秋、寒露のころ⑬・・・か・かた・かたち
それは、いのちが生まれるところだ。
そして、その時に書いた渦の正体がわかる本に出会った。


(四角内のか・かた・かたちは管理人加筆)
ちなみに、イスラムのスーフィズムの祈りの儀式で円舞をしたり
ろくろで土を回すと活きた器ができるのはこういう原理だろう・・・
わたしはいま、自然体の受験を目指している。
受験や勉強そのものは、「狂科」にすぎないが
それでも、受験がいますぐ消えるわけではない。
ならば、彼らのいのちが
より自然体で過ごすことができる・・・
もしくは、自然体をつらぬける受験というものがないか・・・
そういうことを模索している・・・
もちろんそれは、努力を要しないとか
さぼればいいという単純なことではなく
それこそ、自分が呼ばれている高校や大学に
いや、もっというと自分が呼ばれている未来へと
自然と向かえるようなそんなアドバイスができはしないかと考えている。
いのちが輝く場が、
たまたま偏差値が高いところで
結果的に偏差値を上げる子もいれば
そうでない子もいる。
そうやって、
その子のいのちが輝く場所をともに探すのが受験(進路)指導と
堂々と言える時代が来ると思っている。
だからそのためには、
そういった指導は、宇宙の真理なのだと
裏付ける理論がないか探している最中である。
今回その根拠一つ、大きな一つに出会えた。
以前、医療と教育は同じ末路をたどるといった。
それは、こういうことだ・・・
これだけ病院が増え
医者にかかる人が増え
医療費もうなぎ上りなのに
なぜ病気がなくならないのか・・・
それは、医者が、病気には目を向けているが
健康(いのち)には目を向けていないからだ・・・
それと同じように、高度経済成長期より
これだけ中小大、さまざまな塾が乱立されているにもかかわらず、
いわゆる偏差値の高い高校へ受験ができるようになる生徒が
なぜ多く生まれないのか・・・
80%、いやせめて、半分の50%を超える数になっておかしくない。
そうなれば自然と偏差値が高い順に定員数も増えて当たり前である。
しかし、現実はもう何十年もたっているのにそうなていない。
これはどういうことか・・・
(ここからは、仮説・・・)
それは、塾は生きた教科を扱わず
死んだ狂科を扱ってるからだ。
生き生きとした子供のいのちに
死んだ狂科は入っていかない・・・
そもそも、勉強と、それにまつわる活動のほとんどが
子どものいのちにそぐわないからであろう・・・
(仮説おわり)
人のからだは進化するようにできている・・・
わるいことがあれば、
自分で治す力が体には備わっている・・・
医者も教育者もそれを手助けするだけだ。
なのに、いっこうに日本が、
偏差値か高くなって仕方がない(天才続出!?)
という子どもばかりにならないのは
どうしてだろう・・・
それは、なにかがずれているからだ・・・
がん患者に対して、
抗がん剤や放射線治療、手術を施しても
ガンがなくならないのは
そもそも、その治療が間違っているからだ…
教育も同じ・・・
まちがった導きをしていれば
成績に対するとらえ方が歪み
「自殺」や「いじめ」・「劣等感過多」など
いのちを削る結果になる・・・
わたしはこのずれに対して、
堂々と こういう理由なんですといった根拠を示し
日常をほぼ勉強のみで子供の力量をはかる大人や
それを求める窮屈な指導に一石を投じたいと思っている。
私たちの仕事は、医者ではないが
いのちと向き合っていることには変わりない・・・
医者は文字通り、生死を左右するが、
教育に携わる私も、
「生きながら死んでいる」子どもになるような指導は罪である。
子どものいのちが輝く先へとそっと
背中を押すだけである。
勉強が好きな子はいい・・・
でも勉強が嫌いというだけで生きにくい未来になるのは何かおかしい・・・
大人の良し悪しの基準がお金(給料)になるように
子どもの良し悪しの基準が勉強・・・なのか?
そうなっていることへの違和感がこの世から消えていく・・・
もしくは自分で消せるほどのエネルギーを・・・
子どもたちに授けられたら・・・
わたしの日々の言行や与えられたこの場が
いのちを生み出す「かた」になれたらと
こころから思う。
いまは、零細塾の塾長のたわ言と笑っていただいて構わない。
でもいつか、
樹木希林さんのような年齢になったら
堂々と、飄々と言えるように
地力をつけていきたい・・・
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体
