春、清明のころ④・・・城下町犬山(中)
日本でからくりが盛んになるのは江戸時代だが、
すでに斉明天皇のときに、時を知らせるからくりが登場しています。
斉明天皇660年(斉明6年)5月、中大兄皇子(後の天智天皇)が
「初めて漏尅(トキノキサミ)を造る。民をして時を知らしむ」(『日本書紀』)
時とからくり・・・
実は、「時」は天文を顕し、
天文を制する者が、この世と人民を統治する・・・
そういう常識が古くからあります。
また からくりは、いまでいう AIやIOTになるので
最先端技術そのもの・・・
つまり、それをお披露目するということは、
自分たちが最先端の技術を持っていることを世に知らしめることになり
こんな技術を持っている「国」を攻め滅ぼすことはできないと
相手を牽制する役目も果たしているのではと思います。
これは、今の軍需産業と同じことだと思います。
それを、車山(だし)にのせ、山から神を降ろし、
鎮座してもらった後、まちまちを練りまわす意味は、
もう最強としか言いようがないのです。



神が降りた車山の上で、勝手に動く人形を見た当時の民衆は
神と人の融合(マジック)を見て、さぞかし感嘆したことでしょう・・・
同じからくりに、飛騨高山も有名で、
飛騨工「ひだのたくみ」(斐陀匠)といわれています。
平安末期の『今昔物語集』巻第二十四には、
桓武天皇の皇子高陽親王(賀陽親王)が
からくり人形を作ったという説話が記載されています。
また、巻二十四第五には「飛騨工」(ひだのたくみ)が絵師百済河成を驚かせるため、
四方に扉がある堂を作り、いずれの扉の前に立っても目の前の扉は閉じ
違う場所の扉が開く仕掛けを作った説話も記載されています。
まるで忍者屋敷です。
面白いのは、百済(朝鮮半島)出身の絵師に
からくりを見せたということです。
歴史を見れば、古代中国、紀元前2600年頃に
人類初の歯車を利用した方位を指し示す車が発明されています。
ある意味、元祖カーナビです。
(手引き書、指導書のことを指南書というのはここから来ていると思う)
また、紀元前後に中国ではすでに、
張衡によって水力渾天儀や水時計がつくられていますので
歯車などを使ったからくり技術を持った匠たちが
のちに日本(斐≒出雲)に流れ着き
(もしくは連れてこられ・・・)
その技術をわがものにせんとする時の為政者が
彼らを強制的に中央(大和地方)に移民させようとしたと思われます。
その強制的移民政策から逃れ、山深い飛騨(斐陀)までたどり着いたのが、
現在の飛騨匠民族なのではと思うのです。
つまり、絵師百済河成の逸話は、
中国、朝鮮半島、日本の文化技術の流れを
そのまま表す説話ということです。
以前にも書きましたが、
➡古代日本のアイデンティティ
日本のルーツと簡単に言いますが、そんな純粋なルーツはどこにもなく
先住諸民族を制圧しつつ成立したヤマト王朝という流れがあるのみです。
人も技術も服従させられた歴史と
それに反骨する民の気概が混ざり合った遺言として
いまの祭りが残されているのです。
「ヤマト魂」などといいますが、
何のことはない、「三国魂」(中国、朝鮮、日本)なのです。
(だから、越前三国という地名が今も残っているではありませんか・・・)
からくりを使った祭りが、なぜか中部地方に多いのは、
この地方の民の「服従と反骨」が繰り返しなされた証なのではないか・・・
岐阜県高山市の高山祭
美濃市の美濃まつり
愛知県犬山市の犬山祭
津島市の尾張津島秋まつり
半田市の亀崎潮干祭・・・
実に多いです。
現在のからくりは、祭りや浄瑠璃の舞台装置など
興行的要素(=民衆の楽しみ)の流れをくむものが多いが
おそらく もともとは、為政者を欺くため、
もしくは自分たちの民族の重要な秘宝や歴史書などを隠ぺいし、
のちのちまで保管したりするために発達したものではないかと思います。
どちらかというと表舞台というよりは
裏舞台(忍者屋敷など)が先行したのかもしれません・・・
からくり人形のあの細い目が
どこか不気味なほど涼しげなのは(笑)そのせいであろうか・・・

theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
