夏、夏至のころ⑭・・・当事者
千島博士が定年退職を迎えたあとに書かれた文がある。

日々いのちと向き合われた千島博士の学生への言葉・・・
いのちに関して真実を追求する一人の研究者として、
後進を育てる教育者として、
これほど目指すべき人格を示す方はいない。
「私は学生たちに講義するとき、
既成学説と自分の新説との双方を話し、学生に対して
その何れが正しいか試してみたり、
それができない時には、自分の体に応用してみて、
正しい判断力によってそれを検討してみなさい。
どれをとるかは君たちの自由であることは云うまでもない。
ただ、私の説を採る方が事実とも一致し、
健康や幸せのためにも役立つものと私は確信している」
ひとつの確信がありながらも
あえて追いかけてくる若者たちに
その選択の自由を与え
考えさせ、励ましつづける・・・
この言葉は、後進の学生だけに向けられたのではない。
わたしたち一般の素人にも投げかけられた言葉ではないだろうか?
「その何れが正しいか試してみたり、
それができない時には、自分の体に応用してみて、
正しい判断力によってそれを検討してみなさい。
どれをとるかは君たちの自由であることは云うまでもない。」
母は、自分なりに死生観、幸福感を持ち
いのちを全うしようとしている。
母は、素人だが一人称(私)の当事者だ。
どういう方法を取れば、納得がいき
前向きに生きられるかということを
他のだれでもなく母がいちばん考えているし、
よく知っている。
わたしは、1.5人称の当事者だ。
だからそれを全面的にサポートする・・・。
ただそれだけだ。
1.5人称とは、「あなた」になり切らない
私とあなたの間のこと・・・
以前から千島学説は、ソマチッドやSTAP細胞を通して知ってはいたが、
それを人に伝えるときには、
2人称、よくいって1.9人称だったのだろう。
今回、1.5人称の当事者になって
母の好きなように、生きたいようにさせてあげたい思いから
もう一度千島学説を学びなおして確信が持てた。
千島学説から
母がそうしていいという根拠を得たのは大きかった。
医療は、個人の死生観、幸福感に寄り添って
はじめて技術と言えるのではないだろうか・・・
千島喜久男博士は、生物学、環境衛生学、医学の発展は、
個人の健康と幸せのためにあるという信念を持たれていたと思う。
「私の説を採る方が事実とも一致し、
健康や幸せのためにも役立つものと私は確信している」
どこまでも当事者に近い研究者だったのだ。
theme : いのちあるものが いのちあるように
genre : 心と身体
