらいの英語力イメージしているかというと
・自己紹介に関する表現や発音、音声で語句を書き写す
・日本文化(行事や食べ物、味覚など)を表す表現や日本文化について伝えあい、書き写したりする
・好きなもの、スポーツなどの語順を考える。単語と単語のスペース気付く
・地域の良さを表す表現について伝えようとしたり、読んだり書いたりする
・過去の表現について(夏休みの思い出など)を話したり、書き写したりする
・小学校6年間の思い出について語句や基本的な表現を用いて書いたり伝えたりする
・オリンピック・パラリンピックについて話される内容を聞いて概要を捉える
・将来の夢を話す
・中学校の部活動や学校行事などについての表現や、他社に配慮しながら中学校生活について読んだり書いたりする
感覚として、現在の中2生(よくできる子)がやっていることを
小6がするということです。
英語をすることもプログラミング的思考を身に付けることも
否定はしません。
ただ、どうしてここまで英語教育に重点が置かれる改訂が行われるのか・・・
世の中の保護者の方は、そこを冷静に抑えつつ
子どもたちへの英語教育を考えてほしいのです。
わたしからみると、日本語学習の「国語」を二の次三の次にして
英語教育にここまで重点を置く政策を諸手を挙げて喜べません。
どうしてここまで英語教育に重点が置かれるのか・・・
それは、産業界からの要請です。
要は、「英語のできるやつを企業によこせ!」というわけです。
そして、その英語教育にはタブレットなどの
デジタル機材、通信インフラなどの導入に繋がりますので、
大企業同士、相性がよく連携しやすいということです。
何度も言いますが、私はそういった流れは止められないと思いますし、
別に反対というわけではありません。
ただ、明治に学制発布をされてから
「教育」は一貫して、社会・国家の要請(だけ)にこたえてきました。
国家が富国強兵であれば、個人もそのように・・・
戦争体制であれば、個人もそのように・・・
工業化、一律オートメーション化であれば、個人もそのように・・・
IT化、デジタル化であれば、個人もそのように・・・
その結果、現在の個人がどうなっているのか・・・
余談ですが、今の教育をそのまま加速すると
子供たちの「手」はなくなると思います。
第二の脳といわれる「手」です。
もちろん、物理的な「手」はなくなりませんが、
画面をスライドさせる一本の指だけの活動が多くなり
極端な話、脳の発達に影響が出ると思っています。
世の名門校(灘高校や麻布高校)は、
そういった危機をちゃんとわかっていて
「裁縫」や「水田稲作学習」の授業が取り入れられています。
話を戻します。
ちなみに英語が必要な職業は、世の中の1割といいます。
前述の小学6年生の英語到達目標をみて、
びっくりされた方もみえると思います。
しかも小学校5.6年生で学ぶ単語は600~700語です。
英語が必要な職業に就く1割のために、
残りの9割の子どもたちが
悲鳴を上げることになるのであれば、
それはおかしな話だと思います。
ただ、当たり前ですが、大企業界からの
「英語エリートが欲しい」の要望には応えられます。
私の予想ですが、いまの子どもを見ていて
これは悲鳴が上がること間違いなしです。
おそらく、授業数確保も大変で現場の先生も悲鳴が上がるでしょう・・・

英語教育はどう変わるの?文部科学省の発表をまとめてみたより
詰め込み教育は、みんなが同じスピードで、
同じ内容を、同じ量できるようにするためでした。
その結果、校内暴力・家庭内暴力の嵐が吹き荒れました。
よさそうに見えたゆとり教育も、実は、
エリート教育が目的だったことをご存知でしょうか。
教育課程審議会会長として、ゆとり教育に舵を切った三浦朱門は、
こう発言しています。(新・学習指導要領の答申の最高責任者として関わっている)
「つまり、できんものはできんままで結構。
戦後五十年、落ちこぼれの底辺をあげることにばかり注いできた労力を、
できるものを限りなく伸ばすことに振り向ける。
百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。
限りなくできない非才、無才には、
せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。
(中略)
国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、
すごいリーダーも出てくる。
日本もそういう先進国型になっていかなければいけません。
それが“ゆとり教育”の本当の目的。
エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」
いったい、こういう人たちは
人様の子どもを何だと思っているのでしょう・・・
この人の妻は、曽野綾子ですが、
「甘えるな
他人に迷惑をかけるな
生かされて生きることを自覚せよ」
のしつけ3原則で有名な
2000年の教育改革国民会議の委員をされている。
そして、その後のゆとり教育スタート・・・
三浦 朱門にインタビューした斎藤貴男はいう。
(斎)――それは三浦先生個人のお考えですか。それとも教課審としてのコンセンサス
だったのですか?
(三)「いくら会長でも、私だけの考えで審議会は回りませんよ。メンバーの意見は
みんな同じでした。経済同友会の小林陽太郎代表幹事も、東北大学の西澤潤一
名誉教授も……。教課審では江崎玲於奈さんのいうような遺伝子診断の話は
出なかったが、当然、そういうことになっていくでしょうね」
ちなみに、江崎玲於奈の発言は以下です。
「ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に
遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形に
なっていきますよ」
いかがでしょう・・・
現在行われようとしている「英語教育改革」も
同じ質のものではないでしょうか。
何度も言いますが、私は教育界が最新の技術と英知で
変わっていくことに何ら反対はありません。
ただその変化が、優生思想や一部の大企業・思想家の要請に
基づいて行われるとしたら、それは憤怒に値するものですし、
彼らの傲慢以外 何物でもないのでしょうか・・・
そう思うのです。
目の前の子どもや若者は、社会の期待に応えるためだけに
生きているわけではないのです。
1872年に学制が発布されて今年で147年・・・
確かに「功」もあるでしょう・・・
しかし、どんな「罪」をなしたかは歴史を見れば明らかです。
教育が迷走していくのは、
一個人のいのちと向き合わず
社会や国家、大企業の要請に沿おうとするからです。
平成を振り返って、やはり私が再認識すること・・・
ひとりひとりのいのちを見つめること・・・
その子が生き生きとする道を一緒に探すこと・・・
そして、試行錯誤しながらその入り口まで一緒に行くこと・・・
それを見送り、応援すること・・・
あらためて、声を大にして言いたい・・・
個人が社会のためにあるのではなく
社会が個人のためにある・・・
いのちあるものがいのちあるように・・・
たとえ町中の小さな塾であっても・・・
いやそういう塾だからこそなおさら
そういう「教育」ができるのではないか・・・
令和の時代、そう勇気を出してやっていこうと思います。
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
