秋、白露のころ③・・・落語の「ばか」
「なにばかなことやってんだ」
「ばかいっちゃぁいけねえよ」
落語にはよく「ばか」をする人が出てくる。
しかし、この「ばか」は実に愛嬌がある。
また、その「ばか」には嫌味がない。
その「ばか」を噺家も観客も笑いの種にするのだが
本当にばかにして笑うんではない。
いってみれば、落語の中のばかは
間が抜けている人であり
うまくできない人であり
数も数えられないような知識不足の人である。
しかし、われわれは
その人たちと対極にある「賢い」人なんだろうか?
きっと違うと思う。
このたくさんの「できない」は
きっとだれにでもある「ばか」さ=「弱さ」なのではないかと思う。
ましてや、年を取ればみんなそういう「弱さ」を持つことになるはずだ。
落語のすばらしさは、
その弱さを笑いによって許してもらえる安心感と
その弱さゆえに「お互い様ですな」と思いやるやさしさにまで
私たちを昇華させることなんだろうと思う。
現代の学校や職場で、相手をバカにするは、
本当にバカにしているから
バカにしている本人は笑えても
バカにされている側は全く笑えない・・・
周りも笑えない。(もしくは、ボスに合わせてむりやり笑う)
これがいじめだ。
本当の笑いやユーモアは
そこにいる人がみんなどっと笑っちゃうことだ。
「オレってばかだなー」
「わたしってばかよねー」
って互いに笑いあえるのが本当のユーモアだ。
いじめが多いという今の社会は
落語にもっと親しんでゆるんだほうがいいかもしれない。
「お互い様」
「明日は我が身」
そういうやわらかい世界を養えるのかもしれない。
さらに、落語の中のばかは、ご隠居なり、お店(たな)の亭主に
日頃から可愛がられてるバカが多い。
つまり、いつも面倒を見ているから
決して冷たく扱うばかではない。
最近の「ばかにする」は
よく面倒も見ないでばかにすることが多いから厄介だ。
職場でも学校でも
「生産性」「効率性」を重視するので
時間があまりにも早く流れる。
だから、その「ばか」を面倒見る時間が取れないらしく
人はとても「冷たく」なっていく・・・
江戸時代は、時間もゆったりと流れているので
多少の失敗が許されつつ
「おち」によって大笑いで終われる・・・
これはシビアなことだが
これからは、学校にも会社にも
発達障害が5.6人に一人と言われている。
また、もうすぐ3人に一人がお年寄りだ。
➡夏、大暑のころ②・・・本間先生、発達障害まとめ
➡http://pysr2012.blog.fc2.com/blog-entry-1535.html
今後、このやわらかい社会は必ず必要になる。
このやわらかい社会をつくるためにも
落語はとても役に立つのでは・・・
実家から帰る道中・・・、
先日いただいた落語のCDを聞きながら
そんなことをあれこれ考えていた。
またライブで落語を楽しみたくなった・・・
theme : 気付き・・・そして学び
genre : 心と身体